散歩書籍メモ:「御馳走帖」の中の「芥子飯」内田百閒著
何をいまさらという印象を抱かれた方もいらっしゃるかと思います。内田百閒。”間”ではなく”閒”でしっかり表記したいところ。「御馳走帖」や「百鬼園随筆」が続々と文庫化されてわれわれも読めるようになったのは、80年前後だったと記憶しています。高校生のコドモでありながらこれを読んでいた記憶もかすかにあり、もっと前かも知れません。
散歩書籍を色々入手して読んでいるなかで、自分にとっての散歩随筆の最高峰は「御馳走帖」の中にある「芥子飯」だと思うようになりました。
「芥子飯」は、百閒先生が早稲田に蟄居していた時代、すなわち糊口で苦労をされていた時代に、何かの用事があって小石川駕籠町(現在の山手線駒込駅と三田線千石駅にはさまれた一帯)から田端に行った際に、途中でカレーが食べたくなり、がまんできなくなって食べたところ、帰りの電車賃がなくなって田端から駕籠町まで歩いて帰ったという、まずはたわいのないお話です。わずか3ページほど。
これのどこがいいのか?まず、青森県弘前市出身の自分にとって、明示大正昭和を生きた文人が書く東京にまつわるお話は、具体的な地名が出てくるだけでたまらないところがあります。小石川駕籠町はいまネットで調べて上のエリアだと判明しましたが、以前に白山に住んでいたことがある自分にとっては、折々遊びに行った小石川植物園の小石川にゆかりのある町名ですから、それが活字になっているだけでうっとり。
田端は縁がなかったけれども、一度いまの王子神谷に越して来る前に部屋を見て歩いたことがあり、あのへんはしっとりとした歴史のある住宅地なのだということはよく頭に入っています。改めて読むと「あのへんからあのへんへ歩いたわけか」ぐらいの大まかなマップが頭のなかで浮かび上がります。東京の具体的な地名に関する記述を読んで、頭のなかに地図ができる瞬間。これが地方出身者の自分にとってはたまらない。
その他、当時の地名とくっついて出てくる食べ物屋さんの名前がまたたまらない。当時、ライスカレーを出していた「上野の三橋亭」「烏森の有楽軒」といった固有名詞が微妙に好奇心をくすぐって興が尽きません。その店が現存しているかどうかを問わず。
これらが枝葉だとすれば、幹は内田百閒の行間からにじむ高踏な散歩の精神とでも言うべき、ある種の姿勢です。これが鮮やかすぎるぐらいの印象をくっきりと刻みます。
昔学生の時分に、小石川掃除町の裏に汚い洋食屋があつて、当時は一般にまだ洋食が高かつたが、その店のライスカレーは十銭であつた。同学の太宰施門君と時時食ひに行つて、その店をカフエー・マンヂヤンと愛称した。その頃は町の洋食屋に変な給仕女なんかゐなかつたから、落ち着いてライスカレーを食ふ事が出来たけれど… 中略 早くあつちへ行つてしまはないかなと考へてゐる内に、註文のライスカレーが出来た。
一匙二匙食ふ内に、女のゐる事なんか気にならない程いい気持ちになつた。ふうふう云いながら、額に汗をにじませて、匙を動かした。すると女達は起ち上がって、二人共、すうと向うへ行つてしまつた。その後姿を見送つてやれやれと思つてお皿の中を見ると、もう残りは少い。矢つ張り食つた様な気がしなかつたと思つた。十銭玉をぱちりと卓子の上において、外に出てから、これから歩く道のりを考へたらうんざりした。
昨日、文人の温泉系のエッセイばかりを集めた本を拾い読みしていて、文人っぽいエッセイのスタイルの源流はおそらく内田百閒ではないかと思ったりしましたが、どなたかそのへん考証されているのでしょうか。