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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

カジュアル・デイリー・ライフ・アート

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モダンアート全般を知っているわけではないし、コンセプチュアルアートを語るための論理的な枠組みがあるわけではないのですが。

表現の対象領域ということで言うと、たぶん、これまでにすべての可能性が試されているように思います。鑑賞者が表現の対象に含まれるのなんかは70年代にやりつくされた感じがするし(自信なし)、アーティストのある記憶が表現の対象になっていて、それを反復的に鑑賞者の前で(ミュージアムで)再現して見せることがアートになっているというのがあったり。ある時刻にある角度である方向を見ると「はっ」とするアートがあったり。言葉で書いてもわけわからなくなるだけですが。

日常たんたんと流れていく時間を表現の対象にしてしまうという試みもありました。

いま考えているのは、たぶんおそらく、ウェブやその周辺のコミュニケーションツールのリテラシーが広がっていくなかで、ネットの中に何かを刻み付けていく行為を含んだその人自身がカジュアルなアートになる、というような人たちが少し出現しているのではないかということです。鑑賞者の立場から見れば、アート的な価値を持っているのは、その人がネットに刻みつけた何かなのですが、その刻み付けられたものは生身のその人と不可分であり、それだけを「作品」として取り出しにくい状況にあります。
かと言って、その人自身に「作品」としての価値が宿っていると考え、その人自身をアート流通に乗せようとしてもたぶんうまくは行きません。

作品の境界線が定めにくい。作家と表現とを明確に区別しにくい。そういうアートです。

現在念頭にあるのは、ここの方とここの方とここの方です。

このアートの特徴は、変化を含んでいるということです。表現内容の変化、表現する主体の変化とともに、その人を取り巻く状況の変化も自然と含まれてきます。変化のなかで毎日、まっさらな状態から書かれるテキストや掲出される画像がコンテクスチュアルな意味を持ってきます。それからWeb2.0的なネットワーク環境のフィードバックによる変化ということも含むわけですね。

これがシリアスなアートではなく、カジュアルなアートであるということも重要です。シリアスなアートこそがアートであるとする立場からは、たぶん、これがアートだとは認められません。けれども、アートの本来的な”機能”が「少し未来に属する価値観を、ある形式を借りて、非常にユニークなやり方で伝達する個人的な行為」であるとするならば、これは紛れもなくアートです。しかも日常に属するテクスチャーがある。

(なお、ここの方は、別途しっかりとしたファインアートをやっていらっしゃいますが、自分がこの投稿で指し示しているのはブログの方です。ファインアートの方は、本投稿とは別な文脈で語られなければなりません)

たぶん現在ある動きはさきがけであって、メディアリテラシーの高い世代が活発に表現行為を行っていく時代になると、たぶん、ジャンルとして確立すると思います。それがカジュアル・デイリー・ライフ・アートと呼ばれるのか、logging なんて言う非常に記号的な呼称を持つようになるのかわかりませんけれども。

自分はすぐに、価値のあるものには値付け…とか、市場性を持たせて市場参加者を醸成するとかいう方向で考えたくなってしまうのですが。

それは別としても、才能は本来的に希少なものであり、才能は、その周囲にいる誰か特定少数が伸ばしてあげるという分別をしなければなりません。端的には、そうした表現行為が持続可能で、かつその人自身がハッピーであるようなお金の流れが最重要課題であり、そのためのメカとはどういうものか。ビジネスモデルがわかる人たちが考えていかなければならないことです。

追記。

以前、「自分を『作品』にしてはいけない」という投稿を掲げたころがありますが、あれと矛盾はしません。非常に微妙なところなのですが、作家性の自覚があるかないか、表出することで受けるリスクに対する覚悟があるかないかが、カジュアル・デイリー・ライフ・アートたりえる人と、そうではない人との1つの分岐点になるかと思います。

追記2。

新しい表現メディアが出現すると、新しい表現者が出現するのは世のならいであって、ウェブが個人に降りてきた95年~97年頃に、ここで書いたカジュアル・デイリー・ライフ・アートに近いことをやっている人たちは、もちろん存在していました。それは知っています。

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