いきなり「さよならアメリカ さよならニッポン」が聴きたくなって
先日いきなり、はっぴぃえんどの「さよならアメリカ さよならニッポン」が聴きたくなって、すぐさまヤフオクにかけこみ、CD盤とLP盤の双方を見比べた上で安い方のLP盤を入札しました。”敵”が2名ぐらいいて値がつりあがるかと思ったらそういうこともなく、1250円で落札できました。到着したら、オリジナル発売後から数年経って再リリースされた「高音質盤」でした。ラッキー。
この曲もこのアルバムも実はまともに聴いたことはなくて、その時期にラジオで耳にしたぐらいです。85年ぐらいに何かのイベントで再結成して「さよならアメリカ さよならニッポン」を演奏したという記憶があります。これもラジオで聴きました。そんな歌が頭のなかに残っているわけで。
音の作りが細やかです。ヴァン・ダイク・パークスのプロデュースが効いているんでしょうか。「氷雨月のスケッチ」は最高ですね。肝心の「さよならアメリカ さよならニッポン」は、自分の記憶にあったままの音。高音質版だからどうのこうのということはなく、感激がリフレッシュされて非常に盛り上がるということもなく。いや渋い歌ですよ。難解で深遠です。「さよならアメリカ さよならニッポン♪バーイバイ♪」を連呼するだけなんですから。
Wikipediaではっぴえんどの項目を見ていたら、「日本語ロック論争」という項目がアップされており、次のような記述がありました。
-Quote-
この論争の中で「日本のこれからのロックは日本語で歌うべき」とする人々が、はっぴいえんどを日本語によるニューロックの創始として支持し、これがのちの再評価のなかで「すべての日本語のロックの創始ははっぴいえんど」という見解が広まった[要出典]。
-Unquote-
米国に本拠がある会社のなかで仕事をさせてもらっていると、たまに、「さよならアメリカ さよならニッポン」という気分になることがあるんですよね。たぶん私だけではないはず。それは職を離れたくなるという意味ではなくてですね。
国際展開をしている米国企業一般にある「普遍的な国際主義」「標準化された国際的な価値感」みたいな概念装置と、日本側がそれを翻訳して日々の業務に用いている「日本版国際主義」みたいな方法論の双方を目の前に置いていると、「たぶん違うよな。別な道があるよな…」と思えてくるということなのです。そういったいわく言いがたいもごもごの部分を、はっぴいえんどの「さよならアメリカ さよならニッポン」は70年代の前半に明確に歌っていたわけで、そういう早すぎる問題把握はやはり天才的であったかと。
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追記。
それで細野晴臣はまず”南方”に行き、いろいろ巡ってTOKIOに戻ってきたわけか。