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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

ポランニー-暗黙知-人はなぜ特定のウェブを再訪するのか?

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World Wide Webはティム・バーナーズ=リーが考案した当初から、「知るためのメカニズム」であったと理解しています。あるキーワードやフレーズにリンクが埋め込まれており、そのリンクをたどってリンク先に行く。すると理解が深まる。これを使うことで知ることができる。その本質は、Web2.0の今になっても、そしてさらにバージョンが上がってどれほど洗練されようとも、変わらないのではないかと考えています。

「知る」ということについて、ポランニーが色々とおもしろいことを書いているらしいということがわかり、「暗黙知の次元」(マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫)を読んでみました。
彼には語るべきものがたくさんあり、それが次から次へとあふれてくるという書き方がしてあります。執筆当時(60年代初頭)、ソ連の社会主義が純粋に学に拠る人たちを迫害していたという背景があり、それに対する非難が長々と語られたり、実存主義をこてんぱんに打ちのめしていたりと、脱線に次ぐ脱線という観がなきにしもあらずで、論旨が読み取りにくい嫌いはありますが、それ以前には誰も語っていなかったことを一生懸命説明しているのだという迫力はかなりあります。

暗黙知とは何か。暗黙裡の認識とは何か。それを短いフレーズの引用だけで正確に説明できるという箇所はなく、延々とコアになる概念の周辺をうろうろしつつ、時に近づいてみたり、時に遠ざかってみたりという書き方なのです。それでもあえて何箇所か引用すれば…。

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暗黙知の構造によれば、すべての思考には、その思考の焦点たる対象(コンテント)の中に私たちが従属的に感知する、諸要素が含まれている。しかも、およそ思考は、あたかもそれらが自分の体の一部でもあるかのように、その従属的諸要素の中に内在化(dwell in)していくものなのだ。したがって、ブレンターノが説いたように、思考は必ず志向的になり、それのみならず、思考には、必然的に、思考によって統合されることになる基礎的諸要素が詰め込まれることになる。(p12)
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私は人間の知を再考するにあたって、次なる事実から始めることにする。すなわち、私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。(p18)
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身体内の何らかの作用が私たちに意識を惹起するときにはいつも、暗黙知は、いま自分が注目している経験を介して、その作用を理解する。(p36)
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ディルタイは、ある人の精神はその活動を追体験することによってのみ理解されうる、と説いている。またリップスは、審美的鑑賞とは芸術作品の中に参入し、さらに創作者の精神に内在することだと述べている。(p38)
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暗黙知を内在化と同一視すれば、それは暗黙知の概念において重視すべき場所が移動することを意味する。そもそも私たちは、暗黙的認識を、私たちが語れる以上の事柄を知るための方法として、心に描いたのだった。私たちは近位項(今泉注:自分の内面にある暗黙的な理解の布置を含むもの)と遠位項(今泉注:近位項の布置を理解のためのモデルとして適用する対象)という暗黙知を構成する二つの条件を識別して、さらに、近位項と遠位項という暗黙知を構成する二つの条件を識別して、さらに、近位項から遠位項へと注目が移動し、その結果、目下の注目の対象たる「統一性を持った存在」へと「個々の諸要素」が統合されていく様子を、認識したのだった。
 中略
その結果、事物をそれ自体として注視する代わりに、私たちは、事物が構成する包括的存在との関係において、事物を感知するのだ。そう考えると、次の点もよく腑に落ちてくる。つまり、事物が統合されて生起する「意味」を私たちが理解するのは、当の事物を見るからではなく、その中に内在化するから、すなわち事物を内面化するからなのだ。
-Unquote-

非常に抽象的な説明の仕方をしているので、コレだ!というどんぴしゃの理解が得にくい記述ばかりです。よって、畏れ多くも、大胆にワタクシ的な説明を加えたいと思います。
ポランニーが、暗黙知の概念で説明しようとしているのは、次の事柄です。上に引用していない、その先の部分も含めて箇条書きで記します。

①物事の理解は、その理解に先だって、すでに自分の内面にある。これは言い換えれば、人はすでに(暗黙的に)(=コトバでは説明しにくい形で)理解しているもののみを理解するということに他ならない。
②暗黙的な理解には、身体が大きく関係している。今泉が拡大的に解釈したところによれば、人は、身体の鍛錬によって「型」を習得することにより、暗黙的な理解を醸成できる。
③暗黙的な理解の「かたち」は、理解する対象の「かたち」に似る。というよりも、前者の「かたち」が後者の「かたち」を積極的に規定する。これは、オスカー・ワイルドが言っていた「自然は芸術を模倣する」というのに近いように思われる(未定義状態だった自然に関して、芸術家の暗黙的な理解のかたちが表出されることによって明確な定義が与えられ、その表出に接した人たちにも”見える”ようになる)。

①~③に関して、ずれているようでしたらご指摘ください>ポランニーにお詳しい方。

以上の理解を元にすると、次のことが言えます。すなわち、人がWWWのリンクをたどって、見たいページに赴くのは、すでに暗黙的に理解している内容を確かめるためである。別な言い方をすれば、人は、理解したいものを理解するために、特定のページに赴く。あるブロガーの特定の投稿に二度三度アクセスするのは、そこに暗黙的な理解の内容の明示的な記述があるからである。

あるいは、こういうことも言えるかも知れません。人が、ある個人のウェブサイトを何度となく訪れるのは、自分の暗黙的な理解と共通の暗黙的な理解がその個人にあることを察知するからである。そして、暗黙的な理解が、明示的に表現されるのを期待している、待っている、その場に居合わせたいと思うからである。

ウェブ上の振る舞いをこういう風に理解することにより、どんなメリットがあるのかと思われるかも知れません。アクセスするという行為がただのアクセスではなく、暗黙知がそれに対応する何かを求める行為だということになれば、そこで何らかの経済を絡ませたトランザクションが成立するのではないかと思うわけです。(と、すぐにお金に結び付けて考えたがる…)

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