Report on Japan's infrastructure topic on weekend.

「2ちゃんねるが厄介な『空気』を追い払った」史観

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山本七平氏の「空気」の考え方を再び取り上げます。

日本では様々な状況において、なんとなくその集団におけるものの見方の趨勢が決まり、もって意思決定に近いものがなされ、それで物事が進んでいくのですが、そこには「意思決定をした当の本人」は存在せず、従って、その意思決定に責任を持つ人がおらず、物事がうまく終始した時はよいのだけれども、何かをしくじってしまった場合に、責任を持つ人がいない状態に陥る。それはやはりヘンではないか?では何がヘンなのか?日本では「空気」が意思決定するからではないか?そうだそうなのだ、というのが山本七平氏の了解の仕方です。

彼がこのような思考をするに至った背景には、彼自身も砲兵として従軍した、太平洋戦争の顛末があります。未だに真の戦争責任は誰にあり、誰が裁かれるべきで、誰がそうでなかったか、といったところで答えが出にくい状況にあるというのは、おそらくは、山本七平氏がにらんだように、「空気」による意思決定の連鎖があったのではないかと私も推察します。

最近では、日銀の福井総裁が株式および村上ファンドへの投資によって1,000万円単位の利益が出たことが明らかになった際に、様々な報道メディアによって「福井総裁は辞任やむなし」という論調が作り上げられました。あれが「空気」が醸成されるパターンの好例だったと思います。
彼は法を犯していたわけではなく、日銀の内規を破っていたわけではなく、福井俊彦氏個人として、自分の金融資産の一部をリスク商品に投資していただけなのに、そしてそれがたまたま利益を生んだだけなのに、なぜそれで辞めなければならないのか?素朴に考えると、彼にはまったく辞める理由がありませんでした。

けれども、新聞、週刊誌、テレビのニュースやワイドショーなどは、日を追うごとに「辞任必至か?」という論調に傾いていき、それにあおられる格好で、テレビの記者のマイクを向けられた各政党の党首なども、「辞めるか辞めないかは本人の決断だ」などと至極曖昧に「辞任した方がいいんじゃないの?」というニュアンスをにじませた発言をするしで、なんとなく福井総裁は辞任して当然ではないかという「空気」が醸成されていきました。
この頃、土曜朝のニュースまとめ番組をみていて、ある党の党首が、「もう辞めて当然ですよね。こうなったら」という「空気」煽られまくりの発言をしていて、おまけにその後でぺろっと舌を出しそうな表情になったのを見つけてしまいましたが、ことほど左様に「空気」の尻馬に乗っかる人が出てきたりします。

この時、非常に興味深かったのは、ブログなどインターネット全般から受ける印象はかなり冷めていたということです。
以前であれば、われわれ個人によって盛り上がる世論は、どの新聞を見ても、どのニュース番組を見ても「福井総裁辞任やむなし」と言っている状況では、「やっぱそうだよな」「そうだそうだ」となったものですが、現在はそうでない状況ができているような気がします。

われわれはもはやマスメディアが見るような大衆ではないし、ある広告代理店が命名した分衆でもない。一人ひとりが、考える時には考えるし、反応したくない時には反応しない。投稿する人は投稿するし、コメントを書く人は書く。2chでスレを立てる人は立てて、レスをつけるひとはつける。

そういう中で、報道マスメディアによる、ある方向への誘導にはあまり乗らなくなり、むしろ、インターネット上で個人の考えの交流のなかから自然発生的に起こる潮流の方に、リアリティを感じるようになっているのではないかと思います。(その潮流が山本七平が言っていた「空気」なのかどうか、自分は今のところはわかりません。)

山本七平氏は、日本の報道系メディアは、その時々の社会の重要な問題に関して「空気」を醸成するように動き、その「空気」が多くの場合は誤った方向への誘導であり、その誘導に大多数の日本の社会の人たちが乗りやすいということを、大いに問題だと考えていました。
けれども現在では、彼が問題視していたその状況はかなり消え去りつつあるようです。

自分はあまり2chの書き込みに参加したクチではないですが、おそらくは、2chが果した役割というのは小さくないと思い始めています。山本七平氏の「水=通常性の研究」(文芸春秋に連載された「『空気』の研究」の続編)に次のような一節があります。

-Quote-
 ただ問題は、この秩序を維持しようとするなら、すべての集団は「劇場の如き閉鎖性」をもたねばならず、従って集団は閉鎖集団となり、そして全日本をこの秩序でおおうつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ないという点である。鎖国は最近ではいろいろと論じられているが、その最大の眼目は、情報統制であり、この点では現在の日本と、基本的に差はない。
 中略
 このまま行けば、日本はさまざまな閉鎖集団が統合された形で、外部の情報を自動的に排除する形になる、いわばその集団内の「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になって行く 後略
-Unquote-

前後の文脈を補うと、日本の従来の状況では、真実を隠蔽する力が働き、その隠蔽に社会の人が参画することによって、ある種の秩序が保たれていたというなかで、「従って集団は閉鎖集団となり…」と続きます。
ここで自分が着目するのは、「情報統制」という言葉です。そこには情報統制と彼が名指すような状況があった。その情報統制は、情報の流れを司る人たちによってなされていた。多くの日本の人はそうした統制された情報を読み、それで世界を把握していた…。もちろん現実はそんなに単純なものではなく、もっと複合していて、一筋縄では理解しえない状況もあったと思いますが、彼が言うそうした傾向はあったものと、私も考えます。

そうして、そのような「情報統制」が長らく土壌としてあったなかで、2ちゃんねるが忽然と登場した。
そこでは、「統制」されていた内容もそうでなかった内容も、ありとあらゆることが書かれる。それによって、閉鎖的なところに風穴が開き、「統制」されていた内容に「水」(山本七平用語)が差され、「情報統制」が自然と無効化していく。言い換えれば、報道マスコミによって大きな影響を受けてきたわれわれの世界把握が、より多様性を持つようになった。
そういうことが90年代後半に起こったのではないか?と思うわけです。山本七平氏が憂慮していた「空気」は2ちゃんねるが粉砕した。そういう史観に立つと、少しおもしろいと思いませんか?

Comment(37)

コメント

Bar

ぜんぜんそう思いません。

たしかに数年前までは、ある意味
「2ちゃんねるが言論の閉塞感を吹き飛ばしている」
感があったのは事実です。しかしそれは当時、2ちゃんねるを構成していた主要参加者が社会のエッジな人だったり、今まで日の当たらなかった人であったりしたからです。ほかのメディアとは異なり、冷静に対する熱狂、熱狂に対する冷静というアンチテーゼを提示することができました。

今では2ちゃんねるはごくあたりまえの存在になり、ふつうの社会とほぼ似たような構成の人々が参加するようなコミュニティになりました。ふつうの「メディア」になってしまったのです。ここではふつうのメディアや社会と同じように「空気」が強制されます。いみじくも参加している人間が
「空気嫁」
と頻繁に発言していることでもわかります。それだけでなく、このような状況になると2ちゃんねるの「疑似匿名に依存した暴力性」というものが強く前面に押し出されるようになります。

2ちゃんねる発の「祭り」が頻発するようになった背景にはこのような事情があります。これらの祭りの実態を見てみれば、「空気」に基づいて他人を糾弾するというどこかで見たような図式がカリカチュア的に過剰化して再生産されているのがわかるはずです。もちろん、攻撃する相手は新聞や雑誌などと微妙に異なることがあります。しかし、それは「空気嫁」である実態と質的に異なるものではありません。

現状の2ちゃんねるは、もはや風通しをよくする場ではありません。疑似匿名に依存して、ヘイトスピーチを大量生産する「暴力的空気の一大工場」です。短い時間でコミュニティの性質は大きく変わります。それを忘れて2ちゃんねる礼賛に走ることは、将来に大きな災いを生むことになると思います。

このあたりの見方について、別エントリでも深く反論をお聞きしたいところです。

そうですね、「史観」というくらいの距離を持って見ると、ちょっと面白いかもです。

私も2chでは読み書きしなかった方ですが、それでもたまに書き込むときには「2chの空気」というのが働いていたと思います。普通に書いてしまうと、「ちょっと浮いちゃうかな?」という感覚。それは自分が浮くのが恐いというよりも、「その空気を壊してはいけないような気がする」という直感的な感覚だったと思います。

仮に、2chがその…全日本を覆う空気に対するAlternative足りえたのだとすれば、他の掲示板に充填されていた空気との違いは何だったのか。そもそも、日本人は潜在的にその空気の打破を望んでいたのか。望んでいたのならばそれは何故か。とか、mixiの成功(仮)は「空気」に対するNeedsへの解だったからではないか。とか…。

もしも、「もうひとつの空気」というNeedsがあるのだとすれば、「閉鎖のしくみの巧さ」がキーになるのじゃないか、、などと考えたりしました。

ari

Barさんの意見に同意します。
私は、2ちゃんねるの始まりから、ずっと見てますが、最近の2ちゃんの荒れぶりはひどいものです。ちょっと発言しただけで、「右翼」や「ブサヨク」、「ニート」や「引きこもり」みたいな、レッテル張りがまかり通ってます。携帯から書き込めるようになったこともあるのかもしれませんが、意味不明の稚拙な書き込みもずいぶん増えました。私は、車関係の板をのぞいていますが、メーカーのHPに行けばわかることを、当たり前のように質問する投稿者が多くてうんざりです。(「○○(車名)は、ハイオクですか、レギュラーですか」など)
2ちゃんねるを一つのサブカルチャーとして見るのは結構ですが、日本文化に風穴を開けたというのは、いくらなんでも過大評価だと思います。
日本社会の「空気を読め」「お上には逆らうな」「長いものに巻かれろ」的な雰囲気は、江戸時代の300年にわたる封建的な幕藩体制がもたらしたものだとも思います。そういった気質が、短期間で変わるとは私には思えません。そういった意識の変化が、会社や学校、病院、役所、老人保健施設など、あちこちで同時多発的に起きているならともかく、ネット上、それも2ちゃんねるという局地的な現象を取り上げて、日本人の気質を論じるのはいかがかと。
あと、私のよく読んでいるブログでは、福井総裁は辞めるべきという意見が多かったですよ。現実社会と同じで、ネット上にもさまざまな(右から左まで?)意見があります。
「ネットでは」とか「ブログでは」といった、論じ方はもう出来なくなっているのではないでしょうか。

Cz

長いこと2chで削除人をしていた者です。
私は今泉氏の意見を強く支持します。
昔からの言葉で言う「世間様・お天道様」に近いモノが、あそこにはあると感じています。
その人のバックグラウンドが何であれ、アホな言動や行動をしたモノは糾弾され、
その逆に世の中に何の影響力も持たない「引きこもりの中卒デブニート」ですら、シャープな意見を言えば支持される。
こんな場所は、今までどこにも存在しませんでした。
丁度今では、直木賞作家がホットな話題ですよね。

少しの反論コメントを以てして、今泉氏の読者全員がそういう意見を持っていると感じさせることが無いよう、敢えて書き込ませていただきました。

Barさん、コメントをありがとうございます。
色々と考えてしまいました。
「空気嫁」という言葉を初めて知りました。このところずっと2chを覗いていなかったもので。

>ここではふつうのメディアや社会と同じように「空気」が強制されます。いみじくも参加している人間が「空気嫁」と頻繁に発言していることでもわかります。

ここでの「空気」はまったく山本七平氏が論じていた空気そのものですね。なぜそのようになってしまうのか?私を含めて、日本人には生得的に備わった集団的な思考法であり、放っておけば、その性向が出てくるというものなのでしょうか。
昔よく読んだユングによると、一国の国民の基本的な精神は100年、200年というスパンではそう大きく変わるものではなく、例えば産業革命のような大きな社会の変化があったとしても、何らかに向き合う心的な態度は、かなり旧弊な人間の態度を引きずると言います。仮にIT革命のような変化によって、意識的な部分が「開けて」、仕事や私生活の比較的表層的な部分では、IT、ITしたスタイルになっていても、時々は意識水準が下がるような状況や、”ゆるくても構わない”ような状況が訪れると、旧来のパターンが出るのかも知れません。
(ここで思い出すのは、明治の”開花”に大きな影響を受けていたにも拘らず、明治天皇の崩御によって大きなショックを受けて、また乃木大将の殉死にも大きく影響され、最終的にはある種の殉死を選んでしまった、漱石の「こころ」の先生の心的な態度です。ショックによって”開花”した意識水準が急激に下がり、先祖がえりのような行動パターンがくっと出てきたんだと思います。)

自分は、日本人として生まれて育って日本語を使っている以上、「空気」的な態度からまったく無縁でいられるということはないと考えていて、それについては、IT投資のあり方や、日本なりのイノベーションの取り組み方について論じる際に触れたいと思っているのですが、ともあれ、「空気」的なあり方、「空気」的な思考方法とは、何らかの形でうまく付き合っていかなければいけないと思います。自分のことを言っています。
おっしゃるように、現在の2ちゃんねるは、報道マスメディアに対して相当程度にアンチテーゼであった頃とは、参加者の面々も変わっているということと、メディアとしての真新しさがいくぶん薄れているということとで、方向性がやや違ってきているということはあるのかも知れません。ただ、それでもなお、自分としては、2ch固有の、なんというか、わかった人がわかっていない人を諭す、あのいわく言いがたい教育機能のようなものに、共感を覚えていて、色々乱暴なことを言う人が多くなっているのかも知れませんが、それでも、ある種の良心があるように思っております。楽観的過ぎるでしょうか?

hal*さん、コメントをありがとうございます。
>そもそも、日本人は潜在的にその空気の打破を望んでいたのか。望んでいたのならばそれは何故か。

「空気」的な思考は、その集団の成員の行動を拘束するところがあるため、個々の成員は明らかに「窮屈だ」と感じているはずです。それはどの集団ということではなく、日本のなかで「空気」的なメカニズムが働いているすべての集団に大なり小なり言えることだと思います。なので、人には言わないけれども、「その空気がうっとおしい」と思っているパターンはよくあると思います。けれども、しっかりと「空気」の正体を把握していないと、うまく対処できないというところがあり、痛し痒しです。
これも山本七平が言っていることですが、「空気」には、日本の集団を”より速く進ませる”効用もあるとのことです。一致団結して、みなが共通理解をもって、何かに邁進するというパターンです。そうした良い部分をみて、うまく付き合っていくことができれば最高なのですが。

ariさん、コメントをありがとうございます。

>日本社会の「空気を読め」「お上には逆らうな」「長いものに巻かれろ」的な雰囲気は、江戸時代の300年にわたる封建的な幕藩体制がもたらしたものだとも思います。そういった気質が、短期間で変わるとは私には思えません。

↑のBarさんへのレスでも書きましたが、私もそういう日本人の性向はそんなに早く消えてなくなったりするものではないと思っています。

>そういった意識の変化が、会社や学校、病院、役所、老人保健施設など、あちこちで同時多発的に起きているならともかく、ネット上、それも2ちゃんねるという局地的な現象を取り上げて、日本人の気質を論じるのはいかがかと。

ただ、ある時期、2ちゃんねるが「カウンター」になったことは確かだと思っています。そして数年の間、その場はほぼ2ちゃんねるに限られていたけれども、ここ2-3年はブログ空間にその「カウンター」的な要素が拡散してきているという風ではないでしょうか?
一面的であるよりは、多義的である方が健全だと思っており、その多義性を2ちゃんねるが担保してくれていたということは、あるように思います。
おっしゃるように、最近は雰囲気がかなり違ってきているのでしょうけれども。

>「ネットでは」とか「ブログでは」といった、論じ方はもう出来なくなっているのではないでしょうか。

↑まことにごもっともです。ありがたく受け止めます。

yocc

現状のネットコミュニケーションについては、ised@glocomの議論が参考になるのでは。
http://www.glocom.jp/ised/
膨大ですし、時間が無いようでしたらまとめのところだけでもいいかと思います。
http://ised.glocom.jp/ised/12091210

で、そのとりあえずの結論は「空気を読むのがマジョリティである日本にネットワークという道具を与えるとヤバイことに…」というものでした。
必見だと思います。

Czさん、コメントをどうもありがとうございます。

>昔からの言葉で言う「世間様・お天道様」に近いモノが、あそこにはあると感じています。

「『みんなの意見』は案外正しい」(ジェームズ・スロウィッキー著、角川書店)にそのへんのメカニズムが書いてあります。個人の意思表明の自由が確保されており、その場への参画が自由であるような状況においては、多数の人の発言の集計結果が、相当程度に正しいということがあるようです。(少し条件がつくみたいですが) 
仮に、空気を読めということの強要がシャレ程度であり、無視するに足るものであれば、2ちゃんねるでの多種多様な自由な発言が、最終的に集約されたところに出てくるある種の方向感は、相当程度に正しいということがあると思います。ただ、「空気嫁」だけで成り立っている空間だとすれば、それは違うということになるでしょう。
板によって全然違うんでしょうね。先ほど、色々覗いてみましたが、実のある話題をかなり建設的に議論しているところがいくつか確認できました。

>その逆に世の中に何の影響力も持たない「引きこもりの中卒デブニート」ですら、シャープな意見を言えば支持される。
こんな場所は、今までどこにも存在しませんでした。

自分もある時期ほとんど引きこもりに近い状況があったので、ネット上で時折遭遇する引きこもりの人の言葉を、身につまされて読むことがあります。人生のある時期、ネットが、ある種の代償的な経験の場になるということはあってよいわけで、おっしゃるように「こんな場所は、今までどこにも存在しませんでした。」という性格も持っていると思います。

東京kitty

今泉氏が2chに仮託した「風通しのよさ」はもはや存在していないよ(@w荒

まだ軽かった2chは、自らの存続に資源や時間を使うことなく人々の自由な意見の交換が可能だったが、やがて巨大化していくとIPアドレスの記録やサーバ代を稼ぐために外部の様々な勢力に屈服し、「存続」「運営」のために「言論の自由」を犠牲にしてきたわけだ(@w荒

現在では2chには数百人の運営スタッフがいてタダ働きしているが、彼らの官僚的縄張り根性や利害関係がかつての自由な意見の交流を完全に抑圧している(@wぷ

運営連中による利益誘導的な一定方向の「祭り」の誘導、そして自分たちに金が入らない場合の2chでの「ムーブメント」の禁圧など、もはや2chはただのできの悪い利権システムにしかすぎないよ(@wぷ

できが悪い、というのは「電車男」などいうインチキイベント(事件があった日にJRではそのような事件が無かったと朝日新聞で報道されている)を立ち上げて、社会の表面に出ようとしたのに「のまネコ騒動」で近視眼的な自分たちの利益を主張しようとして一般企業に警戒されて大魚を逃したように、バカの集合体が運営しているためにマヌケな結果が生じているという意味だ。

ネットコミュニティとしての主導性もmixiに奪われたし、まさに出来の悪いシステムとしかいいようがない(@wぷ

2chという「自由の象徴」に人々が寄りかかった瞬間にそれは「権威」となり、実体化して存続と運営のための間接費が利権構造とその維持のための言論抑圧を要請するという矛盾的実態があるわけで、社会における少数意見の尊重などの風通しのよさは単一の団体や個人に依存すべきものではない。

ニュー速

>東京Kittyさんへ。
今泉さんのご意見は90年代後半の2ちゃんねるの果たした役割について述べたものです。
継続的に運動し続ける実態としての2ちゃんが未来永劫今泉さんの仰った役割を果たし続けるかどうかが論点では無いということです。
テーゼとしての2ちゃんが、弁証法的に止揚し得たのか、はたまた弁証法的発展をし得ずに迷走している状態なのか、今の2ちゃんの姿は何なのか、そしてそれが今泉さんの主張に沿ったものなのか、それはまた別のお話でしょう。
しかし、それはさておき、<今の2ちゃんが迷走しているのだから、「社会における少数意見の尊重などの風通しのよさは単一の団体や個人に依存すべきものではない。」>という論理展開は不合理ですよ。もちろん、依存すべきという結論も出得ないことは確かです。

今泉さん、皆様、こんにちは。永井です。
ここの議論、とても参考になります。
TBさせていただきましたので、よろしくお願いいたします。

cyberbob:-)

こういうインターネット史観的評価は完全に2chが無くなってから、思い出として語ってほしいですね。
いまさらに運営側がハッスルして妙な理念を持ってもキモいだけですし。

粛々とその歴史に幕を閉じるのみ。

cyberbob:-)

>粛々とその歴史に幕を閉じるのみ。

幕を下ろすべき。でした。訂正します。

2chにボランティアで関わっている(巻き込まれている?)かたは守るべきものがとっくに変異していることに気づいたほうがいいんじゃないでしょうか。「空気嫁」とまでは言いませんが。

yoccさん、情報ありがとうございます。
このisedにおける議論は非常におもしろいですね。こんど精読してみます。自分も関心を持っている様々な現象を非常に正確な言葉で記述しているとう感じで、気持ちがいいですね。

まう

2chは基本的にサウンドバイトメディアであった。
これが2chの帰結でしょう。
2chを作った本人も、そしてその周りで利権に預かろうとした知識人らも、しばらく前に「2chは終わった」と言っています。
世界的な一種の実験だったといえなくもないです。
混沌をそのままにして、その混沌を最低限のルールでのみ縛って進めていけばどうなるか。

結果は悪貨が良貨を駆逐する、でした。

少し考えれば分かる話ですが、しかし、この結果は必然であっても自然に出たものではないと思います。

東京Kittyは以前から文章でもリアルメディアでも非常に言動が寒く、以前から大嫌いでしたが、ここで言わんとしていることは非常によく分かります。
今泉さんが「かつての2ch」としてこのエントリーを書いたなら理解できるのですが、今2chは今泉さんの仰るところの「空気」そのものです。
利用人口の増加・年齢の低下・大人の2ch離れによって、以前2chが開けたと思えるような「風穴」からは汚物ばかりが流れ出て、「空気感」すら漂わぬ本当の意味での「便所の落書き」に成り果てました。
現在の2chを見ていると「水は低きに流れる」という言葉を思い出します。

半田繁幸

2ちゃんねるで個々のレスの真実がどうか公平さがどうかとかマトモな情報が得られるか、ぶっちゃけフォーマルに役に立つかどうかはまるでゴミみたいな小さな問題。歴史観からみる2ちゃんねるが日本社会に開けた風穴の大きさを見るほうが手っ取り早くて本質を突いている。近頃は工作員も増えたが1,2週間や1,2ヶ月の祭りスパンで見ればネタが増えたと喜ばしい雰囲気すらある。非会員制の掲示板は必ず生き残る。

Yutaka

>>その逆に世の中に何の影響力も持たない「引きこもりの中卒デブニート」ですら、シャープな意見を言えば支持される。
>こんな場所は、今までどこにも存在しませんでした。

 はて?
 それ以前、パソコン通信のBBS上で既に存在していましたが?
 2chとの違いは(疑似であっても)「匿名性」がある2chと、ID表示によって基本的には「匿名」で居られない(或いは発言者の同一性がある程度担保される)パソコン通信といった程度でしょう。
# そろそろ、事実上一旦崩壊したパソコン通信を振り返られる時代なのかな。
# もっとも、SNSはある意味「Web登場(マークアップ言語に基づく表現の多様化)」に合わせて再構成されたパソコン通信(文字ベースからの世代交代)とも言えるので、「一区切り」ついただけか。

東京kittyさん、興味深い意見をありがとうございます。

>まだ軽かった2chは、自らの存続に資源や時間を使うことなく人々の自由な意見の交換が可能だったが、やがて巨大化していくとIPアドレスの記録やサーバ代を稼ぐために外部の様々な勢力に屈服し、「存続」「運営」のために「言論の自由」を犠牲にしてきたわけだ(@w荒
スケールの拡大に伴う管理運営、そしてコスト…。そのへんは2chに限らず、どのコミュニティにもついて回る課題なんでしょうね。実際に2chが吸収している管理運用の労力(ハード面、コミュニティ運営面)、そしてコスト(ハード、プログラム保守、通信費、人件費的なコスト)を考えると、これは”ビジネス”なんだなと思います。
ビジネスの方向性決定、利害の調整、収益の分配、人の確保と人心掌握等々は、一個の企業に求められる戦略やガバナンスと同等のレベルのものなのかも知れません。
…とすれば、2chに現在求められるのは、新しい方向性の設定、広義のマーケティング、新たな収益源の確保といったところになるのでしょうか。

ニュー速さん、コメントをありがとうございます。

東京kittyさんへのレスでも述べましたが、2ちゃんねるは、ひょっとすると企業全般に通用する合理的なマネジメントを必要とする時期に差し掛かっていて、例えば、Web2.0的な状況をにらんだ新しいマーケティング戦略を設定したり、新しいビジネスモデルをデザインするような才能が必要な時期に差し掛かっていたりするのかも知れません。とは僭越ですが。。。現状の課題を克服して、新しい姿を切り開いていってほしいですね。

永井さん、TBをありがとうございます。
後日新しい投稿を上げたいと思います。

cyberbob:-)さん、コメントをありがとうございます。
「史観」という言葉を使ってしまったので、振り返りモードになってしまいましたね。2012年ぐらいなると、2chだけでなく、すべてのコミュニティ系サイトはどんな風になっているんでしょうか?

まうさん、コメントをありがとうございます。
>2chは基本的にサウンドバイトメディアであった。
不勉強でして、サウンド・バイトという言葉を初めて知りました。
ネットのコミュニケーションでアテンションを引くには、2chから出てきた多種多様な表現というのはすごく有効だったと思います。(パソ通と比べるとどうか、議論があるところだと思いますが)
文字によるコミュニケーションスタイルの創発的な環境だった、なんていう位置づけは可能でしょうか。
匿名でどこまでやれるかを試す環境でもあったでしょうね。

民さん、コメントをどうもありがとうございます。

なるほど、そうなのですか。。。残念ではありますね。

半田さん、コメントをありがとうございます。

色んな方のご意見や情報に接してみると、
・以前:確かに報道マスメディアに対してカウンターたりえた
・最近:以前とはだいぶ赴きが異なっている
ということのようですね。

>歴史観からみる2ちゃんねるが日本社会に開けた風穴の大きさを見るほうが手っ取り早くて本質を突いている。

そういう事実は厳然とあると思います。同意をいただき、どうもありがとうございます。

Yutakaさん、コメントをどうもありがとうございます。

>それ以前、パソコン通信のBBS上で既に存在していましたが?

個人的には、パソ通の空間のコミュニケーションには、いわば”劇場性”(ギャラリーがいることを前提とした一種のショーアップ行為)がなかったのに対して、2chにはそれがあったように思います。また、その劇場性は、板に集う人以外にも広く開かれていたので(Googleでたまたま引っかかった人がアクセスしてきて一部始終を知るというような)、発言する人にはなお緊張感があったのかなと思っています。
でもそうした美点も変質しているのだとすれば、ほんとうに残念ですね。

kk75

空気自体が悪であり、それは打破されるべき存在であり、ネットこそがその担い手だと期待した方には、残念なのでしょうが、左であれ右であれ、単一の空気に偏ることこそが問題だったのだと考えれば、別の空気を作り出すことによって、リアルとネットの全体として中庸路線を歩めるなら、それはそれでいいのでは?

kk75さん、コメントをありがとうございます。
自分としては、日本人が組織を作ったり集まったりするところから「空気」をまったく追い払ってしまうことはできないと思っています。ただ、それに”巻かれて”しまうことがないように、むしろ、「空気」的な意思決定のメカニズムを”活用”する方向でいかないとだめなのではないかと思っています。また、ある場所の「空気」が偏ったものである場合は、別な場所においてカウンターの「空気」を発生させたり、「水」を差してあげることも必要でしょう。いずれにしても、盲目的に「空気」に巻かれている状態は、ぷしゅっと収縮させてあげなければなりません。
>別の空気を作り出すことによって、リアルとネットの全体として中庸路線を歩めるなら、それはそれでいいのでは?
まさにその通りです。

無粋な人

空気 = 逆らえない流れ
と元の広い定義の言葉に戻してしまって、
「自分が乗りたくない空気」
から
「自分の乗りたい空気」
になったととらえれば、各々スッキリかと。

無粋な人さん、コメントありがとうございます。
ビンゴ!かも知れませんね。要するに、参画する「空気」を選べる時代が来たと。何にせよ、選択肢があるのはよいことです。

あだ

ども。空気を読まずに発言しますと、2chでは空気など読まず説教なり折伏なり試みようとあるいは延々自分の妄想を垂れ流そうと何の実害もありはしませんわ。お前らレベルが低い、馬鹿が増えたもう来ないぞウワァァァンなんて勝利宣言は失笑の対象にすらなりませんな。いっぽう実生活での「空気を読め」という圧力に従わなかったときの実害は、まあ自分自身が「空気を読めない人」をどのように遇しているかを考えれば明白でしょう。
んで2chに何を求めるかって、「いまここに2chが存在しており不特定多数の読者に自分の意見・妄想を読んでもらえる」というそのこと自体が報酬なのであって、それ以上の見返りが欲しければその見返りが自分のレベルに見合ったものであるということを受け入れないとね。見返りに不満があるってのは、自分を過大評価しているってことだと思うんよ。

あださん、非常に興味深いコメントをありがとうございます。
>んで2chに何を求めるかって、「いまここに2chが存在しており不特定多数の読者に自分の意見・妄想を読んでもらえる」というそのこと自体が報酬なのであって、

個人的にぼんやり感じていたことを明確に言っていただいた気がします。深いですよね。

無粋な人

こ、これが乗りたい空気になっている時の力…

空気  ワッショイ!!
  \\  空気  ワッショイ!!  //
 +  \\ 空気  ワッショイ!! / +
      +
  +     ∧∧   ∧∧  ∧∧   +
       (,,゚Д゚)∩(゚Д゚∩ ( ゚Д゚)
 +   (( (つ ノ (つ 丿 (つ つ ))  +
        | ( .ノ~(_ヽノ ~) ) )
        ∪∪  し∪  ∪∪

釣本直紀

「ブログなどインターネット全般から受ける印象はかなり冷めていたということです」とある様に、2ちゃんねるというよりインターネット全体が社会に影響を与えたという話ですね。

報道機関に流されていた人とやらの数が、インターネット普及以前と以後でどう変わったのかという点には疑問が有ります。これはきちんと調べないと分からない。
日本人はこれまで「情報統制」に乗せられていた、という仮定も抽象的過ぎて納得出来ません。判然としないからこそ空気というのでしょうが、そこまで日本人が愚かだったとも、インターネットが劇的な変化を齎したとも思えません。

釣本直紀さん、
コメントをありがとうございます。ずいぶん前の投稿なので…。
その人が持っている問題意識、対象を見ている視点で、意見や考え方や見えてくるものはずいぶんと変わってくると思います。どれが正しいかという議論に入ると、きりがなくなるので、よした方がいいという立場です。
自分は、とりあえずモノを書いて食べていた時期もある人間として、従来の活字メディアが持っていた機能と、インターネットが備えるに至った機能との違い、また、従来の活字メディアに拠っていた人たちの一般的なメンタリティと、インターネットの特に最近のCGMに拠っている人たちのメンタリティの違いは、よく理解しておるつもりです。
その認識からすると、以前と以後とでは、かなり違うなぁというのが実感です。それがそうは感じられないという方がいらっしゃることは十分認識しております。そこが、問題意識の違い、視点の違い、ということになってくるわけです。

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