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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

ネットワーク内存在としてのわれわれ

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間が空いてしまったし、とりとめのないことを書きます。

昨日、あるNPOで番頭格を務めているK君と会って話をしていたら、彼を介してグロコムの公文俊平先生につながることが判明しました。公文先生とはとあるミーティングでご一緒させていただいたことがありますが、同席したというだけであって関係はないに等しいです。しかしK君はそこそこ可愛がってもらっているようで、私が「会ってお話させていただきたい!」と頼み込むと、なんとかなりそうな雰囲気はあります(^^;。

一度、先生に伺ってみたいです。「ネットワークにおいて『つながる』ということに、どんな本源的な意味があるのでしょうか?」。別な言い方をすれば、「インターネット普及以前の哲学者たちが記述も定義もできなかったような人間関係の生起の仕方を、哲学的な意味づけがなされるより先に『経験してしまっている』われわれにあって、例えば子どもに教える場合に、どのような価値観を適用すればよいのでしょうか?」。そういったことです。

数ヶ月前に買って放っていた「新ネットワーク思考」(アルバート・ラズロ・バラバシ)を先日ようやく読み終わり、それ以降、ネットワークネットワークした考えを飴のようにしゃぶる日々を送っています。

今同書が手元にないので、キメの何行かを引用できませんが、同書のエッセンスが公文先生のエッセイ「ベキ法則と民主主義」に書かれています。

ノードが恒常的に増えるネットワークにおいては、ノードとノードのリンクはランダムに行われるのではなく、いわゆる「優先的選択」というものが行われて、最初は徐々に、時を追うにつれて顕著に、特定のノードに対するリンクへの集中度合が高まっていきます。このあたりについて、こことかここなどを参考にしてみてください。

その結果、公文先生が非常にわかりやすく記しているところのベキ法則に従ったスケールフリーなネットワークと言われるものが出現します。(何がスケールフリーなネットワークかということについて厳密に記述できる知識を持ち合わせないので、ここではばらつきが正規分布を示すようなランダムなネットワーク、ではないもので、かつ恒常的に成長するもの、ぐらいで考えておいてください。同書を読むのが一番です)

われわれが身を置いているインターネットは、ベキ法則に従うスケールフリーなネットワークの典型です。その他、米国の送電網、昆虫の神経回路、ハリウッド俳優の人間関係、特定の範囲でサンプリングされた物理学の論文の引用の状況、などもスケールフリーネットワークであるとのことです。すなわち、そこにはベキ法則が認められるわけです。

ベキ法則には、平等という理念をやすやすと打ち砕く現実とでも言うべき、ある種の迫力があります。富める者はますます富み、そうでないものはますます…。集中にはなお一層集中が増し加わり、閑散は限りなく…。
(なお、こうした状況に関して、都市に対する地方のあり方という観点から、同じグロコムの丸田一氏の「新しい地域発展論-ベキ法則下での地域の生き方」 が非常に興味深い提案をしておられます。公文氏のエッセイとセットでお読みいただけるとよいと思います)

ベキ法則は、インターネットを少し主体的に使っている人にとっては、別段むつかしい解説をされなくとも、体感的に理解できる現象だとおもいます。昨年登場したロングテール論も、結局はベキ法則のひとつの記述形態ということになると思います。

そういう現実があるなかで、自分が問題として捉えたいのは、「The World Is Flat」の中で記述されていた現象(まだ全部を読んでいないので前半の現状報告のところだけを念頭においています)、すなわち、①企業と企業が海や国境を越えてインターネットで接続され、エコシステムを形作るなかで、企業の存在領域がスケールフリーネットワーク化していく、②インターネットを日常的に使う個人が好むと好まざるとに拘らずスケールフリーネットワークにある種取り込まれたような状態になる、ということです。以前から言われてきたデジタルデバイドとどこが違うの?と言われそうですが、ベキ法則というものを知った後では、単なる格差と言って済ませられない凄みがこの現象にはあります。

仮に、スケールフリーネットワーク化のメカニズムをよく把握して、順応・適応ができるならば、状況はすごくおもしろいでしょう。いわばサーフィンの波に乗ったような雰囲気で、早く遠くまで行けると思います。けれども、そのメカニズムをうっかり把握しそこねて、現象を拒絶してしまったり依怙地になっていたりすると、少しまずい。少しどころではない可能性があります。

たらたら書いていると終わらなくなってしまうので、自分なりに考えた対処法のようなものをメモ程度で記してみます。

・統計的に把握される自分(自社)の位置が要求してくる価値判断から、とりあえずは目をそむける。個人の場合では、例えば「下流社会」にやや扇情的に記されているところの統計的に把握された現象によって「下流」「中流」などと位置づけられた自分というものから、一線を置く。それは「彼が言う『下流』」であって、自分はそんなもの屁とも思わないと気概を高く持つ。
・公文先生が言うように(「ベキ法則と民主主義」)、世の中どこに行っても上を見ればキリがないし下を見れば「あ~」という状況がある。そのなかで、よりデカいスケールフリーネットワークに身を置いて、上位の巨富に「は~」とため息をつくのではなく、自分が居心地がよくなる規模のネットワークに身を置いて、そこにおいては「自分が80:20の少数精鋭である」というところを目指す。
・ネットワーク内存在としての自分、というものを積極的に意識する。ここでは、コンピュータネットワークの知識が少しあると役に立つ。すなわち、何がハブであり、価値はどのように流れ、帯域幅の多い少ないはどんな意味を持ち、ボトルネックの解消には何が必要か、といったことが直感的にわかれば、すごく動きやすい。自分はそのネットワークにおいてどんな役割を果すのが適当かということを考えて、よい意味で言う「効率的な」動きをする。

この2週間ばかり、仕事がきゅうきゅうで忙しいというより、詰めているところの環境が変わり、それへの順応で相当にエネルギーを使っていました。ネットワーク内存在としての自分というものを、少し楽観的に考えられるようになりつつあります。

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