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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

スターバックスで抹茶を

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いつもとトーンが違います。ご容赦ください。

市場が縮小するとはどういうことなのか。

本屋さんの市場は確実に縮小している。代々木駅のそば、共産党本部とJR踏切との間にすごく個性的な品揃えをしている書店があった。名前は忘れてしまったが、アート系の本と旬な人文系の本の選択に確信が感じられる本屋さんだった。相当腕の立つ人が仕入れをしているのだろうと思っていた。うらさびれているどころか、そのまま南青山に移しても違和感のないスマートな店舗だ。

実は社会人一年生の頃、神田神保町にある小さな会社に勤めていて、あの界隈には「本の卸売屋」さんが存在しているのだということを知った。そうした書籍卸ではよそより早く新刊本が並び、自分の目で中身を確かめて仕入れることができる(週刊誌や月刊誌なども1日~3日早く入手できる。スポーツ紙などが未発売の週刊誌の記事をネタにできるのもそのため)。大手取次の機械的な配本を嫌う書店主は神保町まで空のリュックサックを背負ってやってきて、ピンときた本を数冊ずつ仕入れては、リュックを重たくして帰る。その代々木の書店もおそらくはそうした仕入れ方をしていたのだと思う。
先日、千駄ヶ谷駅から代々木駅まで歩いてみた時に、その書店がどうしても見当たらず、そこに違いないという敷地にやたらと照明がまぶしいドラッグストアが出現しているのに気づいた。ショックだった。あれほど品揃えに気を使っている書店ですらやっていけないのかと思った。

と書く私も現在はほとんどアマゾンでしか買わない。人文系の本はもうあまり読まなくなって(聖書一辺倒なので)、仕事の延長線で買うビジネス書か最近仕込みをしているPerlだのDebianだのPHPだのC言語だのITITした本がほとんど。アマゾンで古本が入手できるならすぐにそうする。書店にとってはまったくありがたくない人となってしまった。

パターンは異なるとしても、おそらくは多くの人の間で、中小の書店の棚をうろつきまわってレジの前に立つという行為が失われていっているのだと思う。
絶対数が減る顧客をつなぎとめておくためには、並大抵ではない苦労を強いられる。そして損益分岐点を割り込み、それがしばらく続き、持ちこたえられなくなると廃業という選択肢を選ばざるを得なくなる。

市場が縮小するとはそういうことだ。

人の行動が変わり、時間の使い方が変わると、生まれる市場もあると同時に、消えていく市場もある。
いまWeb2.0の関連で新しい動きがたくさん出始めている。これは言うまでもなく、ヒトが、Web2.0的な文脈の事項に時間を使う傾向が出てきたということを示しており(アテンション・エコノミーという概念も出てきた)、その周辺では、従来からある事項に時間を使わなくなっているという現象も必ず生じている。それによってどこかの市場はゆっくりと、あるいは急速に縮小して、上述の書店に起こったのと似た事態がやってくる。

こうしたことを改めて書きたくなったのは、Pal氏の「漫画というレッドオーシャン」というエントリを読んだからだ。
このPal氏はものすごく嗅覚が発達している方だと思う。

漫画家が置かれた状況をよく知っている方だけに、関連状況の説明にはうなづくばかりなのだが、また、末次由紀盗作事件の見解についてもこちらは真面目に受け止めるだけで異論をはさむような知識は持っていないのだが、自分としては特に以下の捉え方にゆるぎない真実を感じた。

ストーリー、キャラ、絵に重点をおいた漫画は
おそらく、今後廃れていく一方だろう。
残念だが、もう限界なのだ。

ドラマや映画、漫画全て同じ問題を抱えている。
グラフィックコストが上がりつづけ、ストーリーはマンネリ化し
キャラは、全てどこかでみたようなキャラしかいなくなっている。

同じ市場で同じ顧客相手の商売をみんなでしているのだから
そうなって当然だ。典型的なレッドオーシャンだ。

Pal氏がこう記しているのは、従来型の商業的な漫画出版のスキームにクリエイターを酷使する構造があり、市場が縮小傾向にあるのと顧客の目が肥えてきたのとがあいまって、クリエイターにさらに無理を強いる状況あると指摘する文脈においてなのだが、私自身としては、時間消費型のエンタテインメント全般が、メディアが何であるかを問わず、従来型の商業スキームでは成立しにくい時代に入りつつあるということの間接的な指摘に思えた。非常に大変なことである。これまで食えていた人が食えなくなる。けれども、経営の視点を持つ者すべてが見据えなければならない事実だとも思う。

(ここでいきなり先日の「企業のアンバンドリング」という話に突入する。現在このような状況で縮小しつつあるのは、従来型の企業が向き合ってきた市場である。生産があり流通があり販売がある。けれども現在はインターネットであれもこれもできてしまう時代である。生産、流通、販売をいったんばらしてみて、生産のもっとも源流にいるクリエイターの人たちと、販売の先の方にいる顧客たちとが、なるべくロスなく結びつけるようにできれば、旧来の市場が縮小しようがどうしようが、両者は依然としてハッピーなままいられるのではないかということも言える。)

大木さんのエントリにコメントしていた方の記述にあったのだが、茂木健一郎氏のコラムでは、人間がネット上でたどることのできる「文脈」を消費する存在になりつつあるという意味のことが書かれている(多少乱暴な丸め方だが)。
これを「文脈消費」と呼ぶとすれば、文脈消費に入れ込むことのできない旧来のメディアの時間消費型商品(漫画、ゲーム、映画、ドラマ、バラエティ番組など)は、多くの消費者にとってひどくつまらないものになっていくだろう。どうもそのように思えてならない。Palさんが嗅ぎ取っているのもたぶんそれに近いことだと思う。

茂木氏の主張では、この文脈消費もゆくゆくはクオリアの経験によって相対化されるべきだということである。脳としてはそれが自然なことらしい。ということで、ここでも市場の縮小が想定される。

これらをまとめてみると、
 ①消費者の行動が変化している
 ②文脈消費を好みつつある反面、従来型の単純時間消費型商品を敬遠し始めている
 ③文脈消費志向に対応したサービスがインターネット上に早晩あふれる
 ④みなが飽きる(江島健太郎氏「アテンション・エコノミーの本格化」のアテンションが有限な資源であり、これをめぐる争奪戦が熾烈化する結果として一種の供給過剰が起こる)
 ⑤クオリアが真打として登場する
ということになるだろうか。

日本のスターバックス限定の試みとして、本格的な抹茶を本格的な所作で出す店舗がいくつかあってもいいと思う。ただコーヒーの香りとまざるとうまくないから、香りの管理には工夫を要する。などと言うだけなら簡単なわけですが。

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