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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

ギコ猫に関する記述の正確さに

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松尾さんが書かれていた「スカイセンサー」に「はっ!」と反応した人はおそらく、Pink FloydのDark Side of the Moonをリアルタイムで聴いていた人ですね(^^;。

土日はまぁ新規事業ネタはお休みです。

例ののまネコ問題ですが、Hotwiredでもお題に取り上げられて、来週あたまに公開されると思います。

一連の動きを少し追うなかで、Wikipediaの記載が目に留まりました。2chに関する主たるキーワードはすべて正確に記載されているんですね。ものすごいと思います。ギコ猫の語源が何であるかとか、知ってました?

今さらながらに「編集・執筆」をすべての人に開放したWikiのすごさすばらしさ、Wikipediaの志の高さ(ウィキペディアの目的は、信頼されるフリーな百科事典を創り上げることです。――それも、史上最大の、質も量も最高の百科事典を )を再認識すると同時に、Wikipediaがこれほどまでにうまく行っていることに驚きを感じた次第です。
こうした匿名の個人の集合によって練り上げられていく”衆知”のレベルの高さは、われわれのように何かを書いて食べてきた人間にとっては、ある意味で非常に脅威です。

大括りに言いますが「活字世代」に属する人たち(末尾が1960年代半ば生まれぐらいまで)の大多数は、知恵は、特定の個人に属するものであって、それを駆使する人間が駆使するし、そうした特定個人同士で切磋琢磨しあって、議論をしたり、何かを書いたり、公に問うたりするというやり方にすごく慣れています。書く人と読む人とは完全に切り離されており、知恵の出し手と受け手の間に明確な役割分担があります。(誤解のないように言い添えると、その役割分担を前提に、何らかのルールの下で出し手と受け手が相互に入れ替わりつつ、知恵が交換されるということは行われてきています。)
現行の大出版社や大新聞社なども、そうした枠組みのなかで出版活動を行い、日々の新聞紙面における論評などが書かれています。
自分たちこそが価値ある知恵や情報の出し手であり、それを運搬するメディアの作り手であり、読者は自分たちとは一線を画す”そちら側”にいて、”こちら側”とは混じり合わない。そうした立場で情報発信が行われています。

私ごときが言うまでもなく、このインターネット空間ではその図式が非常に速い速度で崩れつつあり、すでに不可逆な動きとなっています。おそらく、それに順応しないと、生き残れないんじゃないかと危惧しています。大出版社や大新聞社はすごくあぶないのではないか。

ここ最近、ここで書いている新規事業の話や、自分が日頃仕事をいただいているシスコさんの中における活動をしていて、はたと気づいたことがあります。
「あ、自分だけが理解している/答えを持っている、と考えるのをやめればいいんだ」ということです。

なにおー!と怒られるかも知れませんが、これには少し背景説明が必要です。
モノを書いて食べている人はみな同じだと思いますが、書く以上は、他人と同じことを書いていててはダメで、独自な価値観、体験、見方、知識、知恵、情報、分析などを繰り出しつつ、自分にしか書けない世界を展開しなければいけないと、思っていますし、それを実践しています。他者と違ったことでなおかつ読者にも価値のあることを書けるから、ギャランティ等をいただくわけです。
これは、書く側の人も、それをメディアにして読者に送り届けることで収益を得ている人たちも、暗黙の了解としているところのものです。
自分もまぁその中にいたり外にいたりしながら、そういう考え方でもって生きてきたわけで、「自分だけが理解している/答えを持っている」という前提のもとに、そしてまたその前提が崩れないように種々の努力や工夫をしながら、書いたり、対価をいただく種々のプロダクトを出してきたわけです。仕事の前提となっており、ある種の職業観だったわけです。

それがある時、非常にささいな事から、「あ、自分だけが理解している/答えを持っている、と考えるのをやめればいいんだ」と気づきました。そのささいな事は別に書く必要もないようなもので、ほんとうにささいな事です。
自分だけが理解している/答えを持っているのではなく、他の人も理解しているし、答えを持っているのであって、自分が足らない分は他の人が考え、答えをだしてくれるし、ネットワークで交流できるなかで生み出される集合的な知恵(ユングの集合的無意識を想起させるまずい言葉ですね。もっとうまいのはないものか)の全体から比べたら、自分の考えることなんか屁みたいなものであると、そのように視点を変えてみると、まったく別な世界が広がるのだということに気づきました。

ネットワークによる相互補完を前提とした知のようなものがある、ということです。

別な言い方をすれば、突っ込まれる余地を残すことによって、より洗練されていく知があるということです。

すでに洞察力の深い公文俊平先生や、最近購入しただけでまだ読んでいない「新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く」の著者アルバート・ラズロ・バラバシはそういうことを主張されている模様で(要確認ですね)、目をそっちに向ける必要があるなぁと思い始めているところです。

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