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第35回 拡散する、不確かな「私」 ~メルマガ連載記事の転載(2013/11/11 配信分)

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連載 「データ・デザインの地平」 第35回 拡散する、不確かな「私」

もはや制御不能の個人情報

個人情報の漏えい事件が後を絶ちません。顧客情報だけでなく、SNSで制限なく公開される知古の情報も、高度に発達したネットワークのなかで、一人歩きを始めています。

近い将来には、戸籍名や住所や電話番号といった「ヒトに付随する情報」だけではなく、「ヒトを表現する情報」も漏えいするようになるでしょう。たとえば、センサーで取得可能な発声や動作のクセなどの情報です。また、3Dプリンタの進化は、触れられる姿形の情報を、それに伴う素材の進化は質感の情報を、公開しやすくするでしょう。
自分の感知しないところで、自分を表現する情報が利用され、あらゆる時間あらゆる場所に、自分がいる「かのように、他者や機器に誤認識される」という事態が起こることは想像に難くありません。

そして、その次は、遺伝子(現在)、海馬内記憶(過去)、脳内思考(未来)という3つの情報が、ターゲットになります。
これらの漏えいリスクを一般ユーザーがじゅうぶん予想しているとはいえないなか、すでに情報は一人歩きを始めています。受精卵診断の遺伝情報の管理不行き届きなどのニュースは、記憶に新しいところでしょう。

「私」は完全には複製できない

もっとも、遺伝子、海馬内記憶、脳内思考の情報が漏えいしたとしても、それが、情報の元であるオリジナルのヒトの持つ情報と「完全に一致」することはありません。

まず、DNAの情報(※1)や凍結卵子から、オリジナルと「完全に同じ」ヒトが生成されるという、SFのようなことは起こりえません。ましてや新しい存在を生み出すために母体を必要とする場合、母体から受ける影響を無視できないため、完全に同一の内的プロパティ(性格や思考や倫理観など)を持つ可能性はありません(※2)。

また、海馬内の情報を取得できるようになったとしても、それをもとに、完全な記憶を再現することはできないでしょう。
なぜなら、記憶は海馬以外にも蓄積されている可能性があるからです。腸内細菌の情報などのように(※3)、環境要因で刻々と変わるものもあります。

脳内思考の漏えいによって、「今まさに思考されている最中の」ビジネスプラン、立案中の企画、作曲中の音楽(※4)、絵画のイメージ、小説のプロット、コピーの1行が盗用される可能性は否定できませんが、だからといって、現在の思考情報から未来の思考や言動を予測し、それをフィードバックすることによってオリジナルのヒトが創ったはずの作品、とったはずの言動を引き起こすことは不可能です。
仮に、取り出した脳だけを生かしたとしても、その「脳」がこれから出力する情報は、五感からさまざまな情報を取得し続けるヒトが考え出力する情報とは異なります。

高度で詳細な個人情報を取得する技術やそれを複製する技術が、いかに進化したとしても、(ビッグ・データの処理という技術上の課題はさておき)、情報元であるヒトの繊細な思考や言動を完全に再現することは不可能です。

※1 DNAの鑑定・保存サービスを展開する企業はいくつかありますが、利用は容易ではありません。災害時などの本人確認や遺されることになる者の思い出のためにも、県庁所在地に窓口ができて利用しやすくなることが望まれます。ただし、利用しやすくなるほど、ユーザーひとりひとりに、情報管理のあり方について考える姿勢がもとめられるようになります。

※2 本連載第3回「子ノード化する脳」も参照。

※3 食糧は、その時代の農業政策や気候、地域性、時代の影響を受けて変化しますから、ヒトの持つ細菌については、生育時の環境からの影響を排除できません。また、母が妊娠中に摂取した食事が子の嗜好に反映された結果、「ヒトは食べたものになる」ことも考えられます。

※4 本連載第7回「脳活動センシングの進化が作曲を変える」を参照。

作られる認識、造作される「私」

しかしながら、「情報が完全に同一である」ことと「他者から同一であるとみなされたり、認証ツールから同一であると判断される」ことは異なります。

高度な個人情報の漏えいリスクとは、漏えいそのものにはなく、社会的に同一であるとみなされることによる、情報の誤った利用にあるのです。
「ヒトに付随する情報」と「ヒトを表現する情報」の両方が完全に同じでなくても、同じ遺伝子情報とほぼ同じ記憶を持ち、法的に(我が国でいえば戸籍上)同じ個人IDを持てば、同一人物とみなされて処理される可能性が高く、その処理が「情報の元となる個人の意思に反する可能性がある」ことが、問題を引き起こすのです。

脳死を考えると、そういった問題の起こる過程がよく分かります。 脳死者に何らかの意志があったとしても、その情報が現在の検査機器で検知できなければ、社会的には「意志を持たない物質」とみなされます。しかし、検査機器が進化して、「もう眠りたい」「まだ生きたい」といった意思を取得できるようになった暁には、社会的な見方は変わり、ひいては法が変わる可能性もあります。これは、情報の精度が異なれば、社会的な意味が変わり、処理も変わってしまうことを意味します。

どれだけの精度で情報が同じであれば、同じヒトであると見なすことが妥当でしょうか?
同じ遺伝子情報を持つ限り、そのヒトを、以前と同じヒトであると認めるべきでしょうか?
認知症や高次脳機能障碍や延命治療において、「社会との関わりにおいて情報元であった時点の状態」が徐々に失われ、「そのヒトを表現する情報」が変わっていくとき(生か死かという二者択一ではなく、私であるという状態が、私ではない状態に移行しつつあるとき)、「そのヒト」と「もはや、そのヒトとは認められない生命体」を区別できるでしょうか?

いろいろな立場、いろいろな意見があるでしょう。が、法が定まれば、我々は、ケース・バイ・ケースで判断すべき事例には目を瞑り、良心の呵責を法に責任転嫁することで安心を得ようとします。いやむしろ、良心の呵責に苛まれたくないがために、法に助けをもとめるのかもしれません。

ところが、人間は実に勝手なもので、法に助けをもとめながら、一方では、法に従いたくないこともあるのです。
たとえば、法的に同一人物とみなされている場合であっても、「ヒトを表現する情報」のうち、性格や倫理観が急激に変化すると、同一人物であることを受容しにくくなります
もし、恐ろしい事件の加害者が、注射1本で、次の瞬間に、善意の人物になったとしたら、法的には同一IDを持つ同一人物であっても、にわかには受け入れがたいという意見が多くを占めるのではないでしょうか。ましてや被害者やその遺族ともなれば。

それは、悲惨な事件のニュースに対するネット上の意見の中に見てとれます。
(1) 自分が、加害者の立場だったなら(ゴールデンルールの個体差を認めないならば)
(2) 自分が、加害者と同じ環境で育ったなら(環境次第でヒトは変わると信じるならば)
(3) 自分が、加害者と同じ脳を持ち、同じ環境で育った記憶を持ち、同じ状況に置かれたなら(加害者も遺伝子の被害者であると同情するならば ※5

どの立場で事件をとらえるかによって、もとめられる法の内容は変わります。ヒトの遺伝子情報が変わらなくても、社会的な意味と処置は変わる可能性があるのです。

「ヒトを構成する物質」ではなく、「ヒトを表現する情報」が漏えいすることの恐しさは、ここにあります。
社会的に同一であると見なされる情報があれば、その情報によって表現されるヒトは同じものとして処理されます。情報は、複製し、切り取り、削除し、移動し、保存することができます。情報が守られ、適切に管理されなければ、火のないところに煙の立つ経験をする人が増えることは、想像に難くないでしょう。

※5 「日経サイエンス 2013年2月号 特集サイコパス」 「別冊日経サイエンス 191 (心の迷宮 脳の神秘を探る) 」参照。

「社会的な」生命とは何か

さまざまな意見を持つ人々が構成する社会の中で、「私」の定義は揺れ動き、法は変わり続けます。
我々は、自分で自分の首をしめないように、できるだけ大多数の人々にとって理想的な個人情報の管理方法について考え、最良のシステムを選択していかなければなりません。

「ヒトを表現する情報」の扱いについて、目下のところ重要な問題は、「ヒトになる可能性のあるもの」、つまり未来の生命を表す情報の扱いです。代表例は、出生前診断です。この情報の扱いかたについて、法は未整備です。

ネット上には、さまざまな意見が飛び交っています。

既に生まれている生命と、これから生まれることになる生命と、これから宿るかもしれない生命を、同じひとつの「生命」という括りで捉えると(※6)、「既に生まれている生命」は肯定されるべきであるから、「これから生まれることになる生命」と「これから宿るかもしれない生命」も、同様に肯定されるべきであるという意見が生まれます。

一方、「既に生まれている生命」、「これから生まれることになる生命」、「これから宿るかもしれない生命」を、「時間的に異なる生命」として捉えると、別の意見が生まれます。
「既に生まれている生命」に対しては、いつ誰が障碍を負うかもしれない可能性があるのだから(自分が障碍を負うことを想像すれば)社会福祉を充実させるべきであるが、「未来に存在するかもしれない生命」を完全に受容すると、生活上の不便を支援する側と支援される側の人口比が崩れ、生活自立支援技術(バリアフリー住宅、介護ロボット、コミュニケーションツール)の進化が追い付かない場合には共倒れのリスクがあるから、出生前診断やむなしという考えも生まれることになります。

こういった、いろいろな立場からの議論が巻き起こる原因は、(「これから生まれることになる生命」と「これから宿るかもしれない生命」の線引きも含めて)「社会的な生命とは何か」という問題が解決していないことにあります。「どの時点から」、生命として扱うべきなのか?またそれは、どの生命についても同じなのか、個体によって異なるのか?という問題が未解決のまま、同じ前提条件なしで意見交換をせざるをえないことにあります。

これは難しい問題です。なぜなら、生命を時間によって区切ることができるのかどうかは、「時間とは何か」という物理学上の現在進行形の大問題が解決をみない限り、誰にも分からないからです(※7)。仮に、ヒトを構成する物質を、別の場所にそっくりそのまま移して再現しても、時間という問題がある限り、それは同一人物ではないという捉え方もできるのですから。

※6 開かれたネットは、全面的に善あるいは悪、全面的に無罪あるいは厳罰、全面的に受容あるいは否定、といった、オール・オア・ナッシング思考に、高い親和性を持ちます(「カエルの釜茹で」のリスクのないテーマであったとしても)。印刷媒体しかなかった時代には、熟考して意見を文章にまとめ、考えて書いて切手を貼りポストに投函して、新聞や雑誌の編集者のチェックを経るという、気の遠くなるような手間が必要でしたが、ネットでは、Yes か No かを入力するだけでも議論に参加できるため、前提条件は忘れ去られがちになるのでしょう。

※7 時間について哲学的な議論をしたところで、論理などというのは、前提条件が崩れれば、総崩れになります。その前提条件とは、天と地ほどの個体差がある「時間」に対する感覚です。

「何が私か?」を決める権利は私にはない

「私とは何か?」という問いに対する答えは、「私」が考えて決めることができます。
しかし、残念ながら、「何を私と呼ぶのか」という問いに対する答えの決定権は、「私」にはありません。

「私」とは、生物学上の個体や、物理学上の最小単位の結びつき、というよりもむしろ、「社会の大多数の意見」によってグループ化される「社会的な情報の集合」であり、他者との関係性によって変化し続ける、曖昧模糊としたものでしかありません。

我々は、とかく断定した言葉を吐き、ヒトを、この世界を、すべてを理解したかのようにふるまっていますが、自分自身についてでさえ何ひとつない分かってはいないのです。
たしかなものなど何ひとつない、その不確かさゆえに、依って立つものを必要とし、それを得られない悲しみをどうにかこうにかやり過ごしていけるように、個人情報を管理する社会システムについて考え、不具合が生じたときにはバージョンアップで対応し続けるしかないのでしょう。

我々は、底の抜けたバケツの下に見える景色を眺めることなく、とても小さいコップで水を汲んで入れ続けながら、生をまっとうするのです。
技術進化がもたらすものは希望ですが、その技術が適用される社会には諦観をもって臨むしかないようです。

 

4C41455449544941 / LAETITIA (Off Vocal) composed in 1982.
The movie uploaded by "kesitsue", a listener of my music.
 "Out of Imagery" is out now.

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