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文学国語か?あるいは論理国語か?

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大学入試が文学国語と論理国語のどちらかを選択する形式になるかも、ということらしくてツイッターでの議論がかしましい。例えば https://togetter.com/li/1282369

・文学を教えなくなるのは亡国まっしぐら
・文学国語と論理国語を分けることがナンセンス
・欧米では文学が必修
など、僕のタイムラインでは「文学を教えなくなるなんてとんでもない!」という論調がほとんどだ。

僕も文学を教えないなんて本気ですか?と思う。僕自身、子供の頃からかなりの文学を読んできたという自負がある(社会人になってからは、もっぱらノンフィクション愛好家になったが)。そして基本的に実学よりも教養を高めることが、大学を含めた学校教育では重要だと思っている。人生を豊かにするとかいう大上段な話より前に、単純に仕事に役に立つからだ。学校で実学を学ばせようという傾向、ほんとアホだと思います。
さらに言えば僕の1冊目の本はビジネス書でありながら、実話ストーリーなので文学っぽい要素も少しある。文学を読んできた蓄積がなければ、もちろんあの本は書けなかった。

だがそんな僕ではあるが、実用的な国語運用能力を高める教育にシフトしなくていいの?と思う部分もある。「文学国語と論理国語の分割」については、詳しい話が分からないので、深入りする気はない。真偽も不明だし。(そういう意味ではタイトル詐欺ですいません)

僕が考えているのは、そうではなく、
A)「山月記」「こころ」を高校生に読ませるような、今の国語教育
から
B)文章を読んで書いてあることを正確に理解する技術、分かりやすい文章を書く技術を訓練する国語教育
に幾分シフトした方がいいかも、という話だ。
僕がそう思うようになったのは、3つのきっかけがあるので紹介したい。


★エピソードその1:「AI vs教科書を読めない子供たち」


読んだ人も多いと思うけど、素晴らしい本です。この本を無理やり要約すると「殆どの日本人は文に書いてある単語の並びを見て、雰囲気で理解した気になっているが、実は理解していない。そしてそれは現在のAIがやってること以上ではない。つまり、文章を本当の意味で理解できない人でも出来る仕事は、いずれ人間よりもコストが安いAIに代替されてしまう」という感じだろうか。


人間がここまで読解力がないのは衝撃だった(ちなみに、日本人に限った話ではないらしい)。
確かにこんなに理解してないなら、AIの方が得意な仕事は多いだろう。なにしろ、今のAIは東大は落ちるけどMARCHなら受かるらしいので(一部の学科)。ろくに文章を理解していないにも関わらず。

この本が正しいのだとしたら、人間がAIに代替されない仕事をするには、まずは最低限の読解力を付けるしかない。そしてそれは、「こころ」を読んでKや先生の葛藤に思いを馳せるような教育とは、全然違うものになるはずだ。

※余談ですが、この本に「文章をきちんと理解できているかを判定するテスト」の実例が載っている。思わず自分でもやったし、中学生の娘にも出題した。やっぱりこう書かれると、読解力がAI以下だったらどうしよう・・と不安になる。結果、無事に2人ともAIを上回ることができた。良かった・・。


★エピソードその2:文章が書けない社員が多かった
お恥ずかしい話だが、今から18年前にウチの会社に転職したころ、お客さんに納品する資料の日本語チェックを僕はかなりやっていた。「てにをは」を直したり、異様に一文が長い文章にダメ出ししたり、「結局何がいいたいの?」と考えを整理するところから付き合ったり。
論理的な文章というと、バーバラ・ミントの「考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則 」が有名だが、そんな高尚な話ではない。構造的な文章以前に、普通に他人に伝わる文章にするのに四苦八苦する社員が多かった。

最近はウチの社員のレベルが上がったのか、あまりこんなことに時間を使わずに済んでいるが、当時はひどかった。とはいえ、流石に知的労働をしていた人々なのだから、日本人の平均的な日本語運用能力よりは高かったはずだ。つまり日本人の半分以上は、日本語でちゃんとした文章が書けない。それが当時僕が思い知った悲しい現実である。



★エピソードその3:中学校教材「国語演習」
以前、娘が捨てようとしていた「国語演習」のテキストをちらりと見て、驚愕した。うちの娘は都内の私立中学に通っているので、そのテキストは学校オリジナルだったのだが、内容が「まさに当時のうちの社員にやらせたい!!」という内容だったのだ。例えばごく一部を紹介すると・・

【分かりにくい文章とは?】
・文章Aと文章Bはどちらが分かりやすいですか?
・文章Cを分かりやすく直してください
・分かりにくい文章は、どんな特徴があるでしょうか?

【インタビューのチェックポイント】
⇒ロールプレイの振り返りの時に、このチェックポイントを確認しましょう
・相手が答えやすい質問ができるか
・相手の反応に応じてオープン/クローズドの質問を使い分けているか
・インタビューを客観的に分析し、補足する質問をしたか


「末恐ろしい・・」と思った。これは極めて優れた、国語の運用能力を鍛える訓練になっている。こんなのを中2から叩き込まれたら、まともな報告書を書いて、まともに議論ができるビジネスウーマンが育ちそうな気がする。他にもブレインストーミングのやり方だの、僕がケンブリッジに転職してから初めて叩き込まれたようなこと(転職していなかったら一生縁がなかったようなこと)を色々と教わってくる。

そしてそれを特別なこととは思っていない(だから使い終わったテキストを捨てようとしていた)。この時点で、僕ら世代よりずいぶん先を行っている感がある。私立に限らず、全ての学校でこういうことを教えてほしいし、なんなら今からでもうちの社員に教えてもいい。うーむ。


「AI vs教科書が読みない子どもたち」、ウチの社員の恥ずかしい話、某中学校での国語教育。この3つのエピソードから、僕は「こころ」や「山月記」を始めとする文学に力を入れている今の国語教育に疑問を感じ始めた。もちろん、今の国語の時間は文学だけでなく、論説文も読ませる。だが、「読んで⇒問題に回答」という部分に特化しすぎているのではないだろうか。国語を運用する、というのはもっと多面的なことだし(上記のインタビューや報告書はその例)、仕事ではそういう能力をバリバリに使う。

本当は文学を味わう授業と、国語の運用能力訓練を両方をやるべきなのだ。娘の中学校だって、文学をやっていない訳ではない。ただし公立では特に、授業の枠は有限だ。なのに、英語をもっとやれだの、プログラミングを必修にしろだの、教えることを増やすべき、という圧力は巨大だ。
僕は英語をこれ以上増やしたりプログラミングを学校で教えることは反対で、そんな暇があるなら国語を鍛えるべきだと思っている(同じことが「AI vs教科書が読みない子どもたち」でも強調されている)。文学国語 vs 論理国語という対立は不毛だ。国語自体をもっと強化すべきなのだ。プログラミングなんかよりも。それが一見遠回りだが、グローバルで活躍できるデジタル人材(笑)を育成する上でも近道だと思う。
だがもしどちらかしかできないなら、「山月記」の時間を増やすよりは、ここで紹介した「国語演習」のような、「日本語を使いこなす力」を強化して欲しい。

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