2chが閉鎖されるという話が飛び交っている。遅ればせながら、何も書かないのも気持ちが悪いので、少し感想を書いておく。
それから、実際に今回閉鎖されるかどうかはともかく、こういうネット上の空間、特に2chなんかは、危機管理を考えた運営をした方がいいのではないか。
■ひろゆき氏への感想
「気の長い話:Winnyが作る歴史」というエントリでも少し触れたとおり、ひろゆき氏が日本のインターネットに与えた影響は大きくて、大したものだと思っている。(もちろん、オトモダチになりたいかどうかという論点とは別にして。そこまで個人的な感想は、僕は持っていない) 日本のインターネットの一部は確実に彼が作っている。
しかし稼ぎまくっておきながら賠償からは逃げ回ってるのもなー、しかも少なくとも脱法行為だもんなー、と、庶民的感覚から言えば釈然としない気持ちがあるのも事実。
その一方で、「イチイチ払ってたり、イチイチ裁判行ったりしてたら、今の2chなんて運営できるわけないじゃん。あれは確信犯なんだよ」という趣旨の書き込みを見たりすると、それもなるほどと思ってみたりする。
■そもそも差し押さえできるのか?
素朴な疑問だが、そもそも差し押さえなんてできるのか、と思う。ただこれについては、あまりちゃんとフォローできていないが、詳しい方による同趣旨のブログ・記事等いろいろ出ているようなので詳しくは突っ込まないことにしよう。
■そもそも閉鎖なんて起きるのか?
あまり世の中で触れられていない気がするのだが、ここが一番疑問。仮に差し押さえが本当に強制執行されたとして、差し押さえ=2chのドメインの停止なんて本当に起こるんだろうか。
なぜ「閉鎖」なんて話になったかが不思議なのだが、最初にあった報道に「閉鎖」というキーワードが出ていたのが大きいのだろう。あれらの記事は何を根拠にしているんだろうか。男性(35)が、「2chを差し押さえして閉鎖するつもりです」とインタビューに答えたのだろうか。
・そもそも、2chのドメイン名の所有権が停止されることと、ドメイン名の運用が止まることは別では?
・差し押さえしてドメインの運用を止めたら、ひろゆきの財務状況も悪化するし、「2ch.net」というドメイン名の資産価値も下がるし、意味がないのでは?
・そもそも何百万、一説には二千万人のインフラを止めるだけの度胸がこの男性(35)にあるのか?
最後のポイントが大きい。どう考えても運用が止まるわけがない気がします。
■実はもろい?2ch
実際に今回の事件で2chが閉鎖されるのかどうかはともかく、今回の事件は改めて、2chという世界有数の巨大な公共空間が、「ひろゆき氏」という個人に依存しきっているという恐ろしい事実を再認識させてくれる。
何百万人の利用者が毎日使っている空間というのは、社会の財産だ。
「500万円ぽっちで、おれたちがいつも使ってる2chを潰されてたまるかよ」という趣旨の発言があちこちで出るのももっともなことだ。500万円の債権と2ch.netのドメイン名が生み出している空間の価値では、桁が違う。金銭的な価値の問題だけではない。多くの人の生活が関わりすぎている。もちろん、これが「負の価値」だという評価の人もいるわけで、その人たちは潰した方が功徳になると言うかも知れないわけだが、影響が大きいことだけはそういう人たちも否定しないだろう。
2chは、ひろゆき氏本人にさえつぶす権利なんかないんじゃないかと思えるほどの、巨大で影響力の大きい空間だ。
しかし一方で、2chが今の形で存在しているのは、法的リスクも世間からのバッシングも、全部ひろゆき氏個人が引き受けているからに他ならない。その意味で、この巨大な空間はひろゆき氏個人に依存しきっている。
ということは、ひろゆき氏に何かあったら2chは非常に大きなダメージを受けるわけだ。例えば差し押さえ。例えばひろゆき氏が明日突然事故で死んだら2chはどうなるのか。
■2chは避難訓練をやった方がいいんじゃないの
以下は、2chの住民とは言えない人間が、他人事なのに勝手にふと思ったことです。
考えてみれば、公的機関というのは災害や事故などの非常時に備えているものだ。2chくらいの空間になれば、自然と公的な性質を持たざるを得ないのだから、手をこまねいて見ているのもどうかな、と思えてくる。
何か起きたときのための備えはしておいた方がいいのではないか。例えばドメインが使えなくなったらどうするか。ひろゆき氏が明日死んだらどうするか。危機的な状況を想定して、どう対処するかということを考えておいた方がいいんじゃないかという気がしてくる。特に、2chは「ひろゆき氏」という個人に依存している点で、構造的にもろいのだから、必要性は高そうだ。
別にひろゆき氏にやれというわけではない。住人の一部が勝手に考えたりしてもいいのだろう。いざというときの避難所の検討なんかはあらかじめやっておいてもいいのかもしれない。ひろゆき氏も、いざという時のために遺書くらい書いておいた方がいいんじゃなかろうか。
住民とは言えないが、いろんな形で2ch発のものを楽しんでいる一個人としては、何かの事故で2chが突然なくなってしまうのも寂しい感じがする。
Winnyの判決が持つ意味を、少し大きな枠から考えてみたいと思う。しばらく更新をさぼっていたが、Winny開発者である金子氏が逮捕された前後に多くのエントリを書いてきたことを考えると、この機会に一言、思ったことを書いておかざるを得まい。
★有罪か。
個人的には、そうかあ。という気分だ。Winnyに関する議論は一通り出尽くした感があるので、この有罪という結果は「途中経過」として受け取るばかりだ。もちろん弁護団は控訴するわけだから、一つのマイルストーンに到達したな、というような感想を持つ程度だ。
この判決が「ソフトウェア開発者」にとって実際にどのくらいの危機を及ぼすかというと、その点は疑問だ。(これはもちろん後知恵だが)金子氏は脇が甘すぎた。今回の有罪判決が導かれた大きな理由は、金子氏のこれまでの発言が一貫して「反現行著作権的」だったということにあるのではないか。その発言と、Winnyのようなソフトウェアの開発をセットで見ると、確かに怪しさは高まる。例えば、金子氏が開発の経緯でずっと著作権の遵守をユーザーに強く求める発言をしていたら、今回のような判決はあったか。あるいは、金子氏が一度でもWinnyを題材に学会発表をしていたら、こんな結果にはならなかったのではないか、そんな気にさせられる。逆に言えば、今回の裁判の経緯と判決を見ると、ソフトウェア開発者は、表向きマジメな態度を保っていれば危険は避けられるのではないか、と思わないでもない。もちろん、今回の裁判の経緯は別にして「今度は他にどこでいちゃもんをつけられるかわからない」のは確かで、実際のところはわからないわけだが。
とにかく、この裁判が起こってしまった時点で、すでにソフトウェア開発者は、違法な利用が想定されるソフトウェアの開発にリスクがあることを意識せざるをえなくなっているのは確かだ。今回の判決以降の動きは、そのリスクの程度を量的に測る指針になる。リスクがあることは明らかで、「どこまでいけばどの程度危険か」という話になるわけだ。
★金子氏はダメージを受けたか
社会的な影響もさることながら、金子氏自身はこの判決でどうなるのか。まあ、大局的に見れば別に変化はないだろう。金子氏自身も、一審でこの判決が出るのはある程度覚悟していたのではないか。今、金子氏を評価している人が、この判決を受けて、その評価を下げるとも思えない。金子氏を批判していた人たちも。。。もし無罪だったら驚いただろうが、有罪だったのだから、別に評価は変わるまい。
そういう意味で、今回の判決は金子氏には大きな影響は与えなかったと言えるのではないか。そして、実は結果が無罪だったとしても、実は結果はそんなに変わらなかったろう。検察側は控訴しただろうからだ。どのみち、最終結論は見えない、最初の一歩に過ぎなかったわけだ。
★ひろゆき氏の偉大さとWinnyの役割
実は今日、日本版Wikipediaの中の人と話す機会があった。いろいろとお話を聞いたのだが、Wikipediaが直面するさまざまな問題について話を聞くうちに、「ひろゆき氏の偉大さ」という話が出てきた。
Wikipediaというのは、実はいわゆる「Web 2.0的」と言われるサービスの中でも、かなり特殊な存在だ。Web 2.0的なサービスをいくつか挙げてみよう。Google、Flickr、Wikipedia、YouTube……、日本で有名どころと言えばはてな、mixi、gree。Web 2.0的と言わずに、プラットフォームサービスと言えば、Yahoo、楽天、2ちゃんねるなどか。マイクロソフトを加えるべきかも知れない。どこが境界線なのかは、もちろんいろいろな意見があるにしても。こうして簡単にリストを想像してから振り返ってみると、実はほとんどのサービスは営利企業が提供している。つまり、そのサービスに最終的な責任を負う法人がいるわけだ。
責任を負う法人がいるということは、訴訟リスクを意識せざるを得ないということに他ならない。法人が運営しているプラットフォームビジネスは、訴訟を意識していろんな手を打っているし、組織としての判断をしている。例えば、mixiがある日記を削ったり、あるユーザーを退会させたりするとき、「私たちは、規約に乗っ取り組織の判断としてそういう決断をしました」と言うわけだ。そこには主体がある。
ところが、wikipediaの運営組織には、そういう主体性は薄い。日本のwikipediaにはローカルルールがあるが、wikipediaの運営組織には法人格はない。mixiには代表権のある社長がいて「私がmixiです」と言って話ができるが、wikipediaにはそういう人はいない。ただ、ユーザー間で話し合ってルールを作り、ボランティアである運営者はそのルールに従って運用をしているだけだ。そういう特殊な「場」で、みんなで運営ルールを作り出すのが難しいことは、想像に難くない。
そのルールを考える上では、もちろん法的リスクなどもいろいろと問題になる。ルールは法的な問題をできるだけ避けられるようになっていなければならない。それを検討する上で、いろいろな判例を調べたりする必要があるわけだが、そこで2ちゃんねるのひろゆき氏が登場してくるというのだ。ウェブサイト上でのトラブルで訴訟になるケースを追っていくと、ひろゆき氏の事例が多く出てくる。彼がいろいろな問題を引き受け、いろいろな判例を作ってくれているのだ。
ウェブ上でサービスを提供している企業は、訴訟を避けるように振る舞う。法的な問題が予想されれば、あらかじめ安全側に倒して行動する。従って、普通の企業が提供しているサービスではあまり訴訟は起きない。特に、裁判コストが高い日本ではその傾向が強い。しかし、判例が出なければ、世の中はグレーゾーンばかりで、どこまで行けば黒くなるのかはわからない。。。そこに豊富に判例を提供してくれているのがひろゆき氏なわけだ。ひろゆき氏のおかげで、後進が道を見極めることができているという側面がある。
この話が、僕の中ではwinnyの話とどこか繋がって見える。金子氏がwinnyで世の中に見せたいくつかの問題点は、いつかは我々の社会が考えなければいけない論点だった。その結論が判例という形で示されるのは、都合がよい側面も確かにある。そう考えると、winnyの問題が裁判沙汰になったということには、良かった面もあるのかもしれない。
ただ、最終的な結論は、最高裁で決着がつくまでは得られないだろう。気の長い話になりそうだ。
CNETに「空飛ぶ車」についての記事が載っています。2000万円以下で買えるらしい。翼を折りたたむと自動車サイズになる飛行機で、二人乗り。ハイオクで800kmくらい飛べ、飛行中の燃費はリッター10kmを切ります。ガソリンスタンドで給油できるのが素敵。さすがに一般道で離着陸、ということは考えていないようで、飛行場まで自動車形態で移動していき、そこから飛行機モードに変形して飛ぶというシナリオを想定しているとのこと。でも、アメリカだったら都市部以外なら飛行場以外でも離着陸できちゃうんじゃなかろうか。日本だって田舎の方ならできなくはないかも(技術的には)。メーカーは「空飛ぶ車」というよりは、公道も走れる飛行機と呼んで欲しいと言っているとのこと。
ぜひ写真を見て欲しいんですが、変形するというところに夢があります!
でもまあ、実際問題としては日本に向いているのは一人乗りヘリコプター(タケコプター?)かな。日本なら、GEN H-4、アメリカならエアスクーター。ということで実際動きますし。日本のGEN H-4の方がタケコプターにイメージが近いような気がします:)しかもGEN H-4は日本で実際飛べます。免許(みたいなもの)は必要ですが、セスナの免許取るのよりもはるかに難しいということはないんじゃなかろうか。ただ、問題は離着陸の場所までいちいち許可を取らなきゃいけないということで、実用はちょっと難しいというところでしょうか。でもコースが決まっていればなんとかなるかもしれません。例えば、関東の田舎の方に勤務先を持っていて、そこでがんばって許可を取り、沖縄->羽田->(タケコプター)->勤務地なんていう感じで沖縄から関東に毎日通ったりできるんじゃなかろうか。
それにしても、変形空飛ぶ自動車とかセグウェイとかタケコプターとか、こういう夢があって今の規格から外れている乗り物が、もう少し自由に使えるようになってもいいと思うのです。みんな高いから今はちょっと手が出ませんけど。
今日の話には断然「L・レッシグ氏、互換性あるライセンスを提唱--コンテンツ再利用の促進に向けて」を選びたい。レッシグ氏はやはりこういうところが凄い。
オープンな著作物を作っていこうという動きには、いろいろある。代表的なのはGNUのcopyleftをはじめとするオープンソース系のライセンスや、レッシグ氏が提唱して一定の広まりを見せているCreative Commonsだろうか。(そういえば、僕はしっかり追いかけていないが、久々にアップデートされるというGPLv3もいろいろなところで話題になっている)
これは又聞きなので、僕自身正確な実態をつかんでいるわけではないが、オープンソースソフトウェア(OSS)のライセンスにはどんどん亜流ができており、拡散傾向にあるという。おなじOSSのライセンスと言っても、いろいろな種類があるわけだ。レッシグ氏の今回の提案は、そういう拡散を防ぎ、またOSS開発プロジェクトの法的側面を支援していこうというものだ。
ライセンスの"compatibility"(互換性)という言葉を使っているところが面白い。つまり、異なるライセンス間の橋渡しをしようというわけだ。確かに、ライセンスが異なるOSSのライブラリを混ぜて新しいソフトウェアを作ったら、そのソフトウェアのライセンスはどうなるんだろう?なんてのは難しい話だ。
レッシグが提唱する"Software Freedom Law Center"では、OSSプロジェクトの法律面での事務局機能を提供するという事業もやるらしい。プロジェクトの人たちは、開発に専念してくださいというわけだ。とても面白い試みだと思う。
日本ではこういう活動はあまり聞きませんよね。
今日は二つのニュースを紹介。一つめは、「等身大“コピーロボット”で存在感の本質を追求する」 (Robot Watch)というもの。最近、ロボットに関するニュースが非常に多い。これは日本だけではなく、アメリカ発のニュースにしても言えること。
この記事では、人間とのインタフェイスとしてロボットを捉え、その手始めとして出来る限り人間に近いロボットを製作している。写真だけで言うと、かなり人間に近い出来になっている。また、動画を見てもがんばっているな、という印象だ。「人間らしく見せる」という技術だけを取れば、ディズニーやPixar、ハリウッドのSFXの方がノウハウを持っているのかもしれないが。ただ、ここではそれを見たときの人間の反応や、ロボットと人間の動的なインタラクションの研究もしており、「人間らしく見える」ということだけを追求しているわけではないから、比べるのは間違っているかもしれない。
自分に似せたロボットを操作していると、奇妙な気分に襲われるという。また、人間からこういうロボットを見て、何が「人間らしく見える」ポイントなのかというような研究もしていて、実際人間を相手にしたときと同じような反応をする人もいるらしい。人間とは何か、自我とは何かというような話になっちゃうんだろうか。SFでは、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を始めとして古くから扱われている一つのテーマではあるが(いや、過去形で書くべきか)、現実が追いついてきた。
もう一つの話は、"Apple and 3 Automakers Plan Alliances on iPod Use"(New York Times) というもの。Apple社とGM、フォード、MazdaがiPod付の車を売るという協定を結んだというもの。昨年秋には、ホンダ、日産、アウディ、フォルクスワーゲン、フェラーリなど、12社とすでに同様の協定を結んでいて、これでアメリカで売られる車の70%はiPod対応できるようになるらしい。料金も150ドルから200ドル+工賃ということだから、そんなに高くはない。それにしても、iPodの独占状態はどこまで続くんだろうか。
かねがね、携帯電話(携帯メール)や電子メール、IMなど、各種の情報ツールが普及することで、国語力は高まりそうだと考えてきた。今日、「IM表現は「優れた言語能力を示す」――カナダの大学が調査」(ITmedia)なんて記事が出ていて、さもありなんと改めて思った。この機会に、これまで考えていたことを簡単にまとめておこうと思う。
★日本の国語教育は国語力を高めるか
大昔から、日本の国語教育には疑問を持っていた。というのはまあ大げさだとしても、自分が小学生から高校生までの12年間、国語の授業を受けてきた経験から言って、国語の授業が自分の「国語力」を高めたとは思えない。もちろん全部が無駄だったとも思えないけれど、はっきり役に立ったのは漢字の書き取りとローマ字、あとはことわざや敬語・丁寧語の教育くらいか。どれも暗記の範疇のものばかりだ。古文と漢文のについては、外国語の授業に近いと思うので、まあ今回は考えないことにしよう。正直、国語(高校で言えば現文)の授業で読解能力がついたとも思えないし、しゃべり方がうまくなったとも思えない。まして、文章を書くことについては、国語の時間に教えてもらったことが役に立ったことはほとんどなかったと思う。(日本人の教養を身に付けるという意味では、確かに国語の授業が役に立ったことも多い。むしろ、「教養」という授業にしてもいいくらいだと思う)
実は学生として大学にいたころ、僕は7年ほど学習塾で塾講師をしていた。主要な教科は中学校英語だったが、数学もやったし、理科もやった。そして、小学校の算数と国語もしばらく教えていたことがある。自分が生徒だった頃も薄々感じてはいたことだったが、教壇に立ってみて改めて小学生の国語の教材を見て、「こりゃいかん」と思った。こんな問題集やらを解かせながら時間を過ごしてみても、こいつら(生徒たち)の国語力が上がるわけがない、というのが正直な感想だった。
典型的な国語の長文問題を思い浮かべてほしい。小説やら説明文から、何百字かの文章が、きりのいい長さで抜き出されている。そこここに傍線が引いてあったり、(ア)だの(イ)だの抜けているところがある。問題では、文章のある部分を取り出して、その意味を4つの選択肢から選ばせたり、漢字の読みを書かせたり、主人公の気持ちを書かせたりする。授業で先生が言っていたことを聞いていれば、このクイズに答えられる仕組みだ。
確かに、国語力が高い生徒は、文章を読んでその意味するところを理解できる。従って、国語力が高い生徒はこのクイズに答えられる。だから、生徒の国語力を測る仕組みとしては、こんなクイズも役に立つだろう。しかし、国語力が低い生徒に対する教育効果はどうだろう。こんな問題を繰り返しやることで、国語力が高まるだろうか。漢字の書き取りくらいは出来るようになるかもしれない。クイズに答えるテクニックも多少身に付けられるかもしれない。しかし、文章の読解力が高まるとは思えない。
ところが、受験もあれば学校の定期試験もあるというわけで、生徒はこういうクイズに答えられることが国語力だと思う。先生も、ともすれば最後にクイズを出すことを前提に授業をする場合も多い。
多くの人が賛成してくれるのではないかと思うのだが、読解力は好きな文章をたくさん読むことで身につく。コミュニケーション能力は、人とたくさんコミュニケーションを取ることで身につく。文章力は、人に伝えるための文章をたくさん書き、間違いや分かりにくいところを他人に指摘されることで身につく。クイズをいくらやっても、こういう力は大して身につかないだろうと思う。
僕が塾で小学生に国語を教えた時は、問題集の長文問題を使って、生徒たちに音読をしてもらい、感想を聞き、その文章の要約文を原稿用紙に書かせる、ということをひたすらやった。そのクラスは1年間しか見ていなかったので、そのやり方が正しかったのかどうか、今でもよくわからない。でも、ひたすらクイズを解き続けるよりは、何がしかの役に立ったのではないかと思う。
★現代・情報社会の日本人は文章を書いている
そもそも、日本人のほとんどは、まともな日本語の文章を書けない。わが身を振り返ってもそう思うし、回りの人たちを見ていてもそうだ。僕は研究者という職業柄、文章を書くことは仕事の一部なので、他の職業の人たちと比べ、はるかに文章を書く機会が多い。言わばプロだ。それでも、時々自分が書いた文章を読み返して呆れることがある。そのくらい、文章を書くことは難しい。そして、文章を書くのがうまくなるためには、たくさん書くしかない。
しかし、学校教育の中で文章を書く機会は極端に少ない。長文問題の最後にある「この時の主人公の気持ちを40字以内で書きなさい」なんて問題の答えを書くときや、夏休みの読書感想文の宿題をやる時くらいではないか。だが、「伝えたいこと」を書かずに、文章力がつくだろうか。つくとは思えない、というのが個人的な思いだ。人に伝えたいことを書こうとするとき、初めて人は自分の文章について「こう書くのがいいか、それともああ書くのがいいか」と考える。そういう経験を経て、文章力や国語力が身につく。
特殊な職業を除けば、多くの人は就職後も文章を書く機会はない。これで、文章力をつけろという方が無理だ。
ところが、今の日本はちょっと事情が変わってきた。文字によるコミュニケーションの機会が、極端に増えているのだ。たとえば携帯メール。たとえばブログ。たとえばIM(メッセンジャーなど)。情報化によってコミュニケーションツールが急速に発達しており、その中心は文字によるコミュニケーションだ。その結果、現代人は誰かに何かを伝えるために文章を書く機会が著しく増えている。
まず確実に、今は有史以来日本人がもっともよく文章を書いている時代だと言っていいのではないか。このことで、日本人のコミュニケーション能力や文章力は、全体的に向上するのではないか。これが、以前から僕が考えていたことだ。
★カナダの研究が伝えること・「言葉を操る優れた能力」はどう養われるか
実は、この記事を書くにあたり、とりあえず「携帯 国語力」というキーワードで検索をかけて、いろいろなページを眺めてみた。携帯メールの普及によって、最低限の短い文章によるコミュニケーション文化が作られ日本語を歪めている、というような主張をしているページもあれば、国語審議会の文字セットの議論の中で「携帯の普及についても織り込んで考えていかなければならない」という意見が表明されているページもあった。全体的に見ると、あまりこの問題に深入りしているページはないようで、肯定的な捕らえ方をしているページは少ないように思える。僕にとっては少し意外な結果だった。
冒頭に挙げた記事は、海外のことながら、僕がこれまで思っていたことを裏付けるものだ。しかも、この記事はもう一歩踏み込んでいる。IMの中で使われる表現では、砕けた言葉遣いだけではなく、話し言葉では使わないような文語的表現も使われていることを指摘し、これを「言葉を操る優れた能力」と呼んでいる。
確かに、われわれは場面によって言葉を使い分けている。話し言葉もそうだし、書き言葉もそうだ。携帯メールとブログとIMでも、まったく違う。2chの書き込みを想像してもそうだ。僕自身は2chは読む一方で書き込んだことはないのだが、周囲の人のケースを見ると、普段は理知的な話し方や書き方をする人も、2chでは2ch語になる(いわゆる「空気嫁」というやつか)。そういったコミュニケーションの場に文字を使って参加するためには、必然的に文脈や場面の雰囲気を読んで、最適な言葉遣いはなにかを考えて文章を構成する必要が出てくる。
こういったことの繰り返しは、言葉に対する感性を養うに違いない、と僕は個人的に思う。(日本の話でこれを裏付ける実証研究を僕は知らないが、もしすでにあれば、ぜひ教えてください) これを我々は肯定的に捉えるべきだというのが、僕の意見だ。
日本の国語の時間の1/3くらいは、ブログを書かせたり、2chに書き込ませたり、掲示板で議論をさせることに使ったほうがいいのではなかろうか。(蛇足)
「インテル、「Centrino」関連セキュリティパッチを公開」 (CNET)、「Intel Centrino無線ドライバに脆弱性」(ITmedia)なんて記事が出ています。。
IntelのCentrinoのいくつかのチップのデバイスドライバに結構深刻なセキュリティ問題があって、パッチを当てなくてはならない、という話。最悪、無線LANの電波が到達できる同じ脆弱性を抱えているマシンの間を飛び回るワームも作れるとのこと。いや、セキュリティホールの話なんて世の中に腐るほどあるわけですが、今日なぜこの話を選んだかというと、うちの子(PC)のチップが実はこいつなのでした……。手動でパッチ当てなきゃいけないのかよ、ちくしょう。
具体的には、「Intel® PRO/Wireless XXX Network Connection」のシリーズのうち、「XXX」の部分が「3965ABG」「3945ABG」「2915ABG」「2200BG」「2100」のものが影響を受けるそうです。みなさんもチェックしてみてください。
詳細はこっちのIntelのページを参照。でも、「できれば各ラップトップメーカーの出してるパッチを当てた方がいいです」とか書いてある。どうすりゃいいんだ。面倒なのでちょっとだけ放置します。
日本語のインテルのページを見ても、こんな何も書いてないページに行き当たるだけだ。いいのかなあ。これ。
そういえば、亀田さんの試合があったみたいですね。Yahooのこの投票ページがすごい。95%が判定に異を唱えている。こういうのが数字で出ちゃうのがインターネットの凄いところですね。この話題もいろんなところで盛り上がっているようですが、自分はこの試合のことをすっかり忘れててスルーしてしまったので、この件はこのくらいで。
自分が関わっている研究会で、韓国の情報社会関係のイベントが、立て続けにある。これまで日本は基本的には情報化の事例を米欧に求めてきたが、ここ数年韓国や中国の情報社会に関する情報が多く流れ込んできている。
今週は僕にとっては韓国ウィークなのだが、韓国の状況は日本や米欧とは異質な状況が広がっているらしい。ADSLが普及しているということは有名だが、それに加えてネットの使い方が日本のブログやSNS事情とは、全く異なるらしいのだ。
今日は、僕の所属するGLOCOMが主催する「GLOCOM情報社会学若手研究会」の6月会合がある。今回のテーマは「韓国情報社会の現在-ゲーム研究・ソーシャルウェアに関する現地調査報告から」(本日13時からGLOCOMで行われるが、参加費は無料なのでもし飛び込みで参加したい方がいらっしゃれば、研究会のウェブページの案内をごらんの上ご参加下さい。)
韓国のゲーム事情も、また日本とはかなり違った状況にあり、PCゲーム、特にMMORPGが中心になっているらしい。韓国はゲーム研究自体も盛んで、聞くところによると日本も相当学ぶべきところがありそうな様子だ。ブログやニュースサイトなどの情報発信系のメディアの使われ方も、例えばgoogleがほとんど入り込めていないなど、かなり様相が違うとのこと。
また、来週木曜日(6/15)にもGLOCOMが主催する「IECPセミナー」事業の一環で、東大の玄武岩氏に「韓国のインターネット言論と市民社会-日韓ネット文化の比較から」というテーマで発表していただく。インターネットを活用した政治参加の実際に関する議論が行われる予定。参加型メディアの発展状況について議論するとき、韓国はここ数年よく参照されるが、詳しい話を聞くよい機会になる。(こちらももしご興味があればご参加下さい。申し込み要領はこちらまで。ただし一般参加者は有料になります)
これまでGLOCOMの中で小耳に挟んでいる情報を総合すると、韓国はどうもWeb 2.0的な世界とはまた別の方向に向かっているらしいという印象を持つ。掘り下げておきたいところだ。
田澤由利さんという方がいて、「ネットで働ける」社会は本当に来るのか?という記事を日経のネット時評に記事を書かれているのを、僕の働いている研究所の代表、公文先生から教えていただいた(他のメディアの紹介で失礼)。田澤さんはすごい方で、北海道の北見に住んでいるのだが、ネットがあれば田舎にいたって仕事ができるはずだと、y's staffという会社を起業された。この会社は、在宅で働く「ネットメンバー」を組織して、ネット上だけで仕事をしてしまおうという野心的な会社だ。その経験をふまえ、今考えていることをまとめられたのが前掲の記事だ。
「インターネットが普及すれば、ネットで在宅で仕事したりすることもできるよね」、なんてバラ色のインターネット観もあるのだが、いろいろやってわかったことは、そう簡単にはいかないということだ。顔をつきあわせないでネットだけで仕事をしようとしたことがある人なら、誰でもわかることだと思うが、ホントにやろうとすると、結構大変なのだ。ツールの問題もあれば、仕事のスタイルの問題もある。技術だけで解決できない問題がかなり多い。ましてや、田澤さんのやろうとしているように、在宅でも働きたいというひとたちを集めて、その人たちを組織しようとすると、その難しさは並大抵ではないだろうと思う。本当に尊敬する。
記事を読んで、いろいろな感想を持ったので、思わず長文の感想を書いたのだけれど、ここにも載せておくことにする。
★以下感想文
いろいろなことに思い当たりました。僕は10年以上前から、半分冗談を込めて「ネットワークの研究をやっている俺たちが、研究室に物理的に集まらないと研究できないなんていうのは技術の敗北だ」なんて言っていたものですが、その問題意識は今でもくすぶり続けています。
田澤さんは「教育」「管理」「仕事」という言葉を使っています。ここで「管理」と呼んでいるものは、実はコラボレーションスキルなのではないかと思います。
我々がオフィスを共有した方が仕事が進みやすいというのには、直接の対話による情報の豊かさのメリットを享受したいということもありますが、実は単に紙を使いたかったり、お互いに気配を感じて(相互監視して?)、互いの仕事の進行状況などを身体的に把握するといった、コラボレーションに必要な情報の共有の方法が、自然と身についているという要因が大きいように感じています。
ネットで協働しようとすると、コミュニケーションのスタイルや情報の共有方法、進捗状況の相互把握、仕事の進め方などが共有できている場合と、そうでない場合では効率に大きな差が出ることが経験的にわかっています。もともと息が合っている人とは、メールとskypeだけで、ほとんどの仕事ができます。これを田澤さんは「管理」と呼び、その形式化が重要であると述べておられるのだと思います。全く同意見です。
われわれはよく協働という言葉を使いますが、ネット上で協働をするためには非常に多くのスキルと環境・道具を共有する必要があります。このことをみな感覚的に分かっていて、そのコストを払いたくないがために、現在は慣れた実空間を使っているのではないでしょうか。
(実際にはもっと具体的な必要性もあることは承知の上で、捨象してみました)
もしそうだとすれば、情報社会で遠隔でのことも考慮に入れつつ協働できるに至るには、田澤さんの問題提起である「管理」(=コラボレーションスキル?)の形式化、そのスキルの「教育」・共有が不可欠だと思われます。
まだ、情報社会で行われる協働のスタイルが出きったとは思えませんが、田澤さんが「仕事」(製造業的な仕事)と呼んでいるような領域の協働は、もう「管理」の形式化ができる領域まで来ているということなのでしょう。
地域情報化の文脈でも、若干広い情報社会学の文脈でも、いろいろ考えさせられます。
★感想文終わり
この時代にわざわざオフィスに来て仕事しているなんてのは、実は怠慢なのかもしれない。
身辺で、「地域SNS」というキーワードが飛び交っている。「地域SNS」は、今はまだ小さいが、これから世間で大きく扱われるかも知れないキーワードだ。SNSは「mixi」をその代表としてここ半年くらいで広く認知されるようになったが、地域SNSはそこから現れてきたソーシャルウェアの流れの一つだ。そして、古くて新しい「地域情報化」の流れも汲んでいる。
その地域SNSに関することで、今日職場で議論していて、ここ数ヶ月うまく説明できなかったことを、ようやく言葉にすることが出来たので、記しておく。SNSの世界は「パッチワーク」になるだろうということだ。まともに説明すると長くなるので、ここでは、日本のSNSの状況を駆け足で整理し、地域SNSの特徴について説明した上で、なぜ「パッチワーク」という言葉なのかということを(主に自分のために)書いておく。少し説明が乱暴になるが、ご容赦いただきたい。
★SNS乱立時代の到来
SNSと言えばmixiと言われがちだが、最近は非常に多くのSNSが立ち上がってきている。古株のGREEは言うに及ばず。ライブドアのフレパに、相次いで発表されたYahoo! 360°、楽天広場リンクスなど大手のポータルサイトもSNSを手がけるようになってきていて騒がしいし、2ch SNSなんてのもあるらしい(残念ながらまだ使っていない)。総務省がブログ・SNS(ソーシャルネットワーキングサイト)の現状分析及び将来予測なんてやっていたりして、社会的認知もかなりの水準まで来た。
SNSを使った、ポータルビジネス以外のビジネスモデルも出ている。一つは、SNSを提供するASPだ。"SNS ASP"のキーワードで検索すれば、この手のサービスの乱立ぶりがよく分かる。もう一つはSNSエンジンの販売だ。これも相当な数が出ている。ASPにせよ、SNSエンジン販売会社にせよ、それぞれが複数の顧客を持っていて、それぞれSNSを立ち上げているわけだから、ビジネスモデルになっている領域だけでも、数える気になれないほどの数のSNSがある。
その日本のSNS界に旋風を巻き起こしているのが、昨年夏に登場したOpenPNEだ。OpenPNEは手嶋屋さんが中心となって開発しているオープンソースのSNSエンジンだ。OpenPNEを使えば、UNIXサーバの管理がまともに出来るくらいの知識があれば、簡単に自前のSNSが開けてしまう。実際、OpenPNEを使ったSNSは非常に多く、例えば上で挙げた2ch SNSもOpenPNEを使っているようだ。OpenPNEプロジェクトの一ページにOpenPNEを使ったサイトが多く紹介されているが、ここで紹介されているのは一部のようで、個人や小さい組織でSNSを立ち上げるケースが非常に多くなっている。もちろん手嶋屋さんはビジネスとしてこの事業をやっているわけだが、OpenPNEが出たことで、ビジネスにならない領域でもSNSが使われ始めた。ブログは、オープンソースのMovable Typeなんかを使った個人サイトから始まって、大手ポータルサイトがブログビジネスに遅れて乗り出して行ったが、SNSではポータルビジネスから始まって、個人がちいさく立ち上げるサイトの流行へと流れてきており、流れが逆なのが面白い。ビジネスにならないSNSと言えば、OpenPNEベースの@PNEというサービスも一応紹介しておこう。@PNEは広告収入モデルの無料のSNSレンタルサービスなのだが、考えてみれば、エンジンもオープンソースのものを使っているから開発費も0だし、利用者にも無料でサービスを提供している。こんなサービスが提供されているのを見ると、SNSを作ることは、今、相当低コストになっているんだなと感じる。
SNSビジネスが盛り上がってきたところにOpenPNEの登場が重なり、今の日本はSNS乱立時代になった、と言っていいだろう。
★覇権争いの全国版SNSと、裾野を広げる専門SNS
さて、ここまで紹介してきたSNSを二つに分類してみよう。一つは囲い込みを基本戦略とするもので、これを(個人的に、全国を舞台にして覇権を争うゲームである、古き良き「信長の野望 全国版」への郷愁を込めて)「全国版SNS」と呼ぼう。もう一つは、ターゲットの絞られた人的ネットワークを支えるもので、これを「専門SNS」と呼ぶことにする。専門SNSの例としては、同人SNSのような趣味サイトや、ゲイ専用SNSといった嗜好に関するもの、医療関係者SNSのような業界でまとめたものなどがある。
囲い込みを基本とする全国版SNS同士は、競合関係にある。SNSはユーザ間のコミュニケーションを主なコンテンツとするサービスであり、数あるインターネット上のサービスの中でもユーザの滞在時間が多くなりがちだ。全国版SNS間の競合関係は強いと考えられる。一方、専門SNS同士には、必ずしも競合関係は存在しない。対象とするユーザが必ずしも同じでないからだ。(全国版SNSと専門SNSの間には一定の競合関係があると思われる)
次に、このSNS乱立時代に何が起こっているかを考えてみよう。まず、ユーザの側から見ると、今初めてSNSを始めようとするユーザは、どのサービスを使ったらいいか迷うに違いない。別の友達から別のSNSに招待されて、複数のSNSを利用している人もいるだろう。僕は地域SNSを研究の対象の一つにしていることもあって複数のSNSを利用しているが、なんというかとても……不便な感じがする。日記ひとつ書くにも、どこで何を書くか迷う状態だ。個人的な感覚では、4つか5つ以上のSNSで、同時にアクティブに活動するのは難しい。
SNS運営者の側から見ると、今、全国版SNSは大変な競争期にあって、覇権争いが繰り広げられている。これだけを見ていると、SNSはこれから淘汰の時代に向かい、一部の大手SNSを除いて、他のサイトは潰れていくように思える。ところが、それを横目に、個人や組織が、自分の持っている人的ネットワークを、自分の思うように管理したいという欲求から、小さな専門SNSを立ち上げており、これが雨後の筍のように登場している。これは全国版SNSのように互いに競合するわけではないので、淘汰の力はそんなに強くない。少数の大手SNSと、多くの専門SNSが併存するかもしれない。
★独自のモデルを提示する分散SNSエンジンaffelio
ここでSNSエンジンaffelioを紹介しておこう。affelioは、これまで紹介してきたSNSとは全く異なる世界観を提示している。これまで紹介してきたSNSでは、データベースは運営者が管理していた。違うSNSを利用するということは、運営者が違うということであり、データベースも別れているということだ。日本にある多くのSNS上に蓄積されている人的ネットワークや日記、コミュニティなどに関する情報は、分断されている。そして、ユーザの情報は運営者に委ねられている。個人情報の漏洩のリスクといった問題もあるし、なによりSNSが潰れてしまったら、そこに蓄積された情報や価値は消えてしまう。
これに対し、affelio世界では、データベースは個々人が管理している。それらのデータベースが互いに連携して、全体としてSNSを作る。情報の管理主体は、運営者からエンドユーザに移り、個人が自分の情報や他人との関係をコントロールする。もし、SNSの世界がaffelioだけでできてたら……僕が新しいSNSに入る際のプロフィールの再入力や、友達関係の再構築などの手間はなくなる。自分が使っていたSNSが潰れて、データが消えるなんてこともなくなる。何より、アーキテクチャ的にとても美しい。affelioは、SNS乱立時代が提示する問題の一部を、洗練された形で解決してくれる。(affelioにはオープンソースのバージョンがあり、誰でも自由にインストールできる)
★地域SNSの台頭
さて、ようやく、「地域SNS」の話に入ろう。地域SNSは、上記の分類で言えば専門SNSの一種で、地域をテーマとして運営されているものを指す。専門SNS全体が伸びているのと歩調を合わせる形で、地域SNSの数も急増している。少し古い資料だが、僕の仲間の庄司くんが作った地域SNSリストを見ると、4月6日時点で24の地域SNSがある。この内、昨年の10月までに出来たものは5つだけで、この半年で19の地域SNSが立ち上がってきている。……もっと言えば、実はこのリストはすでに相当古くなっていて、今では、もっと多くの地域SNSが発見されている。ごく最近まで庄司くんは全ての地域SNSの会員になり、毎日のようにそれらを巡回して、日本の地域SNSの状況のほとんどを見て回っていた。しかし今日話したところ、「もう、無理」なのだという。今後も地域SNSは勢力を伸ばしていくだろう。
★独特な機能を持つ、地域SNSの代表選手「ごろっとやっちろ」
ここで、地域SNSの特徴を説明するために、熊本県八代市役所が運営する地域密着型SNSごろっとやっちろを紹介したい。ごろっとやっちろは地域SNSの中ではもっとも登場が早く、オープンしたのは2004年10月だ。(次に2005年3月の佐賀県鳥栖市のサガン鳥栖SNS、それから2005年7月に関西ブロードバンドが運営する兵庫県のCLOVERと続く) 日本のSNSではダントツに早かったGREEとmixiが2004年2月であり、主な大手ポータルが追随したのがここ数ヶ月だということを考えると、ごろっとやっちろの登場はかなり早いと言っていいと思う。しかも、運営主体は行政だ。ちなみに、ソフトウェアは市役所職員である小林隆生さんが一人で書いたそうで、この人がとても面白いのだが、ここで詳しく触れるのはやめておく。
このごろっとやっちろのサービスが面白い。まず、かなり早い時期から地図機能を持っていた。これは地域に着目するサイトならではの発想だ。地図というメディアを媒介することで、情報は文字通り「地に足が着く」。抽象化された地図を通してでも、同じ地域の人たちはその空間をイメージできる。例えば、一度も行ったことのない駅の地図と、自分の最寄り駅の地図を見比べることを想像してもらいたい。一度も行ったことのない駅の地図はただの記号に過ぎないが、最寄り駅の地図を見ると、その駅の周辺の景色や人々が思い浮かぶだろうし、人によっては思い出が蘇る。SNSと地域と地図の組み合わせは強力で、空間のイメージや土地柄などを共有することで、SNS上のコミュニケーションをとても豊かにする(というのは、僕が科学的に実証したわけではなく、今のところ、僕にとっては経験的なものだが)。実は、地域SNSの3割が地図機能を持っている。全国版SNSや他の専門SNSには見られない傾向だ。
もうひとつ、ごろっとやっちろのサービスで印象的なのは、消防車の出動情報を共有するというものだ。誰でも、町を走る消防車の行く先が気になった経験はあるだろう。野次馬的な興味を持つ人もいるだろうが、近所での火事は知人の生死に関わるかもしれない事件だ。八代市では、消防車が出動するとごろっとやっちろを通じてその出動に関する情報が流れる。(一度など、サイレンが鳴ったが情報が流れなかったことがあって、クレームがついたことがあるということだ。)これなどは住民がリアルタイムで真剣に欲しがる地域情報の好例だろう。
ここで言いたいことは、まず地域とSNSの相性がよいということ、そして、地域のためのSNSに求められる機能やサービスは、他のSNSとは異なるということだ。
★地域SNSと地域の相性
地域SNSを「SNSの一種」という文脈で見ると、その重要性はわかりにくいかもしれない。だが、「地域情報化のためのメディア」という文脈で見ると、これまでのインターネットアプリケーションとはひと味違う。昔はよく、インターネットを使えば空間と時間を飛び越えることができる、などと言われていた。これは、裏から見れば、空間と時間を共有することで得られるメリットを薄めるということに他ならない。インターネットが普及することで、山奥の村からでも都会と同じようにユニクロのジーンズが買える。その一方で、地域の店へ落ちるはずのお金は東京に吸い取られ、地域の中でのコミュニケーションは減っていく。
このように、地域情報化という文脈では、インターネットは地域を豊かにするのではないかと期待されながら、多くの例外事例はあるものの、大きな絵の中で見ればこの期待は裏切られてきた。地域SNSはこれを逆転させる可能性がある。地域SNSにユーザが滞在することで地縁は強化され、地図上に情報が蓄積されていくことで、その地域の魅力は高まる。そして、ユーザの間で、その地域に対するイメージが共有される。
僕が所属するGLOCOMの丸田さん、そして鈴木謙介くんは、地域SNSは、住民たちが多くの地域から消えかけている「地域イメージ」を再創造する地域メディアの一種だと論じる。その当否は地域SNSの歴史が浅いこともあってはっきりしない。しかし、身内びいきかもしれないが、当たっているような気もする。そうなれば、地域情報化という文脈の中で、地域SNSは特別な意味を持つようになるだろう。
地域SNSの意義については本来もっと文言を費やすべきだが、ここでは最後に「SNSのアライアンス」と「パッチワーク」についてまとめて終わりにしよう。
★SNSのアライアンスの可能性
地域SNS関係者の一部で、SNSのアライアンスに関する議論が行われている。実のところ、地域SNS関係者の間でもアライアンスの必要性については疑問視する向きもあるのだが、僕は必ずアライアンスが起こると思っている。起こると言うより、ごく内輪向けのSNSを別にすれば、一定以上の規模を目指すSNSは、アライアンスなしでは生き残れないのではないかと思う。(ところで、SNSのアライアンスというのは曖昧な言葉だ。ここでは狭めの定義として、複数のSNSが何らかの形で技術的に連携し、互いのデータベースに蓄積されている情報を利用したり、互いの利用者がコミュニケーションしたりできるようにする仕組みについて議論することにする)
上でも述べたように、利用者が複数のSNSを使いこなすのには限度がある。これはトータルで割ける滞在時間が限られているからであり、利便性の問題でもある。SNSはその名の通り人の「ネットワーク」をコンテンツに変換する装置だから、基本的にはユーザが多くネットワークが大きいほど有利だ。だから、早い方、大きい方が勝つ。
例えば横浜と川崎の中間に住んでいる人にとって、横浜SNSと川崎SNSが別れていることに意味があるだろうか。出張先でうどん屋さんを探すとき、その地域に蓄積されているSNSの情報を使えたら便利だろう。日本のSNS界はすごい勢いで多様化・分散化を進めており、全体としての利用者は増えているのに、情報は分散傾向にある。利用者の利便性を考えれば、普段滞在しているSNSで、できるだけ多くリソースが得られる方がいいに決まっている。普通にこう考えれば、規模の大きなSNSが勝つだろうと思える。しかし、アライアンスが起こればわからない。もし多くのSNSがアライアンスに参加すれば、情報の蓄積の差やユーザの多少による有利不利は大幅に小さくなるだろう。1年後、2年後の日本のSNS界を想像したとき、そこにはどういう世界が広がっているだろうか。
SNSの分類を見るとき、全国版SNS同士はアライアンスをするメリットを見いだせない。囲い込みが基本戦略だからだ。だが、専門SNS同士、あるいは専門SNSと一部の全国版SNSの組み合わせであれば話は別だ。全国版SNS同士の場合に比べれば、競合関係ははるかに弱いので、アライアンスのメリットを検討する余地が生まれる。特に地域SNS同士は相性がいい。医療関係者SNSと学校教員SNSをつなげても重なる部分は少ないが、地域は互いにつながり合って全体を作るから、アライアンスに向いている。
★パッチワーク化するSNS?
最後に「パッチワーク」についてまとめる。
上では「一番大きいところが一人勝ちする」というシナリオから逃れるためのSNSアライアンスについて述べた。しかし、「なぜSNSアライアンスの方が、大きな一つのSNSよりもいいのか」ということは説明されていない。SNSアライアンスよりも、mixiが地図機能もなにもかも併せ持って、全てのユーザを引き受ける方が単純だ。
SNSアライアンスによって実現される世界をパッチワークに例えよう。最初から一枚の布なのではなく、たくさんの端布が繋がって一枚の布になるのがパッチワークだ。一枚一枚の端布は色も材質も違うものが、つながり合って全体を作る。
なぜパッチワークの方がいいかと言えば、ところ変われば欲しいものが変わるからだ。なぜOpenPNEがSNS界を席巻しているのか、ごろっとやっちろで新機能が導入され独自のサービスが始まったか。多くの人が、自分で設計し、管理できる空間を欲していて、実際に行動に移した結果だろうと思う。その理由はセキュリティの問題かもしれないし、新サービスを企画して始めたい、ということかも知れない。メンバーシップの方針を決めたい場合もあるだろう。先に述べたように、地域SNSが持つべき機能は、他のSNSとは少し違う。ここでは説明しなかったが、実は地域SNSの中でも運営方針などにかなりの違いがある。それぞれの事情に応じて、SNS空間を作りたいと思う人がたくさんいる。
自由に小さなSNS空間(端布)を作りたいという欲求が一方にあり、もう一方には全体をつなぎ合わせたいという欲求がある。この二つの欲求の間に、SNSアライアンス(パッチワーク)があるというのが僕の考えだ。そして、それをはじめに実現するのが地域SNS同士のアライアンスなのではないかと思う。
とっても長くなってしまいました。

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