バルトーク墓参 - ブダペスト滞在記(最終回)
バルトークは、20世紀前半にハンガリーで活躍した作曲家で、晩年はナチスの台頭を避けアメリカに亡命し1945年にニューヨークで没している。ナチスや共産主義の影響下では祖国に戻りたくないという意思を尊重して、1988年まで母国ハンガリーに埋葬されることはなかった。
今回のブダペスト出張の最後に一日延泊したのは、せっかくのヨーロッパをもう少し楽しもうということもあるものの、バルトークの墓参りを果たしたいという理由もあった。
バルトークの墓は、コダーイやショルティと同じく、ファルカシュレーティ・テメトゥー(墓地)にある。ファルカシュレーティは、ブダ側の丘を越えたところにあり、若干郊外といった感じだ。ブダペスト中心部からは、エルジェーベト橋あたりから8番のバス(前回紹介した地図を参照)に乗り、ファルカシュレーティ・テメトゥー(Farkasréti temető)で下車する。周りには花屋などがあり、まさに墓地といった感じだ。
バス停の正面に墓地のメインゲートがある
正面のロータリーのところに地図がある。これを見れば、バルトーク、そしてコダーイの墓の位置が分かる。
赤丸を付けたところがバルトークとコダーイの墓
正面入り口から、左側の道を歩いていくと、ほどなくバルトークの墓に出会う。
左右には妻、息子の墓がある
すぐとなりにショルティの墓もある。ショルティの墓は地図には掲示されていなかったのだけれど、バルトークの墓地建設にも貢献したこともあってか、この場所にあった。
場所が分からず引き返そうとしたときに偶然発見した
コダーイの墓は少し離れた丘の上にある。
著名なハンガリーの彫刻家による墓石
ちなみに墓地の入場時間は、季節によって変わる。おそらく日没時間との関係だろう。
1月から12月までのオープン時間が記載されている
墓地正面にはトラムも走っており、これに乗ればブダ側のターミナルであるデリ・パヤウドバル(南駅)に行ける。その先のセール・カールマーン・テア(Széll Kálmán tér: 共産主義時代はモスクヴァ・テアと呼ばれていた)で下りると、そこはバスのターミナル駅のようになっており、ここからブダペストでバルトークが最後に住んでいた家を改装したバルトーク記念館に行ける。
5番のバスに乗り、終点のパシャレーティ・テア(Pasaréti tér)まで行く。この辺は、郊外の高級住宅地といった感じで、記念館に至るチェーヴィ・ウッツァ(Csévi utca)には、立派な家が多く建つ。
この道をずっと進んでいくとその先に記念館がある
この道をしばらく歩いていくと、小高い丘の交差点あたりにバルトーク記念館が見える。オフシーズンだと来場者も少ないのか、それともそもそもこんな郊外のマニアックな記念館に来る人がいないのか、扉は閉まっていて、呼び鈴を鳴らして開けてもらわなければならなかった。
門をくぐるとご覧のような建物がある
庭にはバルトークの像がある。
バルトーク像
展示内容は、以前来たときとはだいぶ変わっていて、当時の写真や遺品などを中心とした落ち着いたものだ。珍しいものとしては、交響詩コシュートを発表したときに来ていた民族衣装風のジャケットとか。残念ながら展示品の写真はないので、こちらのバーチャル展示を。
この日は、その後マーケット、コダーイ記念館、英雄広場、ケレティ・パヤウドバル(東駅)などをめぐった。
改装されて美しくなった夕方のケレティ。地下道も新しい
キックオフ中は、これぞハンガリー料理というものを食べる機会がなかったので、夜は超定番のハンガリー料理をジプシー音楽とともに。
ツィンバロンの音色が独特。ヴィオラの構え方も面白い
少し時間が早かったので、最後に廃墟バーと呼ばれる最近若者が集う場所へ。
ドリンクはその場で購入。ワイングラスにはデポジットを取られる
使われなくなった古い建物にいくつものバーが並ぶ。日本でいうところの屋台バーのような感じだ。ただ、その微妙な退廃感が未来世紀ブラジルのような堕落した資本主義世界を感じさせる。50代のハンガリー人は、成人したときはまだ共産圏だったわけだ。そこから勝ち取った自由が、こういう退廃的な感じで謳歌されていることに世代を感じるのだろうか、と思い巡らしながら、ブダペスト最後の夜を過ごした。