ウィンブルドンで伊達選手がビーナス相手にあと一歩。ファンとしては悔しい、でもそこに大きな差があることを一流選手の彼女は知っている。
いや~、昨日は悔しくて眠れなかった。ウィンブルドン2回戦で伊達クルム公子選手が、過去5度優勝しているビーナスにあと一歩のところで競り負けた。テレビがないので、インターネットのliveでスコアの動きだけ見ていると、色々思いも膨らみ、ますますファンとしては悔しい・・・
さて、伊達選手のブログをよく読んでいるのだが、彼女の書いていることは一貫している。表現は様々だが、「一流のプレイヤーというのは、ここぞというところの集中力がすごく、大事なポイントは落とさない。」ファンからは紙一重に見えても、その紙一重にこそ実力の差があると言うのだ。
スーパーショットは誰でも打てる。
だが、ここぞという時にスーパーショットが打てるのが一流なのである。
だから、伊達選手は「悔しい」とは言っても、それが実力だと必ず書いている。
そういう意味では、1回戦で対戦した地元選手のオブライエン選手のコメントが、対照的だ。
第1セットはわずか6ポイントしか奪えなかった。第2セットは再三、相手サーブをブレークしたが、競り負けた。「最終セットにいけばチャンスはあった」と話した。(共同通信)
悔しさを表現した他意のないコメントだろうが、最終セットに行かせないのが強さの差なのである。世界ランクが215位で、"まだ"25歳の彼女ならではのコメントと思う。(余談だがオブライアンに対して、愛余って地元のメディアは厳しい)
仕事も同じだと思うことが多い。
「成果の出る」人と「成果が出ない」人を比べて、一見、そんなに明らかなスキルの差がないように見えることがある。
しかしながら、よくよく見ると、「成果の出る」人はひとつひとつのショットにちょっとだけ切れがある。そして、何より大事なところで、ショットの切れを欠かさない、ミスをしない。
たまたま打ったスーパーショットに目が奪われがちだが、スーパーショットをまねるのではなく、スーパーショットが打てる土台をまねないと、いつまでたっても、成果は出ない。そしてその土台を作ることは、きらびやかなスーパーショットとは裏腹に、日々坦々と地道に努力することでしか達成出来ないものなのだ。