身の周りのおもしろおかしい事を探す日々。ITを中心に。

目的と目標の違いを調べて万葉集に至る

»

永井孝尚さんが目的と目標の違いというエントリを書いていらっしゃいました。

確かに間違いやすいこの2つの言葉ですが英語にすると目的はgoal、目標はobjectiveとわかりやすいですね。

永井さんは山の風景から山頂を目的、山頂に至るルートを目標と紹介されておりそちらもわかりやすいです。目的の「的」は銃や弓でいうところのマトだと考えると理解しやすいのですが、それがまた「標的」という単語があることが混同しやすい理由のひとつではないかと思います。

そのように考えると「的」よりも「標」がわかりにくいのでそちらを調べればはっきりするのではないかと思い調べてみました。「標」はシルシやシルベであり、おおむね「示す」の意味で使われるようです。確かに目的はこちらで合っているということを示すと考えるとわかりやすいですね。

熟語を調べてみると「標縄」という使い方がありました。これは万葉集ではこのような歌となっています。

祝(はふり)らが、斎(いは)ふ社(やしろ)の、黄葉(もみちば)も、標縄(しめなは)越えて、散るといふものを

神官たちが大切に育て祭っている社(やしろ)の黄葉(もみちば)も、標縄(しめなは)を越えて、散るというのに。

たのしい万葉集(2309): 祝らが斎ふ社の黄葉も

リンク先にも解説がありますが、紅葉がしめ縄を越えて落ちてきたなぁというだけでなくて恋の歌なんですね。とても風情があります。しめ縄というとお正月に飾ったり神社にあったりというイメージがありますが、そもそものところではここから先は清浄な場所ですよ、神様の場所ですよということを「示す」「標す(しるす)」縄ということなのでしょう。

いやいや、「注連縄」じゃないの?という方もいらっしゃるかもしれません。それは「注連」という中国の風習が日本のしめ縄と混ざり合った結果であるようです。

「注連」は、中国の注連(ちゆうれん)の文字を用いたもの。死んだ人の出棺後、家の入り口に清めの水を注いだ縄を連ねて張ったのが注連で、再び死者の霊魂が入らないようにするための習俗でした。中国の「注連」と日本の「注連」には、両国の民族の共通点と相違点がうかがえるといえそうです。

官報資料版(平成16年1月7日) 言葉の履歴書『しめ飾り』

また、昨年2013年はNHKの大河ドラマで「八重の桜」が放映されました。主人公の新島八重の夫で同志社大学の創立者である新島襄の幼名は「七五三太」と書いてシメタと読みます。これは新島家に女の子が続けて産まれた後にやっと男の子が生まれて新島襄の父が「しめた!」と思ってシメタという名前としたと言われています。「七五三縄」でもシメナワと読むことから「七五三太」という綴りとしたのでしょう。シメナワはその横の縄に対して縦に3筋の縄を垂らし、その本数が7本5本3本であったことから七五三縄とも書くのだそうです。

注連縄の締め方は、中途に7本、5本、3本の縄を通してぶら下げる七五三掛で行われる。このことから、注連縄は「七五三縄」とも呼ばれる。

東北農政局 七五三掛(しめかけ)集落の歴史 <参考>「注連」と「七五三」

ただしシメナワ=示す(標す)縄という説だけではなく、古事記を起源とするこのような説も紹介されていました。

古事記の中で、「尻久米縄(しりくめなわ)」という言葉に見られ、「くめ」という言葉が、「出す」という意味を持っていることから、藁(わら)の尻をくめ置いて垂らした縄という意味で、「しめ縄」という言葉が生まれたともされております。

神社人 - 注連縄について

なおこちらのリンク先では標縄のシメは「示す」でなく「占める」ではないかともされています。どちらも領域を表すという意味では大きな違いではありませんが、気になります。もう少し探してみたところ、このような解説をしていたサイトもありました。

5句「標結麻思乎」は「標(しめ)結(ゆ)はましを」と訓む。「標結」は、115番歌5句に既出。「標」の本義は「こずえ、高い枝」であるが、それを「しるし」として立てるところから「しるし」の意をも表わすようになった。一方、和語の「しめ」は、動詞「占める」の連用形が名詞化したもので、「神の居る地域、また、特定の人間の領有する土地であるため、立入りを禁ずることを示すしるし。木を立てたり、縄を張ったり、草を結んだりする。」ことをいう。ここの「標」は、和語の「しめ」の表記に充てたもの。

『万葉集』を訓(よ)む(その232) : 河童老「万葉集を訓む」

日本の古い言葉では「占める」が神のおわすところを立ち入り禁止にすることであり、それを明確化するために「シメス」や「シルシ」という言葉が派生したのですね。なんとなく全体像が理解できました。

まとめると、目標の標とはシルシであってその向こうに何かがあることを表しているということがわかりました。

考えてみれば古典の先生はよく「古典なんて習っても社会で役に立つの?」と問いかけられていたように思います。古典を習うことは大学に入ると言う目的があって、そのために80点取るとか赤点を取らないとかいう目標に過ぎない存在としていた人が多かったことでしょう。私は古典が嫌いな方ではありませんでしたが確かにそれを目的とすることはありませんでした。ところが大学生になって外国人留学生と話したりすると、さすがに今日ご紹介したまでとは言わなくても言葉の成り立ちや日本の文化歴史について話す必要が出てきますし、それができるようになると異文化交流も楽しくなりますので「外人と仲良くなる」という目的に基づいて古典などの日本文化を覚えようと言う目標が設定したくなる時期もあります。

そして年をとるにつれて古典それ自体の魅力に気づき、やっと「目的」に昇格してきましたし、それで子どもにもおもしろさを伝えたり、このように自分がおもしろいと思った点を拙いながらにブログで伝えたりということもするようになってきました。そういった循環を生むことは果たして古典の先生の個人的な「目的」だったのか、それとも教員としての「目標」だったのか、今となってはわかりませんが手の上で踊らされている感もありますね。

Comment(2)

コメント

山口さん、ご紹介いただきありがとうございます。
「目標の標とはシルシであってその向こうに何かがあることを表している」、なるほどわかりやすいですね。勉強になります。

永井さん
私も知識が広がる良いきっかけをいただきました。ありがとうございます。

コメントを投稿する