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失われる技術、生き残る技術

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技術が失われるという言葉があります。日本刀の製造であったり、和時計の修理であったりという技術はそれぞれ何らかの影響により新たな製造の場面が減り、技術が失われつつあります。

製造の場面が減る理由には日本刀のように法規制などが原因なこともありますし、製造方法が危険であったり、環境の負荷が高かったりという要因も考えられます。しかしもっとも多いものは和時計に対する欧米の機械式の時計のように優れた製品の誕生が古い製品を駆逐することと、もっと効率的なやり方が生まれた場合であると思います。

技術が失われるときによく言われることは「残さなくてはならない」ということです。確かに失われるのはもったいないことですが、それよりも優れた製品、優れた製造方法が生まれたから古い技術が無くなろうとしているのに、それを阻止するというのは不自然な話です。

残す理由としては「なかなか真似できないような素晴らしい技術が消えてしまうから」ということが言われることがあります。手作業の中には見ている者に本能的に美しさや完全さを感じさせるような芸術性があるものもありますし、それを駆逐する技術というのは往々にして紙と人手と機械の力を費やしてPDCAを回すという華々しさに欠けるものだったりします。(個人的には大量生産のラインも大好きですけどね)

古い技術というのはそれよりも素晴らしい技術が生まれたから消えてしまうわけですし、その高い技術を持った人はまた新しい仕事を探し、新しい技術を生み出す原動力として有用なのではないかと思います。優れた技術を持った人は優れた能力を持った人であり、その人を古い技術に縛っておくよりも、引導を渡して新しいことにチャレンジしてもらうほうが社会にとってはプラスになるはずです。これはITの世界でも実際に起こる話で、ある製品が市場から追い出されたり会社がつぶれたことをきっかけにして、技術者が違う会社に移ったり新しい製品を開発して大成功した事例というのは珍しくありません。

そうした中で古い技術が果たすべき役割というのは、今後人類が何かの課題に直面した場合に「お手本」になれるということではないかと思います。技術は技術者による問題解決のプロセスの結果であると捉えれば、むしろ今のゴールに一直線に向かっていくスマートなやり方よりもたくさんのトライアンドエラーが詰まった古い技術にこそ価値があるといえます。

例えて言えば、JAVAや.netなどのクラスライブラリを活用して開発する最近の手法よりも、ネイティブに近いところをゴリゴリと書いたエンジニアのほうが貴重なノウハウを抱えている可能性が高いということです。

古い技術というのは人間の力が試される場面が多く、優れたものを作るための知恵を多く必要とします。その知恵そのものはビデオやヒアリング、X線などの分析器を用いた製品の分析などで多くのことを知ることができますので、「技術を残す」というよりは記録と製品を残せばそれでだいたいの目的を遂げられます。しかし「なぜその設計になったか」ですとか「なぜその製法がベストなのか」や「他の素材を使うとどのような問題が起きるか」といった部分まで含めると職人ならば聞かれれば答えられるかもしれませんが、後になって製品と記録だけになってしまうと考えることが難しくなり、まさしく「失われた技術」になってしまいがちであると思います。

新しく作られた最近の製品というのは昔の技術と比べると製造の記録ですとか、設計図などが非常にきめ細かく残っていると言えます。私もSEとして大量のドキュメントを書きました。しかしドキュメントに書かれたのは設計だけであり、「その設計が優れている点」や「他の方法を採用した場合の問題」などは記述されていません。今考えるとそうしたものは先輩に質問しながら教えてもらったり、自分で考えたりしたように思います。

そう考えると、ドキュメント化を行い、標準化された開発手法で開発を行うことは高い技術であるように見えますが、そうでもないということに気付きます。たとえて言えば、ピラミッドには設計図も製法も残されていません。ですので作られてから何千年か経ちましたが、我々はおいそれと同じものを作ることができません。それを知っている我々は設計図と製法を残すことを大切と考える文化を持っています。設計図により後世の人が同じピラミッドを作れるようになるかもしれませんが、何千年後かに残された人はそれを見て何か技術について学ぶことができるだろうか?という疑問も湧いてきます。

四角いピラミッドについて我々がよく作るようなドキュメントを残したとして、それを見た後世の人は丸いピラミッドや前方後円墳を作ることができるでしょうか。できないのではないかと思います。今、我々はピラミッドを見て技術を学ぶことがあるでしょうか。その製法を想像しながら気付きを得ることはあっても、「ここはこういう理由でこの作りなんだな」と納得するようなところは少ないのではないでしょうか。今我々が書いているようなドキュメントは、そういう意味で長い時代を超えて受け継がれるような価値を備えていないのではないか、と思います。

今を生きる我々がもう少し大切にしたほうがいいのは、問題を見つけ、悩み、解決方法を考える過程の記録であると思います。そういった部分の教訓はおそらく長い将来に渡り有用であり続けるでしょう。IT業界だけでなく色々な業界で同じ状況と思われますが、設計図は自分以外の人に仕事内容を伝えるための道具としてしか使われていないのではないでしょうか。それはもったいないことですので、今よりもっと物語性のある設計図が書かれるようになるとよいと思います。格調も大切かもしれませんが、「この列にインデックスつけると激重くなる罠」などと書かれているドキュメントがあれば、開発が今より感情豊かで楽しいものになるように思います。

それでもいつか、「Cのプログラムを書く技術が失われてしまう」なんて言われる日が来るかもしれません。もしそうなったときに「既に学ぶべきものはない」と言われるレベルまですべてを後世に伝える、それこそが技術者の務めではないでしょうか。

↓の小俣さんのコレクションを見てそんなことを思いました。

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