結局、人は死んでいくときに抱え込んでいるのだろう
東京は早朝から地震があり、雨は冷たいですね。どう考えても明るくなれない気候の中、竹内さんのブログを拝読して「うーん。。。」と考えてしまいました。
竹内さんは、今すぐに自分が死んだとして、という仮説を書かれています。さて、ご家族はどう感じるのでしょうか。
僕自身を考えてみると、僕にもいくつかの顔というか、側面があるはずです。仕事をしている時の顔、という一括りもできないでしょう。お客様に対しての顔、取引先に対しての顔(この辺りは似ているかも)、そして社員への顔。当然のように、全部同じではないでしょうね。お客様が改善しなくてもしょうがないですが、社員が改善し、成長することをしていないと、とことん追求しますから。
また、家族への顔というか、(僕自身に関する)情報提供範囲と、友人への情報提供は違うでしょう。それは、相手の興味範囲が違うからですよね。さらに、家族と言っても、奥さんや子供と、離れて住んでいる親に対しても違いますね。
竹内さんが書かれているネット上の情報というのも、そこで僕の全てを知ることはできないはずです。それは、そこに全ての自分のことを書いているわけではないから、です。ものすごく腹が立ったことがあっても、それをそのままストレートには書きませんし、とても辛いことがあったとしても、それは外には出さない。自分の中で咀嚼し、自分で葬り去ってしまうこともあるわけです。
そう考えると、誰一人として僕の全てを知っている人はいない、ということになるかも知れませんね。リアルでも、ネットでも。もちろん、誰よりも僕のことを多く知っている人はいると思います。しかし、全ては知らないはず。
これって、実は誰にでも言えることではないのでしょうか。人には言えないことはなくても、人には言わないこと、というのがあって・・・。
他人を批判し、評論家気取りのビジネスパーソンが多い世の中ですが、自分自身はどうなのか、自分は何者なのか(あの、自分探し、とかではなくて)、どうありたいのか、どう見てほしいのか。生きている間しか考えられないことですよね。寒い週末に、少し感じたことを書いてみた次第です。