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老舗IT雑誌『月刊コンピュートピア』の休刊

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コンピュータ・エージ社発行のビジネス系IT雑誌『月刊コンピュートピア』が現在発売されている11月号を最後に休刊することが決まった。

近年、テクニカル系かビジネス系かを問わずIT雑誌の休刊が相次いでいるが、その背景には、インターネットから膨大かつ良質なIT関連情報を無料で得られるようになったことが大きく影響している。ITの普及に一役も二役も買ってきた雑誌が、その結果として続々と休刊に追い込まれるとはなんとも皮肉な現象というしかない。

コンピュートピアは日本で最も古いIT業界の月刊誌で、19673月に創刊された。38年間で通巻470号を発行したのは、創刊と休刊をめまぐるしく繰り返すIT雑誌市場では驚異的な長寿といえる。といってもこの10年ほどは一部の大型書店を除いてほとんど見かけなくなっていた。1980年代以降、ビジネス系IT雑誌市場では日経BP社によるほぼ独占が続いているので、今ではIT業界人でもコンピュートピアを知らない人が多いかもしれない。

ニッチでマイナーな雑誌であっても、わたしにとっては特別な存在だ。1994年春、12年間勤務した会社を辞めてフリーライターになって以来、同誌にはたびたび寄稿してきた。それだけでなく、2001年からの2年間は編集長まで務めた。だから、休刊はとても残念だし、編集者たちの無念な気持ちもよく理解できる。(そんな思いでこの記事を書いているので、たぶんに身びいきの内容になりそうだ。どうか、お許しください。)

ただ、月刊コンピュートピアが輝いていた時代は、わたしが関わった最後の10年ではなく、最初の20年だった。とくに創刊からの10年間は日本における情報化の啓蒙活動に大きな役割を果たした。

コンピュータとユートピアをかけ合わせた雑誌名が示しているように、創刊はまだ日本にコンピュータが本格的に普及する以前のことだった。

第二次世界大戦後にコンピュータの商用化をいち早く進めたのは米国だが、情報社会論を世界に先がけて展開したのは日本で、1963年に朝日放送の雑誌『放送朝日』に掲載された梅棹忠夫さんの「情報産業論」が最初だと言われている。

また、1960年代後半になると、通商産業省で初代電子政策課課長を務めた平松守彦さん(元大分県知事)を中心に国の情報政策を担当する官僚や業界団体役員たちが啓蒙活動に力を入れ、「官製情報社会論」を華々しく展開した。

こうした論客の活躍の舞台となった雑誌が『中央公論』と『月刊コンピュートピア』だった。

1970年、平松さんは『中央公論』に「情報化政策論」と題した論文を寄稿している。おそらく情報政策を論じた最初の論文だろう。また、増田米二(日本経営情報開発協会理事)、唐津一(松下通信工業理事)、岸田純之助(朝日新聞論説委員)、白根禮吉(電電公社)、松下寛(野村総合研究所取締役)、牧野昇(三菱総合研究所)、温美和彦(東京大学医学部)の各氏と一緒に、「8人委員会」という名前の勉強会を発足させ、そこでの議論をマスコミに広く発信した。

平松さんは、「8人委員会」の設立趣旨について、『月刊コンピュートピア』1971年3月号で「われわれの問題意識は、社会経済と科学・技術との間のいわゆる境界領域の問題を定期にとりあげて、そして何かわれわれとして一つの考え方がまとまれば、それを社会に発表し日本の将来の発展に寄与したいということである」と述べている。

発行元のコンピュータ・エージ社は、産経新聞グループの子会社として1967年に設立され、初代社長には産経新聞の社長だった稲葉秀三さんが就任した(後に産経グループを離れ独立出版社になった)。稲葉さんは、日本経営情報開発協会の設立に関わったほど、日本の情報化に熱心に取り組んだ人物のひとりだ。

コンピュータ専門雑誌の創刊を提案したのは、彼の秘書役として活動していた河端照孝さんだった。河端さんは、同社の二代目社長となり、現在は日本情報処理開発協会の特別顧問をつとめておられるが、当時は産経新聞および出向先の日本工業新聞でコンピュータ担当記者として活躍されていた。また、日刊工業新聞、電波新聞、電気新聞のコンピュータ産業担当記者たちと一緒に「巴クラブ」という名前のコンピュータ専門記者クラブを発足させ、日本のITジャーナリズムの形成に貢献された。(梅沢隆・内田賢[2001]『ソフトウェアに賭ける人たち』コンピュータ・エージ社、pp.9-14を参照)。

当時、8人委員会、日本経営情報開発協会、そしてコンピュータ・エージ社はすべて東京の霞が関ビルに事務所を置いていた。通商産業省まで歩いて5分足らずで行くことができる日本で初めての高層ビルは、情報社会に向けた啓蒙活動の拠点になっていたのだ。

そして、月刊コンピュートピアにはその後も歴代の情報政策担当者の論文やインタビュー記事が掲載され続けた。

こうしてみると、そもそも月刊コンピュートピアの創刊自体が日本の情報政策の一環だったといえるかもしれない。わたし自身、情報政策への関心を強めたのは同誌の編集に携わるようになってからだ。

通商産業省が中心になって担ってきた日本の情報政策は、2001年の中央省庁再編によって、各省連携時代へと移行しつつある。そして、現在のIT分野の技術政策については、経済産業省よりも総務省のほうが中心となっている。

だから、国の情報政策の転換期に、その一翼を担ってきた雑誌の寿命も尽きたのだと見ることもできるだろう。

とはいえ、やはりIT雑誌にとって最大の脅威はインターネットだった。ネット時代の到来を言論でリードしてきたITジャーナリズムが、メディアの中で真っ先にその影響を受けることになった。

でも、そうそう悲観することはないだろう。もしかしたら、ネット時代の新しいジャーナリズムのあり方をいち早く提案できるかもしれないのだから。

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