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THE SHOW MUST GO ON

通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

多くの方がご存知の通り、NASDAQにFacebookが新規上場したものの、株価が38ドルの公募価格を11%ちょっと上回る42.05ドルで初日を終わり、上場二日目には公募価格をも下回ったという状況にあります。時価総額自体は1000億ドル前後を推移していてこの規模自体は大したものな訳ですが、市場の期待やら思惑やら何やらを下回る状況になっています。

もちろん上場から数日しか経っていない状況で全てを判断する必要はありません。とはいえ誰かしらの期待を裏切ってるのは事実。その事実だけは間違いないし、新規上場の歴史上1つのエピソードとして語り継がれる類の事象になるのは確実じゃないかと思っていたりします。

 

因みに私自身は株取引の専門家ではありませんが

株価というのは企業の業績や状況に関する評価の尺度のひとつであるという認識は強く持っています。もちろん、企業の中や業界の中の空気と市場というフィルターを通して見られているモノが違うと感じるのは良くある話ですし、短期的に何らかの事情によって株価が動くのは例外ではありませんから、株取引で生計を立てているわけではない私の場合にはその株価の動きに一喜一憂することはありません。あくまでも市場に存在するその「企業」を評価するひとつの指標であり、私にとってはそれも比較的長いレンジで眺める指標であるという認識を持っています。違うでしょというご指摘もあるかとは思いますが、私自身は私自身としてそう捉えています。ということを踏まえつつ…

 

この株価の状況は一体何が悪いのか、誰が悪いのか、そもそも想定した有るべき姿は何なのか

Facebook自体の収益モデルをどう評価するの?とか、モバイル端末でのアクセスが増えると広告収入が減るなどの話もあったりしますがそもそもみんな広告を見るの?とか、NASDAQのシステムがヘマをやらかして初日の価格形成の動きを壊したらしいとか、幹事会社は何をやってるんだよとか、上場前から株を保有していた人たちが大量に売りに出たという噂とか、そもそもそういう人が初日にいきなり売り浴びせるのってどういう評価をしたら良いの?とか、直前に売り出し株数を吊り上げすぎだよとか、業績の実態と市場の評価が乖離してるんじゃないのか?とか、アクティブユーザー数なんて怖くて誰も言い出せないんじゃないのか説とか、なんとかかんとか。もう本当に上場数日にして色んな話が飛び交っていて、とりあえず日経なりWSJなりFTなりといった経済系メディアに限定して眺めているだけでもそれなりに色んな景色を眺める事が出来て楽しいなぁと思ったりはします。

因みに単なる一人のFacebookのユーザーとしては、自身の依存度は低いとは言え企業としてそれなりの期間生きながらえて私自身がそれを無料で使い続ける事が出来れば良いんだよと軽く思ってるのは事実です。とはいえ、その一方でIT業界やらネット界隈全体を眺める上での「ひとつの企業」として、あるいは「ソーシャルな世界でのプラットフォームビジネス」としての評価っていうのは別にあったりします。

 

ところでFacebookって何の会社なの?論、そしてどこに行くつもりなの?論

そういえばFacebookという企業自体、あくまでも私見なのですが、私はFacebookはプラットフォームビジネスをやっている企業と言う理解をしていて、それとは逆にFacebook自体がビジネスプラットフォームであるという理解を出来ないんですが、ここらあたりはどういう立ち位置で眺めるかと言うところに尽きるんじゃないかと思います。あくまでも私見ですし、諸々異論はあるかと思うのですが、今回の市場の反応を見ると株価がモゴモゴなのはFacebookへの市場の評価は同社のビジネスの将来性を云々してたんじゃないんだよきっと、的な思いを抱いてしまったりします。

もちろん、新規上場直後の数日で評価を決める必要はありません。時価総額が1000億ドルに達しようと言う企業の評価を私ごときが断言する事もできませんし、そもそも私が触れる事が出来る非常に狭い観測範囲で見える状況が市場全体を代表しているとも思いません。とはいえ、あくまでも長年に亘ってITやら通信やらネットの界隈の末席を暖めてきた身としては、それなりに色々と思うところではあります。

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この話は凄く深いのは誰もが認めるところだとは思うのですが、たとえば実装レベルあるいは実用化レベルでの標準化の話と、何かしらの根っこのところで標準化への関与度合いの話を混同するととてもわかりにくくなってしまうと思うんです。例えていうと、前者はDe Facto Standardの話が入り込んでくる事が散見されるし、後者は国際機関や業界機関の中での活動の話という側面が強くなるわけです。特に後者においては(色んな人が嫌がるだろうけれど)政府機関やそれに類する組織の、その業界や領域での力の入れ方や入り方、根本的なところでの思惑、そこでの実際の声の大きさ、過去から今までの資金面と人を含めた貢献度合い、そしてロビイングに関わる人々の動きなどが絡んできて、しかもそれらの多くが(間接的なところまで含めて)関係者以外から非常に見えにくいという前提を忘れるべきでは無いと思うんですよ。つまり良いものが世界標準になるとかそんな甘い話はどこにも無いし、技術力だけで勝てるなんてのはありえないし、実際に勝っている人や組織はそれなりに動いてるわけです。それがITであれ通信であれなんであれ。

いや、玉川さん日本の技術力っていうのは、やはりもうダメなのでしょうか?とある難問への回答というエントリーを読んで、普段思っている事がなんだか急に色々と湧き上がってきました。いや、否定とかそういう話では全くありません。むしろ、こういう問題や現状をどう解釈し、どう理解し、どうすれば良いんだろうというねという流れの話です。

 

そもそも「日本の技術」はどうよ論

もちろんそんな事を全部ネグった上で「日本の技術力云々」を議論するのはとても簡単なので盛んに言われるわけですが、目の前の出来事の後ろで全然違う何かが起きてるのは普通にある話。それこそたとえば通信規格の話なんかがその最たる例なんだけれど、日本の技術が全く世界の中で歯がたたなくなったかと言うとそんな事は無いし、そもそも世界標準自体がどこでどうやって決められるのか、それは誰のどういう思惑で動いてゆくのか、どういう時間軸で形が出来てゆくのか、そもそもITUとIEEEってどういう関係なのか等などがわかっていないと例えば基礎研究レベルの話とかなんとかってのは云々できないし、評価も出来ないわけです。もちろん駄目なのは駄目なのだけれど。

 

更に「日本の現状」ってどうよ論

因みに何らかの形で技術を形にする次元の話で言うと、確かに日本では上手く行っていないと見えることが実際に多いのは事実。そしてたとえばアメリカから色んなモノが出てきて世界を席捲しているように見えるのも、そう見えるだけじゃなくて実際にそういう風に動いてるのも事実。でも、たとえばそこで働く人たちが全部アメリカ生まれアメリカ育ちの人ってのは既にありえない話であって、あくまでもその母体となった組織がアメリカ籍の企業であったことが多いのは事実だし、アメリカという国自体がそういう事業に対して資金や人を含めたあらゆるリソースを集めやすいのも事実。ただしその裏側でヤマのように失敗例があるわけで、上澄みの成功例を見るだけでは駄目でしょ?とは思うんですけれど、それらが日本語で伝わる事は少ないから、多くの人が「かの国は成功例が一杯ある」ということだけ理解してその裏の累々たる屍の山についてはあまり議論されない。多分東南アジアやインドも含めた日本とは違う環境でそういう状況なのも事実。ただ、そこにいるのは全部その国の人ではないし、そこに金を出しているのもその国の人だけじゃない。

 

あまり議論は単純化させないほうが良いとは思うんです

ということでワタシ的には短絡的に日本の技術がだめ論は論外で、それを使い倒せる組織や環境が日本に無い(かもしれない)というところが根本的な問題だと思ってるんですね。もちろん韓国みたいに国内市場が狭すぎて伸び代が少なすぎるから海外に行くしかないというほどキツくはないにしろ、その技術にとって本籍地が日本であってもなくてもどうでも良いし、別に誰の資金でどこでなにやっても良いわけで、それが最終的に日本に返ってくるような形を作るという意識が無い事が一番の問題だと思うんです。

もちろん日本の環境だから大きくなった技術と言うものも当然りますし、日本から外に持ち出すのに御幣がある技術と言うものもあるわけで、それ自体を否定するものではありません。結果的に諸々の環境条件やら何やらが綺麗にハマって花開いた事例はもちろん沢山あるわけですし、結果的に「日本発の何か」がキチンとある事はとても誇らしい事だと思います。

 

「日本の技術」は駄目なのか?

これでも一応1980年代後半からテクノロジー即ち「技術」をどのように啓蒙してゆくのか、わかりやすくその存在を知らしめるのかという活動に長く関わってきました。更にはある技術の「国際規格化」に末席ながら関わった経験もあったりして、やはりそれなりに考えるところはあります。

そしてそれらを踏まえて、日本の「個々の技術力」が駄目なんじゃなくて、それを使ってもらうという意識、それを売り込む意識、それをベースに外の知識を取り込んでゆく意識が無い組織が駄目なんだと思うんです。もちろんそれを考えて前に進んでいる組織があるのは理解しています。でもそうじゃない組織があるのも事実だろうし、やっていると胸を張っていてもそれが上手く行かないのは何かが違うからなんじゃないのかと思うんです。本当に私見ですが。

もっとも、自分で議論を単純化させすぎるなといいつつも結論としてこんなに単純化して表現してしまうのはいかがなものかとは思いますが。

 

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例えば自分と同じくらいの年代の男性が平均的に何個くらいの鞄の類を持っているのかというのはよく判りません。もちろんそれがDay Packとか旅行鞄あたりまで広がると本当にその人次第だとは思います。

因みに私自身、自分が持っている鞄の数を正確に覚えているわけではないのですが、日常的に使っているのは基本的に3個から4個くらいじゃないかと思います。そのうち仕事の場で使う鞄というのは大抵一時点で1個。多くの場合、それ以前の鞄が「もうこれは寿命だ」というくらいまで使い倒して買い替えを決意してから買うまでに凄く考えて、考えて… 悩んだ末に元の鞄が本当にどうしようもない状況になってから最後には勢いで手に入れて、また使って使って使い倒して…

 

そういえば新入社員の頃に買ったのはサムソナイトのブリーフケースだったというお年頃

1980年代半ば。いまや殆ど市場からは絶滅してしまった樹脂やらアルミやらの堅いブリーフケースが全盛期の最後の頃だったんじゃないかと思います。かく言う私が新入社員の頃、最初に買ったのがサムソナイトの比較的薄めのブリーフケース。いや、こいつは使い倒しました。

その後ソフトブリーフケースが流行ってきた時代の流れもあり、5年目くらいからどうしようかと考えつつ10年くらい使い倒して傷だらけになって流石にこれはいかがなものかと思った頃に買い換えたのがパタゴニアのソフトブリーフケース。これは既に廃盤になってしまっているのですが、鞄本体の上に大きなフラップの付いたショルダーバッグ。これもまた10年くらい使い倒したんですが、最後は内張りがボロボロになってしまい泣く泣く買い替えよう… と思った矢先にたまたま知り合いからイベントのノベルティでノベルティとは思えないビジネスバッグをいただいたので、これをまた使い倒してですね…

もちろんそれ以外に極短期間に使った鞄とか用途限定の鞄とかもあるにはあります。たとえば買うには買ったがどうにも使い勝手が良くなくて押入れに突っ込んだままのソフトブリーフケースだとか、20年以上前に無理して買ったけれど大事にしすぎていまだに殆ど使っていない一張羅の革張りのブリーフケースとか、PCを2台くらい突っ込んでも大丈夫な3Wayのバッグとかなんとかかんとか。

ただとりあえず基本的なラインを使い倒すというのが私の思考の方向のようです。

 

でもって、今回は買い替えを決意してから1年余りかかって、ようやく買い換えました

今回の要求仕様は以下の通りでした。

  1. 背負える
  2. できれば横位置で背負える
  3. 幅10センチの弁当箱が楽に入る
  4. 色は黒じゃない
  5. ケータイの充電アダプターやら何やらの一抱えの機材が楽に入る
  6. 自分なりに持ち歩いている非常用食料等がキチンと納まる
  7. 10年くらいは使い倒せそう

いや、別に大した事無いですが、一応それなりに使い勝手を考えて探したわけですが、やはり全部を満たす鞄というのにはめぐり合えません。でも、このゴールデンウィーク前くらいには、それまで使っていた鞄の、特にグリップ周りが非常に悲惨な事になってきて、これはもう買い換えたほうが良いということで目星をつけていた鞄を幾つか集中的に確認しにいって、条件の幾つかには目をつぶって漸くお買い上げ。今回は買い替えを決意してから買うまで1年ちょっとでした。

そこまで拘らなくてもいいでしょ?という話はあるかと思いますが、よくよく考えると自分の持ち物の中で(ワタシ的には)腕時計と同じくらい長期間付き合うモノなので、それなりに考えます。私だって、たまには真面目に考えます。

 

因みにどんなのを買ったのかって?

結局散々考えた挙句に、かつてバックパックのロールスロイスと言われていた頃もあったブランドのちょっと大きめのブリーフケースにたどり着きました。色はカーキ。

やっぱり新しいモノを手に入れると気分も良くなります。

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今は職種も変わったので少し距離が離れてしまいましたが、以前何年にも亘り機会があるごとに何度も「プロのカメラマン」の方々とお仕事をさせていただいた事があります。いわゆる「写真」もあれば「ビデオ映像」もありなので一般的な「カメラマン」というよりは範囲が広いかも知れません。もちろん扱うのが静止画か動画かによって行動原理は全く違いますし、そりゃ機材も何も全部違います。更にはご一緒した現場の状況や事情や環境によって立ち位置もあまりに違うので一般化しづらいのですが・・・

 

たとえば「写真」の世界

個人的に写真の世界は好きです。もちろん自分がそれで飯を喰ってるわけではないし、基本的に自分の家族しか撮らないという立派なアマチュアですが、それでも写真の世界は好きです。でもってカメラ機材自体にもそれなりに興味はあるんですが、実はプロの仕事の現場にあるカメラ以外の機材やら設備やら施設やらに対しても(多分おかしいくらい)興味があるってのも昔からです。

そんな私が仕事上の役割として広告なり何なりのための写真を撮っていただく立場となったとき、事前にその方が撮ってきた作品の確認をする中で学べる事の多さに圧倒された事も多々ありましたし、現場での立ち居振る舞いについても非常に多くの事を学べたのは非常に大きな経験でした。中にはACCで賞を取った方なんかもいたりして、できあがった作品を見て「この人はやっぱり別次元の人だ」・・・と言う声も出ないくらい圧倒された事もあります。それらも含めて事前の打ち合わせから作品が出来上がってきたところまでを見る事が出来たのは今思い出してもすごい経験だったと思います。

当然ですが、機材の量も質も自分のモノとは別次元です。因みに仮に自分と同じ機材を使っていても取り組む姿勢がそもそも違いますから比較になりません。事前に撮るべき内容についてはキチンと打ち合わせをしてから現場に臨んでいましたから、現場に入ってからは幾つかカットをチェックさせていただくだけで、もうあとはプロの仕事を横で眺める以外に素人の役割は無いわけですが、そういった世界での圧倒的なプロフェッショナルの立ち位置というのに立ち会えたことはその後の色んな私自身の行動に影響を与えているのかもしれません。

因みに私自身、「写真」の世界でのプロの方と直接接したのは殆ど広告なりカタログなりといった制作物のための写真を撮るという場だけです。しかも銀塩(つまりフィルムですね)の頃が殆どですから、今とは機材の使い方もライティングも違うところはあります。その後の加工の仕方も今は全然違いますから同列で見ることは出来ませんし、たとえば報道なりなんなりといった別の現場でのプロのカメラマンの方の立ち居振る舞いの違いというのも理解はしています。でも仕事に対する姿勢、裏づけとなる知識量や経験量というのはそれほど大きく違う事は無いと思うんです。単純に構図の取り方の違いとか何とかってのは当たり前の話で、その先でどうするかってのが無いと駄目だよねと思ったりはします。それすら素人考えではありますが。

 

因みに「映像(動画)」の世界になるとですね

自分的に面倒くさいことがあって、殆ど真面目に取り組まない事にしています。これは「写真」と同じように仕事として、そして仕事をお願いする立場として幾つもプロモーション映像やら何やらを制作していた時期が結構長期間あってですね、絵コンテから演出稿直前まで自分で全部書いたりとか、(もう時効だと思いますが)海外ロケを仕込んだけど出張にできなかったので休暇とって同行したとか、撮影の現場でスタジオさんに代理店のクリエイティブディレクターだと思われたほど態度がデカかったとか、このようなプロモーション映像を作れと言われてから2週間でプロモーション映像2本を納品したとか、まぁ普通じゃない状況で非常に深入りしたことが何度もあって、製作のためのスタッフの役割や撮影から編集に至る機材や設備で何ができるかってのをアマチュアではない立場で経験してしまったことよってですね・・・ 

「自分の趣味であっても深入りしすぎるから、距離を置こう」

とあるとき思っちゃったんです。制作の初期段階から撮影、編集から納品に至るまでの全部のプロセスで多くの人が絡む状況は素人がマネをする必要はないのですが、撮影もそうですし編集という場においても真面目にやってしまうと自分が簡単に納得できなくなってしまうのが眼に見えたもので、こりゃ距離を置こうという事にしました。

もちろん「写真」と「映像」では撮影する人の立ち位置やら役割やらってのはかなり違うところがあるのは事実。更に言うと当然ですが報道と制作(例えばドラマとかなんとかですね)とも違うし、でも、それぞれの状況において誰がどう動くのかってのは「写真」の世界よりも「映像」の方が自分も直接関与する仕事の場で接してきていますので、どうにも自分の趣味の世界という捉えかたが出来ないんです。私の場合。

因みに自分の子供の運動会の映像とか何かの発表会の映像ってのは撮ってます。記録映像として。でもホボ全て撮りっ放しで、一切編集はしません。それをやりだすとまずいです。多分止まらなくなります。寝られなくなります。非常にまずいです。

とまぁ、写真なり映像に巻き付く私の感情というのは、非常に複雑です。

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「立場上通信関係の話、特にケータイを含む無線通信関係の話には触れないようにしているのですが、」という書き出しで私がWiFiのアクセスポイントが街中で増えることの功罪というエントリーを書いたのは昨年末の12月28日。もちろんそのはるか以前からWiFi、いわゆる無線LANがすっかり面倒くさい事になってるよねというのは解ってる人には解っていた話なんですが、最近それが以前にも増してIT系を中心とした色々なメディアで取り上げられるようになってきたような気がします。

もちろんそれぞれの媒体や筆者の立場立ち位置によって論調は色々ですが、一応共通しているのが2.4GHz帯の電波が非常に使いにくくなっているというところ。じゃぁどうするのよって話は正にそれぞれですが。

 

基本的には街中で公衆WiFiサービスは使わない私

これでもいわゆるスマホを使っている身ではありますが、たまには空いた駅のホームとか喫茶店とかでWiFiのサービスに繋いでみようとする事はあります。でも芳しい結果が得られずに3Gなり何なりに戻してしまう事が多くなっているのは事実。たとえば去年の秋ごろまではまだ良かったのですが、スマートフォンの普及度合いやら何やらのお陰で接続できても期待する速度が出ずに諦める事が多くなりました。結果的に今年に入ってからは公衆WiFiサービスを使った事が殆ど記憶にありません。

なぜそういう状況になるのかというのは幾つもの理由が重なっていますから、単純に解決される問題ではないのは昨年末の私のエントリーでも触れた通り。更には、そもそも街中にWiFiのアクセスポイント自体が増えすぎているという問題もあります。これについては立場上何ともコメントし辛いところではありますが、間引きするのも諸々大変なので、何かしら劇的に改善されることっていうのはあまり期待できない話。

自宅ではWiFiルーター経由でネットワークに繋いでいますが、多分この先自分のスマートフォンのWiFi接続機能は自宅利用専用になりそうな気がします。

 

解決できるのか?

電波は目に見えないモノですし、どうやって通信状態を維持しているのか、どうやってある一定の通信速度が出るのかなんてのはある程度の知識がないと判らないものです。もちろん「解らないなら勉強しろよ」とは言いませんが、本来は便利なはずのモノが実はユーザー個人にとってあまり便利ではないのは単純に機器がもっさりした動作をするとか、回線自体が遅いんだろとか、ユーザー数に対して帯域が足りないんだろとか、基地局が足りないんだろとかという話で切り捨てる事は簡単ではありません。

たとえば空いている5GHz帯に逃げようとか、同じ5GHzでも新しい高速無線LAN規格が出てくればもう大丈夫さ論とか、端末自体が電波の強度などを監視して使える無線方式に切り替えるコグニティブ通信の機能をもっと広く実装しようよとか、色々な話があります。それら自体は今急に出てきたわけではなく過去何年にも亘って研究されてきたものなのですが、実用化に至るまでにはそれぞれの事情に基く壁があるわけですし、今目の前で起きている問題に焦点を当てて作られたソリューション的なものでもなかったりしますから、現状に対する決定打となるかどうかは何とも言えない話。

 

決定的な解決策は無いです。少なくとも今は。

因みに時々それらの解決策のどれが本命になるのか的な結論を出したがる論調に出会う事がありますが、それを見ると少し残念な気持ちになります。そもそも唯一の解決策っていうのはなくて、しかも解決策の選択肢として現状見えている何かが5年後10年後までずっと解決策であり続けるわけもなく、そのうち解決策だったはずのモノが別の状況を引き起こすこともあるわけで、そのアタリの話は誰かの、あるいは何かの論調を盲信しちゃいけません。

しかし、たとえば「だからプロの仕事としての通信規格に則った商業無線サービスを使ったほうが良いんじゃないのかな?」的な話になると、それに対して「公衆無線LANサービスも商業無線サービスのひとつじゃないのか?」という話に発展して面倒くさい事になるのでしませんが、何れにせよ無線LANの世界、公衆WiFiサービスの世界は既に後だしジャンケンでルールを決めようとしても簡単には交通整理が出来ない状態になっているんですよっていう事実だけは漸く広く理解を得られるところまで来つつあるような気がします。

なにかにつけ、面倒くさいことこの上ない今日この頃です。

 

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何十年にも亘り常に使い続けているモノというのはそれほど無い私。いや、それは多分それほど珍しい事ではなく、誰にもある話だとは思います。ある時期非常に入れ込んでいた「何か」とある時点で親密度合いが下がり、何となく疎遠になり、それが身の回りにあったことすら忘れてしまう。そんなのよくある話だと思うんです。

ただ、その「何か」がなくなってしまうという話を聞いて「お~、懐かしい」と思い出す事があるのもよくある話だと思うんです。もちろん、それすら感じない種類の「何か」もあるわけですが。

 

何かのカタチであったりモノであったり、あるいは意識的な何かであったり

私の場合、たとえばIT系の企業の栄枯盛衰なんてのは非常に身近な部分があったりします。嘗て何かしらの形で関わったり非常に近いところにあったけれど、自分としては既にそれと接する事がなくなった「それ」がなくなる、あるいは形を変えるといった話に触れると思います。

「お~、懐かしい。そういえばあの頃は…」

あるいは自動車メーカーの栄枯盛衰も自分自身が割りとクルマ好きなところもあって、色々と思う事があります。たとえば嘗て自分が所有した事のあるメーカーの車種の変遷もそうですし、メーカー自体の変遷もそうですし、輸入車の場合だとインポーターの変遷なんかも関わってくる。実は以前フランスの金属バネを持たないサスペンションの変な車に乗っていたのですが、クルマ自体は非常に好きだったのにインポーターのネットワークがぐだぐだになってしまって保守面で不安がどうしても払拭できずに別の車に乗り換えたという経験があります。今となっては滅多に見かけることもなくなりましたが、いまだに同じ車種を街中でたまに見かけるとやっぱり思います。

「お~、懐かしい。そういえばあの頃は…」

因みに極めつけは、某所で既に20年前に買収などの結果消滅してしまった米国系IT系企業のPCが現役で動いてるのを見つけてしまったとき。ある業務に関わる制御系のシステムの中で動いていたのですが、正直これが壊れたらどうするんだよ?という心配を払拭する事はできませんでした。だって、PC/AT互換機そのものです、っていうかPC/ATが現役だった頃のPCですよ・・・ってのは表向きの真面目な話。実際のところ、そのブランドのロゴを見るとやっぱり思います。

「お~、懐かしい。そういえばあの頃は・・・」

それなりの期間生きていると、いろんな事で懐かしがる事が出来るようです。

 

因みに懐かしがるのが目的のような何かが見えることもあるんですが

いや、別に誰がどうのこうのという話じゃないです。でも、たとえば何かがなくなるという報に触れたとき、それ自体と何の関係もなかったにもにも関わらずそれ自体を惜しむような発言が見える事があります。いや、もちろんモノゴトに対して何を思うかってのは人それぞれなので私ごときが四の五の言う話では無いのですが、それこそ自分が「当事者」ではないとしても、それ自体に非常に近いところに居た何かであれば、やっぱりそういう話に触れると思うところは違うわけです。

もちろん、それは仕方が無い話だし、多分私が何かについて「懐かしがる」行為を別の角度から「お前はそこに居なかっただろ、勝手なことを言うな、このボケ!」と思ってる人も居るでしょうから、そこはある意味お互い様なのかもしれません。でも、何かがなくなるときにだけ盛り上がる話ってのは、なんだかなぁと思う事が無いかと言うと嘘になる。あるいは無くなってしまった後でゴチャゴチャ言うのも何だかなぁと思う事が無いかと言うと、これも嘘になる。

当事者じゃないと判らない話というのはどこにでもある話。当事者同士じゃないと共有できない話もどこにでもある。でも本当に当事者だと公言しない話なんてのも当然のようにあるわけです。それを何かしらかいつまんで、さも自分の話のように、あるいは自分が正しい理解をしてるのだよと言う論調でモノゴトを語っている場に遭遇したりすると・・・ 自分が過去から今に至るまで絡んだ事がある何かについてであると、やっぱりいろんな事を思ったりします。

もっとも、逆の立場で何かを語る自分がいないかと言うとそんな事は多分無いので、そこは自分なりにどういう立場で何を語るのかを考えないとな、と思うくらいのトシになったよなと痛感する今日この頃です。

 

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人間誰しも時代の流れの中でモノゴトの判断基準は変わります。自分の今の尺度でモノゴトを判断します。これは仕方無い事だし、極普通の事だとは思います。ただそれらはあくまで今に至るまで色々と学んだ事や知った事、取り巻く環境、おかれた立場などによって変わるわけですし、そこには絶対的な軸が厳然と存在することと言うのは実はあまり多くはないと思っています。もちろん一概にそういえるわけではないのは百も承知。でも同じ人が同じ事象を別の立場から見ると全然別の判断がなされることが例外かというとそんな事は無いと思います。実にややこしい話ではありますが。

 

昔の自分は一体何を考えていたのかを振り返ってみると気が付くことは少なくはない

常々コンテクストが大事だよといい続けている私ですが、逆に言うと経緯を理解すると、あるいはその蓄積度合いによって意見も見方も変わるのは避ける事はできないという事だとも理解できると想っています。常々そう思っているので心情的に許容できるかどうかは別にして意見の多様性という状況自体は理解できます。自分にとって白いものは他の人にとって黒いのは当たり前。

でもって、今の自分の判断やものの見方は例えば10年前の自分とは当然違うわけですし、違って当然だし、違わないのは自分として嫌です。もちろん変わらない種類のモノもありますが、基本的には変わるもの。

で、なんでこんな話をし始めたかと言うと、田中さんの今の自分と比較したらかわいそうなのかも。というエントリーを見て諸々思うところが会っての話。いや、全くそうだと思います。そもそも今の自分の評価軸で新入社員の頃の自分を評価すると普通に「顔を洗って出直して来い」と切り捨てるであろいうくらいのどうしようもないアホな若造でした。これは間違いない。口だけは達者だったのですが、あるところから言い訳ばかりして何も実績が伴わない。(←これは今でもそうかもしれませんが・・・(滝汗)

もちろんその後の紆余曲折やら何やらを経て今があるわけで、それなりにそれなりな立場でモノゴトを考えるようにはなりましたが、その頃に自分はどうしたかったのか、何をしたかったのかなんて話は、まぁ絵空事を並べるか沈黙するかのどちらか。勿論それなりに夢はありましたし、考える事は一杯あったけれど。ただし、それらを今のアタマで否定してもしかたなくて、そもそも何も世の中の事をわかっていないアホな若造が自分の夢の世界で勝手に遊んでいるだけって言われても仕方ない。結果的にその頃考えていた夢の幾つが今の時点で形になってるのか、どんな風に変遷してきたかってのは自分自身で評価するしかないのですが、とりあえずある一定の期間を振り返る事が出来るくらいの年齢は重ねてきたのは事実。変わらないのは不甲斐無さくらいでしょうか。

 

自分のモノの見方は自分の経験の積み重ね

自分のモノの見方は自分の積み重ねの結果。それを踏まえつつ常に自戒するのは、他の方の意見について否定から入るのではなく、まずは自分と違う意見やものの見方の存在は認めたうえで自分ならどう考えるかという順番でモノゴトを考えるようにしている事。そこだけを崩さなければ目の前でどんな話がされようが対応はできるんじゃないかと思っています。それが生産的な行動なのかどうなのかは良くわかりませんが。

bibendum_iwa

 

いわゆる報道機関がWeb上でニュースを閲覧できるサイトを開いているのは最早当たり前という今日この頃。もちろんそれぞれの特性により出し方見せ方は違うわけですが、それらを全部無料で見せるところもあれば、有料で提供するところもあるわけで、まずその部分で見えるそれぞれの姿勢と言うものがあるわけです。

もちろん諸般の事情やら時期的な問題やらなどが絡み付いて、たとえば有料と一口に言っても全部を有料化するというところから全部を無料にしているところまでのグラデーションのどこに立ち位置を置くか、というところがよく見えたりします。そしてその裏にはそれぞれのビジネスモデルが透けて見えるわけですが…

 

The New York Timesの無料閲覧記事数が4月から半減の10本/月になるという流れ

もともと基本的には有料購読が基本ではあるけれど、無料購読登録をすると月あたり20本まで有料記事が見られるというのがThe New York Timesのやり方でした。ただ、こんな告知があります。

Beginning in April, visitors to NYTimes.com can access 10 free articles each month, rather than 20.

This change will strengthen our ability to continue providing the world’s most insightful journalism today. It will also support the ongoing development of digital innovations and apps that make The Times an experience you won’t find anywhere else.

まさにここに、「報道機関としての自らのポジションの宣言」があるわけです。別に他の報道機関やら媒体も右に倣えするべきだとは言いませんが、自らの価値についてキチンと宣言する姿勢は決して嫌いじゃありません。もちろんそれに対して自分が対価を払うかどうかは別の話ですが、少なくとも私の場合には立ち読みだけでは気がすまなくなれば当然購入に至るのは雑誌でも新聞でも電子書籍系の何かでもWeb上のコンテンツであっても行動原理は同じです。それに触れる「媒体」を選ぶんじゃなくて、その「内容」が欲しいわけで、それを手に入れるための「媒体社」が用意した「媒体」に価値があると判断すればお金を払う。少なくとも私はそういう行動をしていると信じていますし、これからもそうしたいと思っています。

価値があると判断したモノには対価を支払うべきである、という姿勢を忘れたくはないと思います。

 

因みに「対価」というところをどう理解するかというのがとても難しい日本の社会ではあるのですが

自分に対して何かしら働きかけてもらった対価、と言う意味での「サービスと対価」という概念が希薄なのは大昔から言われている事です。そもそも「サービスとは無料で提供されるものの総称である」的な理解がされているケースも多々あります。もちろん自分的にそういう風に理解している部分がゼロかというと苦しいところでは有りますが、誰かが何かをするときにはその分の手間なり何なりがかかるわけで、当然そこに対価が発生しないことはないという経済観念を持ってる人ではあります。

それを貨幣経済の中で理解するのか、それとも全然違うところで理解しようとする昨今の流れの中で理解するのかというのが何となく気になるのですが、後者は経済システム全体を回すエンジンにはなりえないんじゃないの?という理解をしている私の場合、どうしても「なに考えてるんだろうね?」的なところに帰結したりします。

まぁそれはともかく、自分自身の価値をキチンと担保するための方策を宣言することがでるかどうか。宣言したら、対価に見合う価値を提供できるか。これは業種業態個人法人を問わずどこかで突き詰める必要がある話ではあると思います。ただし、そんな事を言いながら、そんな状況に自分の身を置いて耐えられるのかというところとは別の話なので、原理原則とは別に自分ならどうするべきなんだよ?という自問自答に陥ってしまうのが情け無いところではありますが。

 

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bibendum_iwa

最近微妙なところで大慌てすることが重なるんですが、昨夜関東で発生した地震の際には、自分なりに本気で慌てました。何を慌てたかというとこれはもうタイトルの通りなのですが、帰宅して風呂に入ったところで地震に遭遇。人生それなりに長いのですが、風呂に入ってるところで地震に遭遇したのは初めてです。いや、正直慌てました。

 

そもそも免震構造のマンションなんで揺れ方は独特なのですが

私もカミさんも実家が神戸ということもあり、今のマンションを決めた決め手の1つが「免震構造」にあったのは事実です。もちろん構造としてどういう事なのか、地震に際してはどう動くのかというのは勉強した上で決めたのですが、実際の地震に遭遇するとなんだかグニャグニャと揺れるのに最初は驚きました。まぁ確かに建物の躯体の下に巨大なゴムの足が幾つも付いていて地面の揺れを吸収するのでそういう動きになるんですが、雰囲気的には高層ビルの中で地震に遭遇して何時までもグラグラと揺られる感覚に近いものがあります。

因みに建物の躯体自体が地面から浮いた状態になっていますから、入り口のところは実は周囲の地面から橋を渡したような構造になっていて、周囲から少し離れていたりします。このアタリの話は実物を見ないとよく理解できないんですが、とにかく建物自体は地面の上の基礎からそのまま立ち上がってるわけじゃないんですよね。

ということで、揺れの感じ方が不思議なんですが、それはそれ。流石に10年以上住んでるとそれなりに慣れるものですし、一年前の震災の時の余震の際にも大き目の揺れがどういう風に感じれるのかというのはよく判りました。ただし、あくまでもそれは普通に家の中にいる状況の話であってですね…

 

なにこれこわい的な免震構造の建物の中の浴槽の中で体験する地震

昨夜は丁度自宅の浴槽に浸かった直後の出来事。「ふぅ」とため息をついたところで、ふと何となく周りがギシギシ音を立ててるような気がします。

「あれ?なんだろう」

気のせいかと思ったら浴槽のお湯が普段と違う揺れ方をしているのに気が付きました。壁の手摺に下げてるタオルが変な揺れ方をしています。

「地震だ!」

しかし、ここは浴槽の中。家全体が揺れています。しかも浴槽のお湯も揺れています。かなり変な感覚です。まるでフェリーか客船の浴場のようです。しかし風呂の中でテレビもラジオもケータイもありません。どうなってるのかよく判りません。とりあえず居間の方からゆれくるコールが盛大に鳴ってるのが聞こえます。カミさんが2人の子供に壁から離れろこっちに来なさいと叫んでるのが聞こえます。これはまずい。非常にまずいです。何がまずいって、揺れが大きそうでまずいし、もちろん状況が把握出来ない事はとてもまずいのですが、自分的にはこのまま停電になったりすると裸のまま身動きが取れません。慌てた挙句に居間の方に向かって叫んでしまいました。

私 「懐中電灯!」
息子 「なんで~?」
私 「停電になったら裸で放り出されるんだよ!」
息子 「わかった~!… 大丈夫だよ~!いま持ってるよ~!」
私 「ありがとう!」

そう返事をしながら、まだ揺れが残るなかバスタオルを体に巻いて風呂場から脱出しました。いや、これは慌てました。備えよ常にが座右の銘の私ですが、文字通りの丸腰でしたから。

 

だからと言って何ができるわけでもないのですが

もちろん備えは必要。物もココロも。だからこそ3月5日には何年以内の確率がどうのこうのと騒ぐ前に自分自身の備えを考え直すなんてエントリーを書いた私ですが、起きるであろう状況はこちらの事情を考慮なんてしてくれないよねという当たり前の事を改めて思い知りました。

とりあえず後から風呂に入ろうとしたカミさんに「なんでお風呂の換気扇が回ってないのよ!」と怒られた程度で終わった昨夜の私の話が笑い話で済む状況であることに幸せを感じながら… ではありますが。

bibendum_iwa

自宅のPC環境はノートPC。狭い我が家でどこでも使えるようにと光回線のインターネットにはWiFiルーター経由で繋いでいます。PC自体は何度か代替わりしているし、子供を撮るのが趣味な写真のデータがそれなりの量あるので、基本的にローカルにはデータは置かずLAN上の記憶装置、そう、NAS (Network Attached Storage)、要はLANに繋がる外部ハードディスクに殆ど入れて居ます。

因みに、動いてるものは何れ壊れる。もちろんPCだって壊れるし、LANのルーターも何かの拍子におかしくなるし、NASやプリンターだって壊れる。流石にプリンターのスペアは持ち合わせていないですが、データが壊れるのは致命的なので、一応それなりに備えてはいるんですが・・・

 

2台のNASにミラーコピーという姿、だったんですが

2年くらいの時差を持って購入したNAS。1台運用の時にはPCがメインでNASがバックアップ。でもPCを入れ替えたときにチョイと苦労した経験があったのでデータは全部ネットワーク上に放り出すぞと決めて2代目のNASを購入。購入時期の違いから容量が全然違うので、全部をコピーするのは大変。ということで、考えた末に自分として一番大事と思えるデジカメのデータを両方に保持し、直近の1年分くらいはPCにも保持して・・・ で、購入時期も違うし、同時に壊れる事はないだろうということで、一応見かけ上は万全の障害対策。

因みに、その状態では間違いなく個人としてできる障害対策のひとつの形が出来ていたと思います。ただし、ただしですよ、それがキチンと運用されていればと言うことです。でも、運用って、LANに繋がったハードディスクなんだし、何かあるって?いや、どれかが調子が悪くなったら直ぐに対応しないと障害対策も何の役にも立たないという話でして・・・

 

ある日、古いほうのNASがおかしくなった

半年ほど前から時々ネットワーク上から消えるようになりました。どうやらLANのインターフェイスのところの動きがおかしい。データ自体は全く問題ないのですが、時々接続が不安定になる。でも大丈夫。新しい方をメインで使ってて古い方はバックアップだから。(←既にここで考え方がおかしいわけです)

実はこのときに古い方のNASを買い換えるなり修理に出すなりの対策を取っていればよかったと思ったのは、つい先日の話です。ここまでくると大体展開は予想していただけると思うのですが・・・

 

ある日、新しい方のNASもおかしくなった

つい数日前。新しい方のNASがLAN上から消えました。あれ?と思って表示パネルを見ると、赤いランプが点滅していて、これを見た瞬間に心臓が粉々に吹き飛びます。(←既に手遅れです)

- いや、きっと立ち上げなおせば大丈夫だ
- ケーブルがおかしいに違いない
- ファンのところに埃が溜まっちゃったかな
- 仕方ないからリセットボタンを押してみてみよう

駄目です。マニュアルを見るとディスク本体よりも制御基盤周りで何か起きてるようです。駄目です。バックアップが既に駄目になっていて、その対応を怠ったばかりに本番も駄目です。まるでどこかで聞いたような話ですが、誰の責任でもなく、誰に賠償責任を負わせることが出来る話でもなく、自分の責任です。自爆です。

「あ゛~!データがぁぁぁ!」

 

因みにそんな事で引き下がるわけにも行かず、あの手この手で頑張るわけですが

怒りの矛先なんてありません。間違っても駄目になったNASに当り散らして破壊してしまってはどうしようもありません。ふと思い直してPCに残ってる写真のデータと最初におかしくなっていた古いNASのデータの状況を苦労しながら確認すると、どうやら古いNASのデータを引っ張り上げれば全部のデータを救える事が判ってきました。

「よし。ならばそれをやるか。」

ってことで、時々ネットワーク接続が切れるNASをLANに繋いで、PC本体に加え別に持っていたUSB接続のポータブルHDDにひたすらコピーです。やり方はまぁ色々あるわけですが、何しろ状態が不安定なので妙なユーティリティとかは使えず、実は考えつく限り一番原始的な方法を取りました。別に機械をバラしたりとか乱暴なことではなく、単にDOSのコマンドプロンプトから手打ちで色々とやったんですが、あまりに原始的なのと「もっと他に良い方法があるだろ」という声が聞こえてきそうなので詳しくは述べませんが、結果的に二晩かかって120GBほどのデータを避難させることに成功しました。

 

「備えよ常に」が座右の銘なのではありますが、全くの看板倒れであることを反省

色々な理由があって「備えよ常に」が座右の銘だと公言している私ですが、この1件の流れを見る限り全く駄目です。滝に打たれて出直しますレベルの駄目さ加減です。

 教訓: 対策は運用がキチンとしてこその対策である

他人事じゃなく、自分の話として胸に刻むものであります。

 

bibendum_iwa


プロフィール

岩永慎一

岩永慎一

外資IT、日本のIT系を経由して現在通信事業者に勤務。営業やSE、更にはコミュニケーション系を中心にありとあらゆるマーケティング関連の仕事を経験してきたが、現在は通信業界の特殊部隊として常に完全装備で課題に取り組む。

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