「悲観的に準備をし、楽観的に対処する」という姿勢
基本的に多くのプロジェクトが「上手く行く事」を前提として企画されると思います。失敗する事が前提のプロジェクトなんて基本的にはありません。もちろん最初から無理難題が前提というモノの存在もよく理解していますが、それでも何かしらの理由や経緯、そして必要性があって「上手く行く事」が前提だという気がします。
ただ、机上と現場は別の話で、往々にして途中の状況の変化に対応するのに一杯一杯になり、なんでこんな事になるんだよとの怒号や悲鳴等諸々が乱れ飛ぶ中なんとか進行する、という姿を見たりします。因みに横から眺めてるときには「これは他山の石とせねば」などと余裕ぶっていたりしますが、さすがの私でも渦中の人となるとそんなことを考える時間すらないよねっていう経験は一度や二度ではありません。
どこまでそのプロジェクトにコミットメントしているのか、そもそもどういう立場で関与しているかによって全然状況が違っては来るのですが・・・
常にあらゆる選択肢とバックアッププランを考え続ける癖
これは特にイベント周りを主に担当していた数年で完全に自分の中でスタイルが出来上がって居ます。なにしろ規模の大小に関わらず、たとえば事前に100個の問題点を想定して対策をとっても現場で必ず101個目の問題が出るのがイベント。大抵の場合には事前に想定していた100個の解決策のどれかの応用もしくは組み合わせでやっつけちゃうわけですが、全く想定すらしていなかった事態に遭遇して慌てた事も一度や二度ではありません。流石にそれなりにエライ目に遭ってきました。
でも、それが経験。
たとえばあるプロジェクトのスコープのなかで起きるであろう全ての選択肢と対応策を事前に考えるのは簡単ではありません。ただ、ある程度の経験とそこから学ぼうという姿勢があれば、それなりにオプションの準備は出来るわけです。あとは何か事象が変化した時点でその瞬間からゴールまでの阻害要因や予見できる可能性についてのオプションを足してゆく。
それがひとつのあるべき姿。
何をどこまで予見できるかっていうのは、それまでの経験が役に立つわけですし、それが出来ない経験は経験じゃないとまで言い切っても良いかもしれません。理論的にこうなるであろうという話もあるでしょうし、流れの雰囲気から「これはやばいぞこうなるぞ」と感じるものまで多種多様なはず。でも、ある程度の経験があれば何かしら事象の流れの中で気が付くところはあるはずです。
過去から学び、新たな事象に対処する。
あとは評価の方法で、たとえば100個考えたオプションの全てを発動せずに物事が済めばそれは無駄な事をしたのではなく、必要な対策が事前に検討しつくされ、結果的に状況対処のためのオプションを発動せずに済んだと前向きに評価する仕組みが必要だと思います。それでなければ企画屋など出来ないし。
何も起きなかったことへの評価が必要。
悲観的に準備し、楽観的に対処せよ
旧日本陸軍の軍人で大本営参謀を務め、戦後は伊藤忠商事の特別顧問、第二次土光臨調の委員や亜細亜大の理事長などを勤めた故瀬島龍三氏の言葉といわれているものです。
この言葉、色々な解釈が出来るかもしれませんが、たとえば「プロジェクト」というものに対しての非常に重要な部分を端的に表していると思っています。いわんや、機敏に迅速に対応するというコトだけがクローズアップされ、十分な準備期間と内容が伴わないまま実働に突っ込んでゆくことから何が起きるかというのは、一度でも何かしらのプロジェクトでエライ目にあった人は誰しもそれぞれの立場や状況で理解できると思います。
もちろん、そんな悠長な話じゃないんだという状況がむしろ普通ですよね。望むだけの予算と人材と期間があればなんて話は少なくとも資本主義社会ではありえない。得てしてそれらのどれか、もしくは全てが足りないというコトの方が当たり前。
でも、その場その状況での限られたリソースをどのように組み合わせ、どのように最適化し、それぞれのパートで最大限動いてもらって全体として目標を達成するか、どうしても駄目ならそもそもの目標をどのように修正するかなど、いろんなオプションがここにもあります。
現場は大変。全体を管理するのも大変。もちろんマネジメントとして全体を引っ張るのも大変。でも、精神論だけでは上手く行かないのも多くの人が理解している話。
だからこそ頭を使うってコトですよねってのを、先人の言葉に重ねつつツラツラと考える日々です。