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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

電子教科書論というものに「お受験」という補助線を引いてみたときに、私に見えるような気がするモノ

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いわゆる電子教科書の議論もそうですし、太古の昔からあったCAIの世界も結局同じなのですが、人と話をする事によってしか、あるいは話をする人と接する事によってしか得られないモノっていうのはあるわけで、その部分が例えばノウハウ本の氾濫をシニカルに見つめる人の存在に繋がるような気がしています。

なんだか禅問答みたいですが(笑

 

何度かエントリーにも書いた気もしますが、やっぱりモノには使いどころがある訳で

いわゆる電子教科書であれば、いまよりももっと便利に、楽に、そして効率良くなることがあるのは事実だと思います。それこそ現場の教師を上手くサポートするツールのひとつになる可能性はあると思います。

でも、最低限でも書くところっていうのは手で鉛筆を持って書くという行為は、動物としての人間という側面から、絶対にキーボードや何らかのタッチパッド的なモノに置き換えるべきではないと思える部分があると思うんです。特に初等教育においては。

で、一応そのあたりの匙加減っていうのは全体としてどうよという方針を立てることは出来ると思うんです。でも、それを実際の教育の現場に落とし込んで使うというコトを考えたときに、あまりにもそれぞれの場での状況が違いすぎて一般化しづらいところがあるのも事実。

いや、実際のところ、私自身が小学生の子供を2人持つ親として、自分の子供の通う市立の小学校、周囲の同じような市立の小学校、隣の市や近隣の私立の小学校などなどを同じ軸で見てみると、正直同じ目線で考えた方針をそのまま展開するには余りにも温度差があるぞ、ってのは直ぐに気が付きます。

もちろん私立の学校の場合には別ですが、公立の小学校や中学校の場合、その地域の歴史的な環境や経緯などが非常に複雑に絡んでいて、本当にひとくくりに考えるのは難しいよねってのは、自分の実感として判ります。そんななかで、たとえばレベルの底上げみたいな思想の元に新しいデバイス、たとえば「電子教科書」的なものを放り込んでも、(転勤でローテーションしてゆく教員の質とは別に)中々難しいものがあるぞ、って思うんです。

なんだか難しい話になってきましたが(笑

 

そこに、いわゆる「お受験」という補助線を引くと見えてくる地域性の問題

いや、自分が住んでいる場所がどうのこうのという話ではないのですが、私自身は自分の経験の中で理解していた事を改めて最近良く思うのが・・・

「お受験は、お受験のためにするものだけではなく、地域と切り離れるためのお受験もある」

という事実。

さぁ、どんどん禅問答になってきました(笑

コレを話しだすととても深いところに触れる話なのですが、たとえばこの傾向っていうのは古くから人が住んでいた地域が新興住宅地として開発された場合に、割と見受けられるような気がしています。少なくとも私の場合には、そういう地域を幾つか経験しているので、それが体で理解できます。

何を言ってるかって?

凄く乱暴に言うと、その地域で何代も暮らしてきたクラスターと、そこに後から入ってきたクラスターの中での色々な溝ってのは簡単に埋める事はできず、とは言えそれを包含したままでも環境を維持できる地域は非常に幸せだけれど、そうじゃないところって実は結構あるんじゃないのかな?って言う話です。

そんなの例外だろって?ふむ・・・

 

肌で感じる学校と地域の関わり、というか環境が抱える問題

こういう問題、それほど顕在化していなくても実は結構存在するものだと思っています。その場の当事者じゃないとわからない部分もありますし、そこに居るからこそ理解できる事情もあります。ただ、それが決してある特定の地域だけの問題ではないことは、小学校から中学にかけて数回転校した経験のある私は何となく体で感じるところがあります。

これは、実は私が「コミュニティー」というもの、更には「ソーシャルメディア」と言うものに対して本質的に恐怖を感じる、ある意味トラウマとなっている部分を構成しているのですが、それと同じようなものを感じる人が増えてくると何が起きるか。

実はここに、「お受験のためのお受験」ではない「お受験」と言うものが成立するわけです。

 

これは教員のレベルの問題とかそんな次元の話ではないわけです。
でも、そんな状況は例外だろって?まぁ、それならそれで良いんですけどね。

 

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