事実らしきものをどう理解するか
事象を見る上で、まずバイアスをかけずに事実の部分をキチンと見ることの大事さ、というのは立場や立ち位置、そして状況に関わらず大事なこと。そして、次に大事なのは実は事実は事象のひとつの形であって背景まで含めた真実を忠実に表しているのではないかもしれないという疑いの目。そして、更に、モノゴトには必ず経緯があり、ある事実には必ず理由があるという目。このあたりが曇ってくると、なんだか表面上の動きに右往左往してしまうことになりかねないような気がします。
まず目の前にある事実を事実として受け止めること
いや、別に深刻な話ではないのですが、とにかく目の前で起きていること、自分が見たもの、というのは極力バイアスをかけずに、まずそれをキチンと正視することというのはとても大事だと思っています。ここまでは、いわばInformationの領域。
そしてそれをどう理解するか、というのは次の話。これでIntelligenceの世界に入るわけです。
問題は最初に見えているものを何かしらバイアスをかけて、勝手に「これはこうだから云々」と短絡的に考えがちなこと。実はこれはとても楽な話ですし、そのときに頭に浮かんだ解釈というのは意外に後々まで残るものです。この、後々まで残った解釈が同じような事象を理解するときのバイアスになる。
でも、一回休みしてみる。なんだか気になることは、一回休みして、ちょっとウラを取って見る。経緯をもう一度確認してみる。そうすると最初の解釈が実は間違ってることに気が付くかもしれない。あるいは正しいと思えることにも改めて気が付くかもしれない。
なんだか哲学的な話ですが、その姿勢は崩しちゃいけないかと自分では思っています。
でも事実って共有できるのだろうか?
森崎さんの事実と事実認識の間でというエントリーを見て、ちょっと気になってしまいました。非常に個人的な体験を同じ価値観をもって共有するのはとても難しいことですが、学術的なことであれビジネスの場でのことであれ、実際に何かモノゴトを進める上で誰かと一緒に作業が進むのであれば、少なくとも事実の部分は確かに共有できないと困るのはとてもよくわかります。
価値観とか行動原理に縛られる部分はどうしても解釈がブレてしまうと思いますが、それでも客観的に共有できる(はずの)部分はキチンと共有しなくてはいけない。
その先の解釈はそれぞれの立場があるので、そこから先はそれぞれの意見で闘えばよいわけで、その共通のスタートラインが事実の共有。
なんでそんなことに引っかかったかって言うと・・・
まぁ、この歳まで生きてると色んな事象に遭遇するわけで、そのなかで自分の周りに起きていることをどうやって理解するべきなのか、ちょっと悩んだりすることもあるわけです。ただワタシの場合は根本的にアホなので、とりあえず四の五の考えずにまずは目の前の事象を受け止め、事実を整理してから考えて自分なりの解釈を下すというプロセスを経ないと、なんだか変な話を自分で作り上げそうで・・・
自戒を込めて、もう一度再確認しなきゃな、と思う9月半ばです。
しかし、最近、こういうことで考え込む状況に巻き込まれやすいなぁ・・・