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第41回 ヒトと計算機を隔てるもの ~メルマガ連載記事の転載(2014/05/26 配信分)

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この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「データ・デザインの地平」からの転載です。

連載 「データ・デザインの地平」 第41回 ヒトと計算機を隔てるもの

危機的状況を打開する脳のバグ

医療検査機器の進化により、いまや我々はヒトの言動の由来を、脳にもとめることができるようになりました。
脳内の特定の機能を実現する回路の一部にバグが生じると、情動、モチベーション、共感、報酬、行動の制御などに、大多数とは異なる特徴が見られるようになります。

偏桃体にバグが生じると、恐怖心を感じにくくなり、危険を避けられなくなります。
また、前頭葉のバグは、道徳的・社会的行動に影響をおよぼします。たとえば勤務中の事故で前頭葉を損傷したために人格が変化した、鉄道技師フィニアス・ゲイジの例のようにです。
他者の苦痛に対して報酬が強化されるようなバグも見つかっています。このバグがあると、暴力行為に対する抵抗感が薄れると言われています(※1)。
反社会的な行為も(※2)、つきつめればその背景には、脳機能のバグがあると考えられています。

これらのバグは、しばしば社会的な事件を引きおこし、そのたびに、ネット上には厳罰をもとめる声があふれます。
しかし、既存の罰則が脳機能の修復に著効するかどうかは不明です。
むしろ、脳機能を補う外部装置や薬剤を開発する研究プロジェクトに、被験者として参加してもらうべきなのかもしれません。(そうすべき、という主張ではありません)

ただし、そういった社会悪を招く脳のバグを、すべて。修復する方がよいかどうかは難しい問題です。別の角度からみれば、短所は長所にもなるからです。

たとえば、恐怖を感じられないバグがあれば、敵か味方か分からない相手に対して、恐れずに近づくことができます。もし、接触してきた相手が(たとえば、映画 インディペンデンス・デイなどとは真逆で)交戦的ではなく友好的であったなら、彼らはファースト・コンタクトの成功者となります。
かつて人類が食糧不足に見舞われたとき、食べられる植物を見つけたのも、彼らだったかもしれません。

良心の薄い者についても同様です。心を鬼にしなければならない局面で、躊躇することなく行動できるのは彼らです。
倫理的ふるまいを制御できないバグは、危機的状況を打破するトリガーに化ける可能性があるといえるでしょう。(そのままでよいかどうかは、さておき)

精神の高みと創造性をもたらすバグ

脳のバグは、社会的な行動だけでなく、個人的な精神活動にも、影響を及ぼします。

側頭葉の電気活動は、既視感や幻覚や臨死体験を引き起こすという研究結果があります(※3※4
また、側頭葉てんかんの一症例である、過剰連結症候群を引き起こす可能性があるとも言われています(※5)。てんかん患者を主人公とする「白痴」を書いた文豪ドストエフスキーは、自身もこの症例に該当したのではないかと言われています。

また、頭頂葉の感覚が抑制されると、空間認識が変化し、自己とそれ以外の境界が薄れる体験が起こると言われています。
映画「トゥームレイダー」や「博士の愛した数式」のエンドロールに流れる英詩人ブレイクの詩「一粒の砂に世界を見、(略)一時のうちに永遠を掴む(「AUGURIES OF INNOCENCE、梵我一如の前兆」の冒頭の一連)」という感覚の背景には、頭頂葉の空間感覚の抑制があると考えられます。

情報を選別する認知フィルターにバグが生じた場合は(認知的脱抑制)、さらに深刻な精神上の問題を引き起こす可能性があります。
フィルタリングし損なった膨大な情報が脳内にあふれ、精神に破たんをきたす恐れがあるのです。逆に、それらの膨大な情報を制御して活用できれば、創造的な仕事につながります(※6)。
統合失調症のフィルタリング状態は、創造性への助走でもあるかもしれないのです(※7

側頭葉の異常活動、頭頂葉の感覚抑制、認知的脱抑制といった脳の状態は、一部の宗教家・芸術家・科学者だけが経験するものとは限りません。
臨死体験は、病気や事故で死に直面した人なら誰にでも起こる可能性があるでしょう。
認知的脱抑制は、経営、企画、デザインや開発、現場の改善提案にたずさわる人たちも、アイデアがひらめく前後に体験します※8)。そして、それらの状態を体験する人々の大半は、精神の苦闘には無縁です。

「世界のあらゆるものに対して、自発的に、距離を置く」ヒトは、非日常的精神状態を一時的に体験するだけであり、「世界のあらゆるものの方から一方的に、距離を強制的に置かれてしまう」ヒトは、その状態に意識が固定してしまうために苦闘することになるのかもしれません。

宗教的な高みや精神の深淵を垣間見る体験は、個人の中にとどまらず、強固な信念となって、対人関係上の問題を引き起こすことがあります。しかし、その状態を引き起こすバグをすべてつぶしてしまうと、高度な精神活動や創造性は閉じ込められてしまうことになりかねません

言葉が曇らせる、脳のバグ研究の限界

これまで述べてきた、倫理の崩壊や個人の精神の破たんにつながる「駆逐すべき」バグと、創造性や精神性を深める「温存すべき」バグ、これらふたつを区別する方法は、現時点では見つかっていません。
では、SPECTをはるかにしのぐ検査機器が登場すれば、両者を判別できるようになるでしょうか?

これには筆者は懐疑的です。なぜなら、言語という問題が横たわっているからです。

こういった研究には、被験者の語る体験と、検査機器から得られるデータの両方が必要です。しかし、被験者が体験を言葉で伝える以上、その表現には限界があります

仮に、被験者Aが「私と宇宙の境界が失せた」、被験者Bが「私も宇宙も存在しない」と表現したならば、これらは同じ神秘的体験の異なる表現なのでしょうか?それとも、被験者Aは「自己と宇宙が認識されているが、境界が曖昧になった」、被験者Bは「自己や宇宙といった概念すら存在しない」という、全く異なる体験なのでしょうか?

感覚遮断、薬物投与、脳の電磁気的刺激、瞑想、臨死体験、自他境界の崩壊、梵我一如、さらには、数学者の気付き、開発者のひらめき、ライターやデザイナーの「神が降りる」瞬間、それらはすべて同じ性質を持つ「神秘的体験」なのでしょうか?(※9

我々の言語は、言葉を超える概念を表現するには、あまりにも力不足です。
言語を超えるもの、数学を超えるもの、絵や音を超えるもの、つまり、記号ではない「体験を記述できる全く新しい手段」が見出されない限り、研究者が被験者の体験を正確に把握することはできないかもしれません。

ヒトと計算機が接近してもなお残る「人間らしさ」

10~20年前までは、基幹病院であってもMRIやSPECTが導入されているとは限らず、脳のバグが原因で不幸に見舞われたからといって、その原因を探り、証明することはできませんでした。
だからでしょうか、なにかしらバグのある不安定な脳こそヒトの証であり、不安定さがぶつかり合って生じる喜怒哀楽を味わうことこそが生きる醍醐味であると思い込むことが、生きる方便とされていました
そのような時代には、バグの負の側面を受容できる者ほど「できた人間」として評価されたのも無理はありません。

しかし、検査機器が発達した今の時代においても、そしてさらに科学の発達するこれから先も、バグこそが人間性の証なのでしょうか?

想像してみてください。 今後、計算機は、高速の量子コンピュータとなり、思考・創作・発見の能力を獲得し、さらには有機物で作られるようになったとします。
一方、ヒトはといえば、マシンが組み込まれて記憶量や処理速度が向上し、誰もが同程度の処理能力を獲得したとします。さらに、脳のバグは軒並みつぶされ、ヒトの脳のはたらきは画一化したとします。つまり、ヒトは計算機のように完璧な処理を行える者ばかりになり、個体差はごくわずかになったとします。

すると、ヒトと計算機は非常によく似たものになってしまいます。
両者の関係はまるで、PCと携帯デバイスのようです。PCが小型化して携帯性を獲得する一方で、携帯デバイスはPC並みのスペックを持つようになり、このふたつは接近しています(※10)。隔てるものは「分類」と「名称」、つまり社会の中での位置付けです。

そうなってもなお、ヒトと計算機を隔てるものが残るとしたら、それこそがヒトがヒトであるゆえん、我々がまだ気付いていない、ヒトと計算機の決定的な違いなのではないでしょうか?(※11
そのとき、人類はバグによって多様性を維持するのではなく、「ヒトと計算機を隔てる決定的な違い」によって、多様性を維持し続けるのではないしょうか?

ヒトと計算機が限りなく接近し、生体そのものが認証用デバイスとなったときに初めて、我々は、「ヒトとは何か?」を、真剣に問い始めるのかもしれません(※12)。

※1 ナショナルジオグラフィック ニュース「人の災難を喜ぶいじめっ子の脳」
以下、注釈中の参照先のうち、厳密な利用規約のあるものについてはリンクしていませんから、タイトルでbingってください。

※2良心をもたない人たち(マーサ スタウト 著、木村博江 訳、草思社)」参照。

※3神の神経学 脳に宗教の起源を求めて(村本治 著、新生出版)」参照。 宗教の起源と発達を神経学によって再定義した内容です。筆者(薬師寺)は、この本の真骨頂は、神話の形成過程を神経科学の視点から説明したことにあると思います(P.147~P.151)。情報交流のない複数の地域で、類似の文化や発明や創作が出現する過程も、同様の考え方で説明できるのではないでしょうか。

※4こころのりんしょう 第28巻02号 特集:解離性障害(星和書店)」参照。

※5てんかん学ハンドブック第2版(兼本浩祐 著、医学書院)」参照。 「ベアらは、側頭葉てんかんの性格変化の特徴を、衒学性、宗教性、過剰書字、攻撃性、性欲低下などとして捉え、これをクリューヴール・ビューシー症候群の裏返しとして理解した(臨床メモ5、P.114)」

※6日経サイエンス 2013年06月号、特集天才脳の秘密」参照。

※7 統合失調症患者の幻覚をアイデアに転換できる可能性については、筆者ブログ過去の雑文「ひらめきと病のあいだ ~過去の随筆(2005年12月7日)の再掲載~」で説明しています。

※8 脳内のフィルタリングのイメージは、日経IT Proの筆者の過去連載「Webプランニングから始めよう! 第9回 良いアイデアがわく人とわかない人はココが違う(2006年12月21日公開)」の図を参照。

※9 ストーも複数の状態を同一視しています「孤独(アンソニー・ストー 著、吉野要 監修, 三上晋之助 訳) 」第12章参照。 筆者(薬師寺)は、(自分の体験から)すくなくとも「臨死体験」と「梵我一如の体験」は全く異なる状態であり、同じ「神的体験」という言葉で括るべきではないと考えています。また、臨死体験には認識する空間の拡張があるかもしれず、時間と空間に関する物理学の進化が待たれます。 薬物投与による作用と高僧の境地についても、「知覚の扉(オルダス・ハクスリー 著、河村錠一郎 訳、平凡社) 」と、「イメージと人間―精神人類学の視野(藤岡喜愛 著、NHKブックス)※藤岡氏は薬剤投与実験の被験者を体験)」を読む限り、これらふたつの状態は全く異なるものであると考えられます。

※10データ・デザインの地平[18]コントローラー化する、携帯デバイス」参照。

※11 精神活動が次々解明されていくとき、ヒトとして生まれたことに感動する者と、無味乾燥であると嘆く者に分かれるでしょう。
数理物理学者ペンローズは「脳の適当な物理活動は意識を引き起こすが,この物理的活動を計算によって適切にシミュレートすることはできない,」「心の影 Ⅰ意識をめぐる未知の科学を探る(ロジャー.ペンローズ 著、林一 訳、みすず書房)P.15」という立場をとりつつも、「心の影 Ⅱ」では「ひょっとすると,物理的世界の振る舞いには,正確な数学的用語では記述できない側面があるかもしれない.ひょっとすると,(脳のような)物理的構造に根ざしていない心的生活があるかもしれない。(P.233)」とも述べています。
筆者(薬師寺)は、シミュレートできない部分こそヒトと計算機を隔てるものであり、それはヒトの脳に根ざすものではなく、そしてまたヒトに根ざすものでもなく、ヒトの外あるいは重なってあるものの物理的活動かもしれないと想像しています。

※12 筆者がこのようなテーマで書き続けているのは、XMLエンジニアの立場から、「一意なものの定義(社会システムの中での私の定義)」が検討されぬまま、混沌としたシステムが生み出されることを懸念するからです。我々の生活は、すでに、システムに依存しています。修正も変換も再構築も困難な構造のデータが増えれば、世界中の(そして宇宙の移住先の)いたるところでシステムが破たんし、人類の命運を左右することになりかねません。


HTML5 audio : 緑の鐘 インストゥルメンタル版 / The Green Bells
Music and Lyrics: 1984. Vocal Version is out now. I wrote this song, imaging the deep forest green described in "Axel" by Villiers de L'Isle-Adam.
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