ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

変えるべきもの、変えてはならないもの ~メルマガ連載記事の転載 (2012年9月24日配信分)

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この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「データ・デザインの地平」からの転載です。

連載「データ・デザインの地平」
第22回「変えるべきもの、変えてはならないもの」(2012年9月24日配信分)

変化が現れる前に、自らを強いて変えよ

この十年、我々を取り囲むネットワークや端末は大きく変わりました。成果物を公開するしくみも確立され、誰でも大容量のデータを世界に向けて発信できるようになりました。

私は毎月こうしてメルマガ原稿を書き、それは一万数千人のもとに配信されます。
そして私は、何本かの Windows Phone 7 アプリを各国のマーケットプレイスに公開しています。それらは主に "Windows Phone 7 アプリ開発者" 向けに開発したもので、毎日コンスタントにダウンロードされ続けています。それだけ世界中で開発者が増えて続けているのでしょう。
また私は、一台の Windows 7 PC だけで創ったアルバムを Amazon MP3 や iTunes ストアで販売しています。

世界中に、文章やアプリや楽曲を発信する人々がおり、ネットワークの向こう側には端末を操作するユーザーやリスナーがいます。技術進化に適応するよう自らを変えた多くの人々がいます。

筆者は変化がない状態を心地良く感じるタイプの人間ですが、常に自らを強いて変え続けています。なぜなら、新しい技術がデフォルトになった世界が見えているからです。変化が「立ち現れた」時点で慌てるよりも、「立ち現れることになっている」変化に適応できるように、あらかじめ自分を変えておいたほうがラクじゃないですか。

たとえば、紙媒体の衰退を確信した20数年前から、画面上でテキストを読むことを自らに強いてきました。昔は解像度が低かったので、画面で文章なんて読めるか!と毒づきながらです。それでも、電子媒体の時代が到来することは明らかなのですから、自分を変えるしかありません。読みづらく頭に入りにくいのを嘆きながら、自らを強いて慣らしました。そして今では、詩集と画集と一部の小説以外は画面で読む方がいいとさえ思います。

ボーカロイドでも同じです。
筆者はまだヒトでも歌える曲ばかり作っていますが、「どのような音域でも、早口でも歌いこなす」初音ミクのあの甲高い声に、耳を慣らす必要性を感じています。突発性難聴持ちなので辛いのですが、我が国が世界に誇れる歌声合成技術に合わせて、自分の方が変わらなければ、という考えです。耳を慣らしたなら、頭の中の処理系が変わり始めることが分かっているからです。

もし歌の得意なヒトなら、初音ミクを真似て歌っているうちに、声帯の構造が変わっていくでしょう。ヒトは自らが創りだしたものを真似ているうちに、それに近付き、やがて超えます。さいきん、アニメのヒロイン?と見まがうばかりのリアル二次元美少女が増えているように。これは一種の進化かもしれません。

同じ理由で、若い人々は、シミュレーションゲームに親しみ、その速度と環境に合わせて変わる必要があります。動体視力と反射神経と判断速度がもとめられる世界に適応できるように自らの処理速度を変え、そして、自然がなく、ヒトとのリアルなコミュ二ケーションもなく、情報だけしかない世界にあっても精神の平衡を維持できるように、感覚遮断への耐性を獲得しなければなりません。ひょっとしたら、自室にこもって長時間ゲームを続けられる人々は、シェルターや宇宙での生活に適応する進化の過程の人材なのかもしれません。

変わり続ける世界の中で生き抜いていくには、自らを変え続け、進化させるしかありません。

技術進化の世界から断絶した、変わらない日常

そうはいっても、誰もが「変わらなければ」という意識を持っているわけではありません。
筆者が住んでいる町は地方とはいえ政令指定都市ですが、リアルでは全く異なる状況があります。

生活の中での必要な書類、たとえば役所の提出書類、病院の問診票、保健指導の食事記録などは、ほぼ手書きです。
脳波による入出力が研究され、音声入力が実用化される時代に、紙とペンを渡され、キー入力の何倍も遅い手書きをもとめられると、過去に戻ったかのような錯覚に陥ります。Webサイトからダウンロードしたフォーマットに入力し、印刷して署名するといった方法になるのは、まだ遠い先のことのように思われます。

さらに、プライベートで関わる事業者の中には、Webサイトもブログも開設していないケースがままあります。先方がメールを使っていないためにファクシミリで代用していると、IT格差という言葉が頭の中をよぎります。

PCに向かっている時は、技術進化の過程を垣間見ながら、PCの前を離れて「いまここ」に戻ると、アナログ手法が蔓延する世界に引き戻され、筆者はいつも、新旧ふたつの世界の間で、右往左往しています

変わる個人が作る、社会システムを変える土壌

技術進化を受け入れたくない、変わりたくないというのは、個人の自由です。
ところが、変わりたくない人々が一定数以上いると、社会的問題の技術による解決は、雑談のテーマにすらならないでしょう。

身近な例で考えてみましょう。

たとえば、少し前に話題になった、生活保護受給の問題を思い出してください。
技術進化に合わせて自分を変える人は、こう考えるかもしれません。
「同じ条件下での公正な判断は、ヒトよりも計算機の得意とするところだ。ならば、ハローワークや市民税課との連携を検討してデータベースを整備し、窓口業務は美少女ロボットに任せ、計算機では判断が困難な事例についてはヒトが補足するといったシステムは考えられないものだろうか?」と。

また、介護認定についても、こう考えるかもしれません。
介護認定にあたっては、調査員が来訪して、聞き取り調査と日常労作のテスト(座ったり寝がえりをうつなどの動作が可能かどうかのチェック)を行います。このとき、高齢者によってはプライドから、平生は困難な動作を簡単にできると言う人もいますし、その逆もあります。

そこで、技術進化に合わせて自分を変える人は、こう考えるかもしれません。「調査員の見聞きする作業の一部を計算機に担わせられないか。日常労作を撮影したビデオ判定ではない。Kinect があるじゃないか。蓄積されたデータは、整形外科やリハビリテーションの専門家にとって、有益な資料となるだろうし、障碍年金の裁定などにも展開可能なのではないか?」と。

こういったシステム構築は、予算や個人情報の取り扱いの問題や、もちろん技術的課題もあって、現時点では不可能に近いものです。
しかし、技術進化に NO を言う人々は、実現可能性の是非を問う以前に、技術利用を考えようとする姿勢を持ちません。

「ヒトの力で行き詰ったら、技術で解決できないのだろうか」「ヒトと計算機の有効な連携はできないか」とは考えず、すべての問題をマンパワーで解決しようとします。いかに頑健なヒトも睡眠不足下では精神を維持できないにもかかわらず、マンパワーの限界を、精神論で突破しようとします。

技術を使って現実的な問題を解決していこうとする姿勢のタネは、技術的変化を受け入れる土壌がなければ、捲くだけ無駄です。土壌のないところに捲いたとしても、芽を出すことはありません。

変えてはならないものを変えた、取り戻せない歳月

変えるべきものがある半面、変えてはならないものもあるでしょう。

変えるべきものとは、自分です。技術が進化した社会に適応できる人間に、自らを変えていく方がよいでしょう。

変えてはならないものとは、生活です。一ミリも変わってはならないとは思いません。が、自然環境がその変化に付いていけないほど、生活のあり方を「急激に」変えてしまっては、リスクが大きすぎるのではないでしょうか。
(その意味では、情報端末の製造にも環境破壊が伴います。しかし、それは教育を津々浦々に浸透させ、ヒトの知性を押し上げます。結果、環境汚染は抑制され、女性の地位は向上し、悲惨な出来事も減っていくでしょう。技術進化は、微妙な平衡の上に成立しています)

急激な経済成長を善しとする社会で、大量消費を突然止めてしまうと、経済は混乱するはずです。(筆者には経済学の専門知識はないので、大雑把なことしか言えませんが)ゆるやかな経済成長を続けている中での成長の一時停止であれば、進むべき方向と善後策を考えられる時間的なゆとりがあるのではないでしょうか。

「喜怒哀楽」よりも「快不快」を行動の基準に据え、長期報酬より短期報酬を選択し、個の内省の時間を非効率の名のもとに切り捨て、人生の全時間を生産と消費のために使うことが正義だとばかりに、エネルギー大量消費の方向へと舵をきったのは、まぎれもなく、若い世代ではなく、筆者以上の年代の人々です。
もし、決してニーズを見込むことのできない市場であったなら、企業は莫大な先行投資をしたでしょうか、それとも、ニーズは無関係だったのでしょうか?

技術進化に対しては自分を強いて変化させ、生活は昭和の時代から徐々に向上させて急激に変えることはしない―――そんな方針で生きてきた筆者から見れば、我が国においては、変えるべきものと変えてはならないもののふたつが、逆転しているように思われてなりません。変えるべきものは変わっておらず、変えてはならないものが変わってしまったように感じられるのです

方向転換へ。次世代の感性と思考力に期待する

こんなことをつらつらと書き連ねたところで、平成の歩みを過去に戻ってやり直すことはできません。それでも、一縷の望みはあります。

すくなくとも、自らインターネットで情報を収拾し、その真偽を見極めようとする若い人々は、技術進化に背を向け、与えられる断片的な情報だけを鵜呑みにして行動してきた何割かの上の世代よりも、自分の頭で考える姿勢を持っているように見受けられます。

いくらかの若い人々は、世界の静謐のやりきれなさを歌うことができます。そのような最期を迎えないように、平和を祈念し、友情に憧れ、ささやかな日常を尊び、地球の自然を想うことができます。

詩情を理解しない中高年世代の一部は、花見の席を、花びらの舞う音をかき消す大音響の宴会場に変えてしまいました(昭和40年代までは、そのようなことはありませんでした)。それでもなお、「桜」という一文字に、やわらかな薄紅色の花びらを通して透ける光りをイメージできる心は、まだ若い人々の中に残っているでしょう。

年齢を重ねれば経験は増えます。しかし、重要なのは「経験そのもの」ではなく、その「経験をもとにどれだけ深く内省したか」です。経験だけ多くても、単に表面をなぞっただけならば、年を重ねたところで世界に対しては無知なままです。高齢者の方が物事を見通しているとは限りません。

若い人々よ。思考停止状態で上世代の後を歩くのではなく、自分の頭で徹底的に考え抜いて、進むべき方向を定めてください。
ハングリー精神は必要です、チャレンジ精神も必要です、しかしそれらは、限りある資源や生命を食い散らかす貪欲さを意味しません。

そして、技術進化に対しては NO を言うのではなく、事前に変化を察知して自らを適応できるように進化させてください。
ビジネスの勝者になるためではなく、一個の生命体として生き残るために。

「データ・デザインの地平」バック・ナンバー
第1回 UXデザインは、どこへ向かうのか? (2010/12/20) ~ 第21回 計算機製アートの席巻する日 (2012/08/20)

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