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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

ヒトは、眠り、成長し、表現したいのだ。

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50年近く生きてきて、たしかだと思えることがある。
ヒトは、食物や金銭の乏しい環境下にあっても、生命の危機に瀕する環境下にあっても、そう簡単に、絶望したりはしない。

ただ、次の3つだけは、ヒトを絶望させることがある。

ひとつは、睡眠不足が継続することである。
たとえば介護疲れによる悲しい結末は、「介護という作業」そのものに原因があるわけではない。精神的疲労と忙しさから「十分な睡眠のとれない状態が、思考を失わせるほど継続すること」にある。

2つめは、脳の成長を阻まれることである。
たとえば、子供を、能力を伸ばすことを禁じる環境に長期間置いたらどうなるか。
それは、背が伸び続けている子供を、背の高さの箱に閉じ込め続けることと何ら変わらない。
ヒトの脳は、身体の一部である。脳は、成長したがっている。
子供はモノが不足しただけでは、まず絶望しない。能力を伸ばすことを禁じられ続け、その制約から逃れる方法を思いつかないときに絶望する。
だから、同じように物理的に困難な環境で育っても、「家族から、能力を伸ばすことを禁じられてこなかった」人々の方が、成功に近づきやすいのではないかと思う。

3つめは、表現を妨げられることである。
絵や詩や音楽は、脳の中に湧き上がる情報である。その源泉を止めることができない限り、湧き上がる情報を出力できなければ、苦しむことになる。
源泉からわずかな水しか湧かない人は、出力できずとも大して苦しくないので、創作とは、生活が事足りた上の、プラスアルファの作業でしかないと思っている。
一方、源泉から豊富な水が湧く人は、生活が事足りようが事足りまいが、創り続ける。出力できなければ、吸った息を吐かずに我慢するのと同じように、苦しいからだ。

ここでいう「表現」とは、内から湧き上がる情報に限らない。TwitterやFacebookが生活に根付いてきた昨今では―――私はようやく始めたところだが―――、外から入力される情報を一度処理してから出力することも、広義の表現の一形態であろう。
入力される情報が膨大なのだから、そのぶんせっせと出力しなければ、代謝が滞る。その出力を妨げられることもまた苦しいものだろう。

本来、ヒトは、じゅうぶんに、眠り、成長し、表現したいのだ!

その3つの、いずれかが欠けたなら、絶望の淵に沈む人が現れ、その絶望は伝播する。
このような状況下で、それは、避けなければならないことではないだろうか。

さて。この重苦しい駄文のことは忘れて、MIX11で、気分を盛り上げていきましょう!
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