メアド変更の返信で知らせていただいたじゃん・ぽ~る西さんのブログ「つつじヶ丘通信」。
あはは。やっぱり『パリの迷い方』(集英社)の作者だあ。
いろんな人の観察絵日記。女性の髪型の後ろ側へのこだわりが面白い。
ここんとこ試験期間で講習会も出られませんが、何とか毎日の練習は短めだけどやっております。それで感じるのが「俺、ようやく今八卦掌の基礎練習になってきてるかも」っていう「思い」なんですなー、今さら。
とくに今回は足がしんどい。李先生によると、走圏ができてきたので、その分負荷がかかるけど、まだそれに耐える力がないからだ、と。今回の特徴は、とりわけ太股の裏側が筋肉痛。どうやら、股間を締めながら重心移動したり回ったりするせいではないかと。
そうか、こういう訓練をしてるんだな、これが「力」につながる八卦掌鍛錬の意味なんだ、みたいな・・・・・。
でも、同じことを過去何度となく感じてきた。去年の半年間集中部活状態でもそうだったし、それ以前にも繰り返し「ようやく練習になってるのかな」って感じてた。
この感覚と「思い」って、要するに自分が教わってきた言葉が、身体感的な「内実」として以前よりリアルに感じられることから来てるわけです。ただ、その「内実」を言語化しようとすると、前からさんざんいわれてきて、自分でも言葉にしていることの繰り返しになってしまう。それって言葉や言葉同士の関係を抽象化する方向ではなくて、むしろ言葉に対応する身体感覚と動きの実体的な関係性に還元されるようなものなんですね、どっちかつーと。
なので、どんどん「書く」ことがなくなってくる。
鍛錬度の異なる者同士でも「あそこがこうで、だからああなんだよね」「そうそう」という同感の会話が成り立つのも同じ理由によるんだと思いますが、それは「いや、ソレじつは違うんだよね」っていうべきもんじゃないと思うんですな。たぶん、大枠でいえば「同じことだよ」って考えていいと思う。李先生ほど違ってしまえばともかく、鍛錬レベルが多少違っても、意味しようとしているベクトルは同じだと考えたほうが、言葉として開くんだと思う。逆に「言葉は同じでも、内実が違うんだよ、それじゃダメなの」っていう方向に持ってくと、極端にいえば「秘伝的神秘」「言葉にできない領域の神聖化」に向かっていっちゃう気がするんであります。
「違うかもしれない」を前提として共有した上で「同じ(方向)だよね」って肯定したほうが、コミュニケーション言語としては生産的だと思うのでした。
そのほうが楽しいしね。
「『ジャングル大帝』と白いライオンの謎」
「白いライオン」はいつから「白く」なったのか?
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/
なるほど~。
連載当初には、たてがみだけが白かったのが、途中で全身白くなったという・・・・・・。
初出時の刊行がもたらした仮説ですね。
『ウォッチマン』は以前翻訳された時読んで、今回『フロム・ヘル』を読み、はずみがついた。
『バットマン キリング・ジョーク』『TOP10』と読んで『V FOR VENDETTA』を読んだ。80年代の連載作品で、ムーア自身は自分の思想が若かったと本の中で書いたりしている。英国がコンピューター管理の過酷なファシズムに管理されている平行世界的な設定で、謎の仮面のアンチ・ヒーローが破壊工作で国家権力を崩壊させる話。アラン・ムーアは、やっぱり破格に面白い。続けて読むとけっこう暗くはなる(笑)が、何かひどく読者を惹きつける大きな力を持った作家、ということだろう。『V』には、彼の持っているヒーロー像の原型が感じられる気がする。たしかに『フロム・ヘル』などの重厚さや奥行と比べると、ちょっと幼稚な印象は受けるが、魅力的な部分は同じだ。こうして、いくつものムーア作品を比べて読めるようになったのは、じつにありがたいね。
アラン・ムーアって、ずいぶん多くの作品が映画化されている。『ウォッチマン』も『フロム・ヘル』もいい映画だった。『リーグ・オブ・レジェンド』(まあ僕好みの楽しい娯楽映画だったしショーン・コネリーかっこいいけど、たいした映画ではなかった)や『コンスタンティン』(観てない)もそうなんだね。『フロム・ヘル』はヒューゴー賞初のコミックによる受賞を果たしたらしい。
たしかに八卦掌の李先生講習会もあるわけですが、講義やゼミが終わっても、試験期間になると忙しいわけです。試験監督したり、試験問題作ったり、採点したり、レポートや志望者の資料や論文読んだり、本日は修論の口頭試問ののち身体表象の会議で午前中から夕方まで。さらにこれから入試の試験監督、院入試など、なかなかのもんです。慣れてないので、直前になって拘束時日が決まることも忘れてたり、バタバタです。さらに今年からは論文指導が具体的に始まったりもする。とはいえ、一般の大学の先生に比べれば僕は相当「暇」なはずなので、この状況に慣れていかないと余裕はできないってことですね。自分の直接担当する学生のことを考えるだけで精一杯なので、まだ大変ですが。でも、少しずつ大学ってもの(個別学習院ってことですが)や、その中の人間関係とかが何となくわかってきてはいます。この中で自分なりに動くには、まだしばらく時間が必要でしょうけど。
いやあ、大きな集団に所属するという、長く経験していない場所にいるんだなーと・・・・・・。不思議な感じであります。
なかなか面白い議論になってると思います。
それでも出版社が「生き残る」としたら
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-9fd2.html
「紙の本」の将来
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-b3e8.html#more
現状を条件にした仮説的な推論なので、その範囲で議論すれば興味深いアイデアも出てくるんじゃないでしょうか。すぐにでも具現化する「現実」の描写と考えてしまう人や、たんに出版の現在に批判を許したくない感情論は、あまりいい議論にならない感じがします。
八卦掌の練習、本日は「単勾式をうまくできないのは、手の動きがおぼえられないからではなく下盤(体幹の落としと、しっかりとした扣歩擺歩)ができていないからだ」とのことで龍形と熊形を前半みっちり。これ、体験教室でやってもよかったのでは、と思ったけど、それはそれとして、納得の基礎訓練でした。実際、僕自身もそこが最大の問題だったし。その上で、後半は単勾式の八番目。燕が鷹になる動き。
今回感じたのは、相変わらず新しい動きを覚えるのは苦手なものの、以前より下盤ができたせいで、動きの合理性は身体的に感じられ、その分、李先生の見本をなぞるのは容易だったこと。その場でも、できるだけ体幹で動くように試みることができた。
「新しい複雑な掌法などばかりやって基礎の走圏をやらないなんてのはダメです。でも、基礎の走圏ばかりやって、掌法を覚えないのもダメなのです」という言葉も、納得。新しい動きをやると、いかに自分が不安定で基礎ができていないか、どこが弱いかがわかるし、微々たりといえどできた部分は新しい動きにも対応できるこどがわかるからだ。
ところで、李先生がボードに書かれた言葉「軽→重、快→慢(速いと、ゆっくり)、上→下(もひとつあったが忘れた)」では、こんな説明が。
「軽さは重さがあって成り、上は下によって成るという陰陽の関係にあるので、この「哲学的」な側面を考えてください。」
このとき、気づいたのだけど、僕や八戒さんなんかは、たぶんこれを以前なら抽象概念としてだけ聞いてしまったと思うが、今は自然にそれらを自分の身体的な内感覚に対応させて理解しているということだ。李先生の言葉は、じつはけっこうベタに身体や運動に対応しているのだ。ただ、その身体感覚が自覚できるまでは、抽象的にしか聞こえない。
とはいえ、これらの言葉が抽象的な世界を持っていないわけではなくて、おそらくベタに身体的でありながら、そのまま抽象的でありうるものなのだろう。伝統的な言語と身体との関係とは、そういうものなのだろうか。
明日は大学の仕事で早いので、お先に失礼して、茗荷谷の駅前の「王将」で東京らーめんセットを食べた。ひとりで王将に入ったのなんて、たぶん4~5度目じゃないかな。東京風のシンプルなラーメンと小チャーハンに餃子。けっこう旨くて、一気に平らげてしまい、お腹いっぱい。茗荷谷の王将が旨いのか、八卦掌の練習後だからなのかは微妙。
追伸
八戒さんのブログに記事。
で、思い出した。忘れてた対は「変化→不変化」。
八戒さんの「気」の語り方は、かなりいいんじゃないかと思います。
もっとも先生に聞くと「違う」といわれるような気がしますが、それはそれ。
3日は自主ゼミに学習院の川口先生がわざわざ私物の資料、パリ・コンミューン期に出ていたイラスト新聞などの実物を中心に持ってきていただいた。それだけでもありがたいのに、ちゃんと絵の解説やレジュメ、参考書までご用意いただき、恐縮の極みであった。ほぼ明治初期にあたるパリの、コンミューン側と反コンミューン派の新聞戯画は、政治的な条件のみならず、当時の国際状況、生活を感じさせる道具、服装、建築のありよう、印刷技法、写真との関係など、多くの問題が浮き彫りになって、壁新聞であったというメディア特性も含めて、ものすごく勉強になった。言葉のシャレや事象の戯画的な記号化など、明治初期の戯画、錦絵新聞などと共通する読解の難しさもある。また少し後に出されたイラスト集には、アメコミにもつながるような人物造形があったり、興味深いものだった。
ゼミにはササキバラ・ゴウさんも参加され、聴講生の持ってきたヴィルヘルム・ブッシュ(今もドイツで売られている19世紀のイタズラ小僧マンガ『マックスとモーリッツ』の作者)の作品集を見ながら、動線などの記号的表現の生成過程などについて、面白い話になった。いやあ、ブッシュも面白いなあ。自主ゼミでありながら、非常に充実した一日でした。
日曜に借りたDVD。『トランスポーター』シリーズのジェイソン・ステイサム主演のアクション。
http://bd-dvd.sonypictures.jp/crankhighvoltage/
いやあ、正直どうなのかな、と思って借りたのだが、ここまでお遊び映画だとは・・・・・。もうムチャクチャ。
煽りに「やりたい放題」とあったが、まさにその通り。
前作の続き、ということで死んだはずの主人公が、バッテリーが切れると止まってしまう人工心臓をつけられ、自分の心臓を奪った中国系マフィアの長老から取り戻すまで、ひたっすらアクションにつぐアクション。しょっちゅうバッテリー切れになる心臓に、最初は車のバッテリーから充電、競馬場で人とこすれあって静電気で充電、さらにセックスして充電、さらに変電所の高圧電流でバリバリっとやって、おまけに巨大化(!?)、日本の特撮物のパロディまでやっている。もう最高! ただし、相当下品でもあり、Xッキンの連呼で、そういうの気になる向きにはオススメできない。
というわけで週の始まりと同時に2月になり、いきなりの雪。
窓の外には雪で白くなった家々の静かな屋根が見えます。
ゆ~き~はふぅるう~・・・・・。
はあなたわ、こなぅい~~♪
「論文を書く」のが、大学院のゼミの最終目的である。だが、論文以前に、論理を扱い、問題を構造的に見出し、抽象的なレベルの言語を実体的、感情的なレベルとわけて枠組みを作り・・・・・という作業そのものができなければ、論文どころか、自分の課題を発表して議論することすらあやうい。文章をきちんと書けるためにも、説得力をもって話すにも、同様の課題をクリアしていく必要がある。問題点やレベルは様々だが、この点こそが、修士課程の問題だというのが、2年間の経験でわかってきた。しかし、大学院に進まず、卒論以外に論文を書いた経験もない素人教授には、そこをどう指導してゆくかがわからんのである。
というわけで、博士課程の人を含めた演習ゼミで必要な読書目録を作ろうと話したとき、複数の人が挙げたのが鹿島茂『勝つための論文の書き方』だった。タイトルにはおぼえがあるが、さすがにこのタイトルに首を傾げてしまい、手にとっていなかった。
しかし、鹿島茂先生の著書であるから、そこは面白いであろうと読んでみた。結論からいえば、今年からこの本はゼミ参加者の必読リストにのせる。文章は平易で簡潔だが、論文を書くということは「問題を立てる」ことだという点も、その他の指摘についても、見事である。僕などが何かいうより、すぐに読めるので、読んでほしい。ここに書かれていることは、鹿島教授のいうように、論文のみならず、プレゼンテイションにも、発想法にも役立つはずだ。
ただ、問題があるとすれば、鹿島教授のように指導経験のない僕には、この本で書かれた内容を実地に指導する具体的なスキルが蓄積されていない、ということだろう。
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