夏目房之介の「で?」

2017.9.22 夏目批評研究ゼミ 『夢十夜』レジュメ 夏目

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2017.9.22 夏目批評研究ゼミ 『夢十夜』レジュメ 夏目

夏目ゼミでの私の発表レジュメですが、段落など読みにくいかもしれません。

1)『夢十夜』全体構成 【表01】

第一夜 「こんな夢をみた」で始まる。  第二夜 同左

 「死」にゆく女 「百年」「待つ」    参禅する侍 悟れない焦り、強迫

第三夜 同上              第四夜 冒頭句なし

 六つの盲目の子 「百年」前に殺す    水に没する爺さん、

蛇になるのを「待つ」子供(自分)

第五夜 「こんな夢をみた」       第六夜 冒頭句なし

 いくさに負け「死」を選ぶ「自分」    仁王を掘る運慶を見る「自分」

 白馬で来る女を「待つ」         仁王を掘ろうとするも挫折

第七夜 冒頭句なし           第八夜 冒頭句なし

 終わりない船旅             床屋で「鏡」をみる

 「詰まらないから」死ぬ         見たいものが見えず、

 いつまでも水面に落ちる後悔       ないものが見える

                         庄太郎登場

第九夜 冒頭句なし           第十夜 冒頭句なし

 幕末、夫を待つ妻と三つの子       女に攫われた庄太郎の話

 お百度を踏むもとっくに殺された     を語る健さん

 夢のなかで母に聞いた話         豚を打ち続けて倒れる

 ↓                   ↓

奇数章                 偶数章

「〈死〉の問題を提示」[1]         「〈生〉への志向を前景化」[2]

「他者に対する異和を他界概念にまで拡大した物語、すなわち他界としての他者に出会う物語」[3]

2)「物語」を「語る」登場人物 【表02】

第一夜 「百年待つ」男         第二夜 和尚に「侍」と呼ばれる男

第三夜 三つの子を背負う父親      第四夜 「子供」である「自分」

第五夜 いくさに負けた男        第六夜 運慶を見る「自分」

第七夜 船にのる「自分」        第八夜 床屋にいる「自分」

第九夜 母から夢のなかで聞く人     第十夜 健さんの話を聞く「自分」

五夜までは文中の「現在」に感じられる視界を持つ「自分」は、女、子、爺さんなどに「時間」を先取りされる。六夜で初めて主体的に「仁王」を掘ろうと動く「自分」が登場するが、七夜で死のうとして後悔し、八、十夜では状況に対し受動的で、九夜では「語り」の人格は曖昧にされている(文の外に出されている)。

3)第五夜、七夜 文中での会話と「 」 【表03】

第五夜 「青空文庫」より

 大将は篝火(かがりび)で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。

自分は一言(ひとこと)死ぬと答えた。

 自分は死ぬ前に一目思う女に逢(あ)いたいと云った。大将は夜が開けて鶏(とり)が鳴くまでなら待つと云った。

 こけこっこうと鶏(にわとり)がまた一声(ひとこえ)鳴いた。
 女はあっと云って、緊(し)めた手綱を一度に緩(ゆる)めた。

第七夜

「この船は西へ行くんですか」

「なぜ」と問い返した。
「落ちて行く日を追かけるようだから」

「西へ行く日の、果(はて)は東か。それは本真(ほんま)か。東(ひがし)出る日の、御里(おさと)は西か。それも本真か。身は波の上。流せ流せ」と囃(はや)している。


 ある晩甲板(かんぱん)の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。

するとその異人が金牛宮(きんぎゅうきゅう)の頂(いただき)にある七星(しちせい)の話をして聞かせた。そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った。最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。自分は空を見て黙っていた。

↓「 」の反転比較 「 」と「 」なしで読んでみる。

第五夜

大将は篝火で自分の顔を見て、

「死ぬか生きるか」

と聞いた。

自分は一言

「死ぬ」

と答えた。

自分は

「死ぬ前に一目思う女に逢いたい」

といった。

大将は

「夜が明けて鶏が鳴くまでなら待つ」

といった。

「こけこっこう」

と鶏がまた一声鳴いた。

女は

「あっ」

といって、緊めた手綱を一度に緩めた。

第七夜

ある時自分は、船の男を捕まえて聞いてみた。この船は西へ行くんですか。船の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、何故と問い返した。落ちて行く日を追懸るようだから。船の男は呵々と笑った。

一人の異人が来て、

「天文学を知ってるか」

と尋ねた。

そうして

「星も海もみんな神の作ったものだ」

といった。

最後に自分に

「神を信仰するか」

と尋ねた。

「 」アリでは、ナシよりも、肉声的な印象から人物の輪郭が近く感じられ、ナシでは逆により客観的に引いた印象を受ける。その分、微妙ながら現前性が退き、「読み」の時間感覚に落差が生じる。

4)同じ個所をマンガ版で見る

夏目漱石原作 近藤ようこ漫画『夢十夜』岩波書店 2017年

夏目漱石原作 桟敷美和漫画『夢十夜』ホーム社/集英社 2010年

近藤ようこ版 第五夜 p.60,62 相対する大将と「自分」のアップ 【図01】

 「自分」の登場への期待=ハンサムな主人公(物語と期待)

p.64,68 女と白馬と「自分」 描写される「視界」の主の曖昧さ 【図02】

   小説の「語り手」は言語自体であり、物語の外にある[4]

p.69,72 すでに死んでいるはずの「自分」の語りのように読める小説と違い、その「語り手」の曖昧さを逆手にとって、女の「あ」以降、むしろ女を物語の主体的な位置に移行したかのように見える。マンガにおける登場人物の位置付け。【図03】

しばしば、そこに主に登場している人物の話を中心に物語が進み、主人公が移り変わる現象がみられる(小説でもありうるが)。

桟敷美和版 p.80 「捕えた者をここへ」原文にないセリフ 【図04】

p.82,83 マンガ家の解釈の幅が大きく、原文を改変。「自分」の表象はある種の類型化された「少女マンガ」系美男子(顎の細さとまつ毛)。 【図05】

p.84,85 人物、対象への視界は近藤版より近く、より「主観的」な印象。逆に近藤版は、原文をできる限り尊重し、言葉が編む物語の構成も変えない。

 【図06】

p.91~93 「語り手」に関するマンガとしての言及はここまでないが、この場面の主人公は明らかに女。とくにp.91で、

「鶏が鳴くまでなら待つ」

鶏が鳴くまで・・・・

あの明るいのが篝火だ

でも

まだ遠い

まだ遠い・・・

とあるのは、原文を越えて女の「内面的焦点化」(ジュネット)[5]の言葉になっている。少女マンガ系のスタイルで、漱石のイメージを一切使わずに物語化されている桟敷版の、この人物への引き寄せ方は興味深い。 【図07】

 最後のp.95で、ヒズメの跡の向こうに浮かぶ縁側は、この「夢」をみた人物を示唆するようで、これが「語り手」存在への言及になり、近藤版で古代の「自分」だったものが、「現在」の夢見者に移行している。【図08】

 桟敷版は、近藤版よりもそういう意味では「現代」の読者に沿おうとしているのか?

近藤版 第七夜 p.89 「自分」はきわめて抽象的で、頼りなく、キャラクターの薄い印象。(この話は、漱石に詳しければ、当然のように彼のロンドン留学に向かう船中を連想するはずだが、漱石のイメージを使っていない) 【図09】

p.93~94 「異人」の「天文学を知っているかね」(原文"知っているか")に対する「・・・・」は原文「黙っていた」に対応するマンガ的な吹き出し。 【図10】

「異人」は、小説ではそれほど人物像を想像させない書き方なのに対し、近藤版では人のいい好々爺的な外国人として造形されているのが面白い。

p.98,99 視覚効果としてマンガ版の見せどころ。縦長のコマと、ナレーション化された原文の長い帯が、止まってしまう寸前のように「引き伸ばされた瞬間」の時間感覚を再現し、わずか十行ほど(岩波文庫版)の文章の面白さを伝える。 【図11】

桟敷版 近藤版の異人が主人公「自分」を見ようとし、明らかに興味を示しているのに対し、桟敷版はそれほどではない。ただ話したいだけで、p.123,124では吹き出し内に「~~~~」と延々と話し続けたことを示唆している。この差異は、おそらく読者の恣意的な「読み」で可能な幅をも示している。逆に言うと、マンガが人物画像を描かざるをえないことで起こる解釈の狭さであり、同時に面白さでもある。 【図12】

p.128~131 桟敷版の解釈の自由さの面白さが出ている。原文にも近藤版にもない「自分」の慌てふためいた「感情」が、ここで初めて画像化され、キャラクターに主観性を与える。ただ、原文と近藤版では、「引き伸ばされた瞬間」としての遅延(「待つ」こと=「夢十夜」の主題)の時間が、p.131の「・・・?」のあたりで、事実としていつまでも伸ばされた時間のように感じられる。この感覚が、最後のページでいかにもマンガ的に誇張された「自分」の泣き顔のユーモアにつながって、ひょっとしたら永遠に海につかないかもと思わせる。 【図13】

 セリフのある会話場面は、多くの場合人物と人物を同時に描写することで成立するが、小説の文章が「語り手」を曖昧にできる分、それ以外の場面との関係も曖昧なままにできる。マンガの場合、人物は風景に包含されたり、あるいは風景だけ、また文章と風景だけというコマに囲まれることで、直接的に画像としての人物との距離感を構成される。コマの独立性の高さ、人物画像の具体性が、物語を構成する「関係」のありようを、その翻訳過程で改変させることになる。

5)漱石イメージ

以上で、小説の文章とマンガの画像を比較してみたが、これが小説とマンガの比較になるわけではない[6]

小説『夢十夜』を読むとき、多くの読者は、その「夢」を「物語」っている作者が「夏目漱石」であることを念頭に置いて読む。しかし、小説の内部では、直接の「語り手」は様々な登場人物でありえ、またその外にも存在しうる。実在する作者とそのイメージを、この小説とどのように関連付けるかは、読者の知識や「読み」の好みに左右されて恣意的である。

しかし、もし仮に「漱石」について知識やイメージをもたない読者(たとえば、まだ彼がさほど有名ではない時代の作者を知らない読者か、日本、中国、韓国以外の外国読者)がこの小説を読んだとき、そこには漱石自身のイメージが反映しない。「読み」はつねに、その時代社会の住民の、言語と地域で共有された文脈で成立する。

この小説のマンガ化において注目すべきは、漱石自身のイメージ(日本の近代文学を象徴するような肖像といっていい)を使うか、使わないか、という翻訳技法の選択である。

近藤版『夢十夜』における漱石イメージ 【表04】

第一夜 「百年待つ」男 ×      第二夜 和尚に「侍」と呼ばれる男 ×

第三夜 三つの子を背負う父親 ○  第四夜 「子供」である「自分」 ×

第五夜 いくさに負けた男 ×    第六夜 運慶を見る「自分」 ○

第七夜 船にのる「自分」 ×    第八夜 床屋にいる「自分」 ○

第九夜 母から夢のなかで聞く人 × 第十夜 健さんの話を聞く「自分」 ×

四夜、九夜の「子供」が漱石の幼少であるという可能性は選択に入れない。十夜の「健さん」には口ひげがあるが、漱石イメージの反映とはいいがたい。

また、桟敷版では一貫して漱石イメージは使われていない。

この技法的選択は、マンガ家の恣意であり、それぞれ理由を想像することは可能だが、それほど意味はない。ただ、いくさに負けた古代の男を漱石顔にすることの違和感を考えれば(それはそれで面白いが)、むしろ選択肢は限られるといえるかもしれない。逆に言うと、近藤版は漱石の顔であることの必然性のない作品をのぞき、血の問題を感じさせる三夜、明治の風俗が中心的にあらわれる作のうち、語り手人物が画面におもに登場せざるをえない六、八夜に絞ったように見える。

また出版編集側の意図からすれば、漱石作品としての自律性を損なわない限り、漱石イメージはあったほうがありがたい。なぜなら、漱石を知る読者(つまりほとんどの日本国民)にとって、そこに「親しみ」を感じ、読者としての入り口になる可能性が高いと感じるからだ。営業側からすれば、さらにそうだろう。

 すなわち、漱石イメージの使用は、多くは受容層の欲望の先取りであり、また漱石作品で有名な『吾輩は猫である』が発表当時から漱石自身の戯画化とみなされてきたこととも関係している。漱石のイメージは、太宰、芥川と並んで「近代日本文学」を象徴しているが(それぞれ漱石=「権威」「知性」、芥川=「繊細」、太宰=「退廃」と関連[7])、それだけ作品の登場人物とも重ね合わされることの多い作家であった。

『夢十夜』は比較的自律性の高い作品だが、桟敷版はその側面を取り、近藤版は漱石イメージの文脈をその「忠実さ」で反映している。これは、この両者が想定する読者層(コンビニ的な「一般消費者」と、ある程度知的な読者層)の違いでもあると思われる。

近藤版 第三夜 p.39~42 【図14】  桟敷版 p.59~62 【図15】

漱石顔の近藤版と美男子の桟敷版を比べると、その場面展開に大きな差はない。ただ桟敷版のほうがより「よくあるホラー物」(子の顔の変化)的であるのに、近藤版は血のつながりの不可解な謎のような「わからなさ」が、漱石の顔(むろん、漱石そのものを指示していないので曖昧なわけだが)に表出しているようにみえる。ここで「漱石のようで漱石でない、本当はよくわからない連結のイメージ」として漱石イメージが「読み」として機能しているように思える。

漱石イメージを介した『夢十夜』という作品をめぐる時代社会的「読み」の文脈は、作品そのものの自律的なシステム(体系的機能)に関与して、原作の現在における位置付けを示している。

「マンガのイメージ(コマ)とは、断片的でありながら、増殖していくことを定めづけられて、システムのなかに組み込まれているものである。したがって、それだけで完結した言表(エノンセ)ではないために、もっと大きな装置の一部分としてはじめて理解が可能になるものなのだ。[8]



[1] 柴田勝二『〈作者〉をめぐる冒険』新曜社 2004年 p.208

[2] 同上 p.209

[3] 石原千秋『テクストはまちがわない――小説と読者の仕事』筑摩書房 2004年 p.160

[4] 橋本陽介『ナラトロジー入門 プロップからジュネットまでの物語論』水声社 p.99

[5] 前掲 橋本陽介『ナラトロジー入門』 p.183

[6] 三輪健太朗『マンガと映画 コマと時間の理論』NTT出版 2014年 参照

[7] 夏目房之介「夏目漱石というイメージ」 フェリス女学院大学日本文学国際会議実行委員会編『世界文学としての夏目漱石』岩波書店 2017年 参照

[8] ティエリ・グルンステン 野田謙介訳『マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか』青土社 2009年 p.17

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