夏目房之介の「で?」

2017.10.24 ブノワ・ペータース講演「ロドルフ・テプフェールからウィンザー・マッケイへ」備忘録

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2017.10.24 早稲田大学 ブノワ・ペータース講演「ロドルフ・テプフェールからウィンザー・マッケイへ ストーリー・マンガの誕生」備忘録

まだ記憶があるうちに、備忘録的に再現してみたが、何しろまったく当てにならない僕の記憶であるから、話半分でわりびいて読んでほしい。

 ブノワ・ペータースさんの講演は、テプフェールの残した様々な業績を、彼の言う「版画文学」=BDのうえでのそれと、BDを定義し、解説した理論家としての側面とで話された。まず何よりも、同じ紙面にコマで分割されて、同じ人物が繰り返し登場すること自体が、当時は驚きをもって迎えられたこと。つまり、コマに分割された本の紙面に反復して描かれる同じ人物の絵の繰り返しによって物語は進むこと、そこにBD(ストーリー・マンガ)の最初を見出す。

また、「ペンシル氏」で、風に吹かれて絵と帽子が飛ぶ場面では、本の紙面の読み方向(左→右)に沿って線の束の風が吹き、物語が転がっていくさまを。「ジャボ氏」では、頭の中に浮かぶ五線譜と音符で「音楽」をあらわし、さらに雲のようなもので「夢」を表現した(この表現は、同じか早い時期に江戸黄表紙にもあらわれている)。「クレパン氏」では、十一人の子どもが同じ姿勢で並ぶという反復の面白さを、さらにのちにはコマそのものが細い短冊状に並んで乾杯を「繰り返す」事態を表現。「ヴィユ・ボア氏」では、風車が猛烈に回る複数の線表現をテプフェールがはじめて登場させた(これと同様の表現は、12世紀日本の絵巻物に、牛車の車輪の高速回転表現として登場していることを、我々は知っているが)。さらにまた、同じ「ヴィユ・ボア氏」で、主人公と恋人の牧歌的な場面と、恋敵が水車に巻き込まれてえんえんと回る場面を、数コマずつ交互に描き、いわばそれぞれの出来事が平行して起こる「パラレル・アクション」という「映画的」な場面も描いた。

というような観点の話から、その後ジュネ―ブで出版されたテプフェールのBDが、パリでカム(シャム)らによって海賊版にされ、さらにその影響でブッシュ「マックス&モーリッツ」へと続き、やがて米国新聞マンガ『カッツェンジャマーキッズ』などになってゆく歴史経緯、さらに「テプフェールが第一の天才だとすれば、第二の天才と呼びたいウィンザー・マッケイ」の業績を紹介し、1893年のシカゴ万博の「スペクタクル」の影響や、テプフェールと産業革命期の機械的想像力の同時代性と比す形で、マッケイとダーウィン『進化論』の影響とフロイド『夢判断』の同時代性について言及。彼のアニメも一部見せたあたりで時間切れになった。

 僕としては、日本の絵巻物や黄表紙、あるいはテプフェールより早く登場した日本の「コマ割り表現」(手妻の入門書)について注釈的に紹介したうえで、「パラレル・アクション」と呼ばれた表現と、またテプフェールの表現を当時の最新機械である列車の、とりわけ線路を比喩にして語られたあたりで、「反復」「分節」「近代性」をからめた質問をしたいと思いながら聞いていたが、どう考えても長い質問で、答えも複雑になりそうなので、質問に手をあげずに終えてしまった。というわけで、食事会にお邪魔して、図々しくペータース氏の隣の通訳をなさった森田直子先生の横に座り、質問したい内容をお話しした。

 いろいろ話しているうちに、結局のところ「線路」「鉄道」の比喩について質問したほうがいいのかな、と思い、通訳していただいた。それについては「たしかに線路はコマ割りの比喩として使ったのだが、当時、鉄道や蒸気機関というものは、非常に大きな影響をさまざまなところで人々に与えていたはずだと思う。直観的な推測だが」というようなことをお答えになったようだ。僕はターナーやモネも汽車を描いていることを連想したので、そう返した。

 また「パラレル・アクション」という演出について、僕は詳しくはないけれど小説ではすでに行われていたことだと思うが、と水を向けると「いや、小説では章を変えて平行的に出来事を描くことはあっても、一瞬にしてことなる出来事が切り替わり、画面として並列されるような、ごく短い時間の中での平行描写はテプフェールがはじめてだろう。むしろ、こうした表現は、映画の影響を受けて小説に生じたりしたのだ」と答えられた。なるほど、そういわれるとそうなのかもしれないと思う。つまり、あのカットバックは、映画的想像力の先駆ということなのだろうか。

あと、せっかくなので前から気になっていたヴィユ・ボア氏や彼の馬の、両足が一直線に開く走り方について伺った。ペータース氏は「おそらくテプフェールは、人間の身体を機械のように見なしたのではないか」といわれた。なるほど。そういえば、あの絵をみて連想したバスター・キートンの走り方には「機械」の趣がある。僕はド・ラ・メトリの『人間機械論』を想起した。ペータース氏はさらに「でも、マッケイの身体イメージは、それとは違う。テプフェールが機械的なら、マッケイは『進化論』的なのだ」といわれた。僕は蛇足的に「進化論と『夢判断』ですね。じつは、ほぼ同じ時期に漱石は『夢十夜』を書いてるんです」と加えた。ペータース氏はそれは読んでいない、といっていたが、果たしてフランス語になっているのかどうか。ただ、マッケイがフロドを読んでいたかどうかは不明なのと同じように、漱石がフロイドを読んだという形跡もない。無意識の同時代性あるいは同時代性の無意識という、面白い現象かもしれない。

というようなわけで、森田先生にはお疲れのところに、さらにご無理をお願いしてしまった。そのあと、森田先生が新幹線で仙台に帰られるとは思わず、申し訳ないことをしてしまった。すみませんでした。

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