夏目房之介の「で?」

さそうあきら『バリ島物語』1(原作ヴィキイ・バウム 双葉社)

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 さそうあきらがヴィキイ・バウム『バリ物語』(双葉社)をマンガ化しているのを、書店で単行本(2016年8月27日刊)を見て初めて知った。ネット配信で1996年から描いていたらしい。

 さそうあきらには、ずっと驚かされてるが、今回もだ。古典音楽物で新しい表現を見せたかと思えば、さらに指揮者を中心に描き、こんどは何とバリである。それもバリを植民地にしていたオランダとの壮絶な戦いを描こうというのだ。そもそも、日本人でバリの歴史を少しでも知っている人なんて、どのくらいいるだろう。しかも、その描写がじつに細部にわたるまで、20世紀前半のバリに寄り添おうとしているので、ややこしい。当時の一般のバリ人の「当たり前」な気持ちと、植民地支配者であるオランダ人の気持ちを対比したりして話が進むのだが、この食い違いを理解するには、多少なりとバリ文化や植民地支配についての基礎知識がないと難しいのではないかと思ってしまう。

 もちろん、この先にドラマティックな歴史の展開があるわけだが、さそう的には、そこを読解するためには、この異文化のズレが前提として理解されなければならないのだろう。娯楽作品にもさまざまなレベルがあるが、たとえば戦国時代の歴史的ドラマを、ほぼ異文化状態にあるといえる現代において娯楽化するために、「真田丸」のような大河では人物関係や感情を現代人にしてしまう。そうでなければ視聴者には気持ちが理解できないからだ。

 しかし、一方で歴史の「事実」性に寄り添って、それを再現することで、できるだけそこにある異文化性を、そのズレを対象化しようとするやり方もある。藤沢周平は時代劇と歴史小説で書き分けていたが、なかなか後者が一般読者を獲得するのは難しい。 さそうの『バリ島物語』は、そういう意味で、歴史時間として離れた時期の、空間的にも離れた異文化の、それも異文化同士のズレを描くという難題への挑戦だといえる。これが19世紀のパリやロンドン、20世紀初頭のNYだったりしたら、むしろ現代の日本人読者はさほどの違和感は持たないだろう。何となくどこかでイメージや前提知識を与えられているからだ。我々の情報、言説空間は相当に歪んでいるので、朝鮮半島や中国、東南アジアの歴史はまったく知らなくても、欧米についてはそれなりに知っているのだ。

 ともあれ、バリ好きの僕には嬉しい挑戦ではある。

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