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夏目房之介の「で?」

『ICHIRO』と日本マンガの影響に関する注釈

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グラフィックノベル『ICHIRO』を紹介しましたが、僕も含む日本の読者から見ると、多分最初はどうしても日本の事象の描き方とともに、日本マンガスタイルとの類似点に目がいくように思います。僕が直感的に望月峯太郎を連想したように絵の類似性を見いだすこともできるし、背景を白く抜いて見やすくしていたり、コマの構成も日本読者に読みやすい感じがしたり、そこここに類似ポイントを見いだすことは可能です。またそれを日本マンガの影響として見ることも可能ではありますが、だからといってこの作品を「日本マンガの影響で描かれた作品」といって終えることができるかといえば、そうはいかないだろうとも思います。この作品にはたしかに、日本神話や日本の戦争体験、日本の浮世絵、妖怪画なども参照されていて、「影響」を語ることは不可能ではないですが、同時にそれは作家によって自律的な世界観にまとめられており、その問題をどこまで考慮にいれるべきかは、作品全体から見れば慎重に扱うべき問題にもなる気がします。たとえば、欧米のグラフィックノベルの歴史の中でどういう位置にあるかを考える視角もありうるだろうし、その中で思春期的な不安や成長を主題化した作品系列として辿って分析することもありうるのではないかと思えます。当たり前のことですが。

つまり、そこでは「日本」は作品の素材の一つであって、作品全体を本質的に貫いてしまう要素といえるのかといえば、他の要素も当然あるだろうし、何よりも日本マンガとは異なる様々な文脈の中で成立している以上、それは当然のことでもあります。日本の影響、とくにマンガのスタイルを断片的に指摘して、まるで日本マンガの世界への影響が生んだ作品であるかのように取り込んでしまうと、おそらく間違えてしまうのではないかと思えるんですね。
たとえば、今から十数年前にはパロディとも思える日本マンガを模倣した表現を世界中に見いだすことができました。あきらかに日本マンガの特徴と思われるものを消化しようとしていて、いわば強い憧れを動機に模倣しているか、その結果を誇張してパロディ的に表現するものがけっこうあったと思います(個人的な収集作品を見ての個人的感想ではありますが)。でも『ICHIRO』には、そういう模倣段階を越えた何かを感じます。この作品を日本マンガの影響云々ですべて語ってしまうと、より重要な部分をスポイルしてしまうことになりそうなんですね。

そもそも、現在流通する作品に日本マンガの影響を見いだすことに、最終的にどんな意味があるんでしょうか? それは「だからどうしたの?」という問いに、どう答えられるんでしょうか。そもそも、大衆文化なんてそういうものではないのか?、と問われたら、そうなんですけど、というしかないんじゃないでしょうか。
そうじゃなくて、そこに現代の大衆文化がそれぞれの地域固有に持っているように見えていたスタイルを、憧れや模倣を通じて次第に共有し、どこのものでもない文化現象を通じて再び地域に還元されるという、文化の現在的な現象、その波及のもつ意味が問題なんだよね、ということになりそうな気がします。

もちろん、まだ研究もまともに始まっていない段階で、「そんなことやったって、文化的固有性なんて相対的なものだから、面白い結論でないでしょ?」という突っ込みは、かっこよくみえるけど、具体的な個々の検証過程の発見や刺激、面白さをスポイルして抑圧しかねないので、それもまた警戒しないといけないことではあります。
とはいえ、こうした事例を考えるときに、やっぱりそろそろ「わーい、日本の影響だあ」「変なのー」「おもしろーい」とかいって終わるテレビのバラエティ的なところで終わるのじゃなくて、文化の生成と混合の歴史とかって大きな枠組みから、ある程度理論的な考察を積み重ねる必要が出てくるように思えます。それはむしろ文化の固有性をいつも疑ってかかり、ましてその固有性を無意識に優劣などの価値として上位に置かない姿勢、客観的に文化現象を見ていく視野が、あるいはその方法論が必要なのかもしれません。大衆文化のように、社会の文脈との相互関係も大きい、現在生きて動いているような対象は、じつのところ大変にそのへんが厄介なのですが、それがまさにマンガなどのメディアの面白さでもあるでしょうから、できるかぎり「面白さ」を排除しないで、でも引いた目をどこかに維持して見ていくことになるんでしょうね。
なかなか、このあたりのことを語るのは、まだ僕には難しいですが。

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