オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

高野文子『ドミトリーともきんす』

»

ドミトリーともきんす.jpg刊行からだいぶたちましたが、ようやく読みました。買ったとき、ぱらっと見て「こりゃ、今は全然読めないな」と思いました。ある程度心の余裕がないと入っていけない。何せ、物理や生物学の話がからんでくるので。登場人物は、若き頃の朝永振一郎や湯川秀樹。彼らが下宿しているアパートのおかみさんが語り手。長い話ではないが、文章量は引用部がけっこう多い。

 というわけで、読んでみると、意外なほどにすーっと読める。風通しのいい本で、いわば浮世離れしたふわーっとした感じの読後感です。内容的には、物理の話とかではなく、それらを追求した学徒たちのエッセイ的な思考や味わいを辿るものといっていい。

 高野文子は、こう書いている。自然科学の本は、いつも自分が読んでいる本と違って「乾いた涼しい風が吹いてくる読書」なので、「まず、絵を、気持ちを込めずに描くけいこをし」(「あとがき p117)たと。そこに「涼しい風」の理由がありそうだから、と。なるほどね。この種のマンガは日本ではほとんど受け入れられないし、これまでもあまり作られてこなかった「異端」の手法ですが、高野文子はそれを柔らかく実現している。「面白い」と感じるかどうかは、読者次第で、読者を選ぶ。高野のように固定読者を持っている作家にしかできない本かもしれない。絵やコマの構成そのものが理論的で抽象化された感じがするというのは、日本ではなじみがないが、あっていい種類のマンガでしょう。

 僕自身が記憶に残ったのは、「もしここに牛が十匹おったとして、十匹の牛がいることは確かとしても、十という数字がそこにあるとはいえない。数はフィクションに近くなってゆくのです。」(p75)という、7話目「ユカワくんお豆です」の一節。「個々の事物よりも抽象的であることによって一般化する」(p76 湯川秀樹「数と図形のなぞ」引用)という「数」の面白さは、じつは抽象化という人類の普遍への指向性を意味していて、興味はあるのです。ただ、小学生の頃、リンゴという「事物」から離れられずに分数を理解できないままだった落ちこぼれの自分がいて、なかなかその手の本には手が伸びない。でも、面白い問題です。

Comment(0)