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夏目房之介の「で?」

武蔵野市寄付講座 昭和サブカルチャー史 漫画というメディアと昭和

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成蹊大で連続講義の一回を担当しました。以下はレジュメです。

2014.11.3成蹊大学 武蔵野市寄付講座 昭和サブカルチャー史

       漫画というメディアと昭和  夏目房之介

前提として

 大正時代を通じて日本は、第一次大戦を契機に重工業化が飛躍的に進み、貿易収支も黒字に転じた。関東大震災後、出版文化が飛躍的に拡大。昭和に入ると映画が歌舞伎などにかわって浸透し、トーキー化によって庶民娯楽の中心を占める。出版では、講談社「キング」(1925(大14)年創刊)百万部をはじめ大部数の大衆雑誌が出現し、改造社「現代日本文学全集」(1926(昭1)年)から「円本ブーム」が始まる。明治末に雑誌取次が寡占化し、鉄道の90%以上が国有化、流通インフラ整備を背景に、出版市場は大衆化した。

 都市給与生活者を中心に中産階級が充実し、都市「遊民」的な感覚の文化が花開く。ロシア革命の影響で、大正末~昭和初期「マルクスボーイ」が流行する。同時期、都市のインテリ青年は「新青年」(1920~50年 江戸川乱歩、夢野久作ら)の都会的な探偵小説、推理小説に夢中になる(「新青年」には、子ども向けではない連続コマによる映画を意識した16頁漫画が登場している)。都会的消費文化の中でモダニズムの「自由な雰囲気」が溢れつつあった。

【図1】N.T.P.PRODUCTION『くろがね島』 「新青年」博文社 1935(昭10)年春号 p1

 「一九二〇年代後半からの都市には、映画館やカフェ、デパートやダンスホールが立ち並び、街頭での文化が一挙に花開く。ターミナルがつくられ、郊外生活が本格化されるなど、都市化が進行し、それに伴うあらたな生活スタイルが開始された。和洋折衷で、流しを備えた台所や廊下で仕切られた部屋を有し、ときには子ども部屋も持つ文化住宅が建てられた。また、断髪で洋装のモガ(モダンガール)が東京・銀座や横浜・伊勢佐木、大阪・御堂筋の大通りを闊歩し、大衆社会が眼に映るようになった。」成田龍一『大正デモクラシー シリーズ日本近現代史④』岩波書店 2007年 p185~186 「女子どもの文化」の台頭

1)子ども向け漫画の発展

1924~26(大13~昭1)織田小星作、東風人(樺島勝一)画『正チャンの冒険』

 「アサヒグラフ」~東京朝日新聞 1923~26年 単行本 24~26年

 織田は欧米視察の影響で子供向け新聞発刊を志し、新聞連載子供漫画の嚆矢となる。少年が荒唐無稽なファンタジー世界で活躍する話で、「モダン」な欧米コミックストリップの影響が見られる。コマ割り(新聞連載は横コマ=ストリップ、単行本は頁四ツ割)に、吹き出し、コマ外ナレーション、主人公キャラクターによる複数コマ展開をもつ。単行本タイトルに「お伽」表示があり、江戸以来のジャンル名称を継ぐ。

「漫画と絵ばなしの中間的な色彩」竹内オサム「第17章 漫画風の絵物語「正チャンの冒険」」 鳥越信編『はじめて学ぶ日本の絵本史Ⅰ』ミネルヴァ書房 2001年 p297

文字の多い岡本一平「漫画漫文」スタイルから連続コマ漫画への過渡期。物語媒体としての発展。

【図2】『正チャンのばうけん』 「アサヒグラフ」1923(大12)年 連載初回

【図3】『お伽 正チャンの冒険 壱の巻』朝日新聞社 1924年 単行本より

【図4】岡本一平「オギアより饅頭まで」東京朝日新聞 1921(大10)年 第1回

2)都市の青年と前衛美術及び「エロ・グロ・ナンセンス」

「昭和の初頭は、謹厳実直なプロレタリア美術の運動と軽佻浮薄なエロ・グロ・ナンセンスの流行が交差する時代だった。プロレタリア美術とは、共産主義思想に基づき、美術を階級闘争や革命の手段として用いたものであり、それは先の章[「第三章 三科をめぐる革命のビジョン」 引用者註]で見た三科の分裂以来の離合集散から大同団結、そして弾圧による消散に至る左翼の組織的な運動の中で行われた。エロ・グロ・ナンセンスとは、江戸川乱歩の小説、小野佐世男の漫画、都市のいかわがしいカフェーに代表されるような、性的、醜悪的、歓楽的な性質のイメージが、雑誌や劇場などのメディアに氾濫した現象である。」足立元『前衛の遺伝子 アナキズムから戦後美術へ』ブリュッケ 2012年 p147

【図5】柳瀬正夢「川崎造船部三千の労働者立つ」 「無産者新聞」1927(昭2)年

【図6】小野佐世男「X光線にかゝつたモダンガール」 「東京パック」1929(昭4)年

「こうして第四次『東京パック』では、プロレタリア美術の漫画家たちが女性像やエロティシズムの表現に取り組んでいた一方で、エロ・グロ・ナンセンスの漫画家たちが次々と社会批判や階級闘争のごとき作品を発表していた。それらの作品は当時の帝展に見られた、プロレタリア美術運動の同伴者画家たちの暗い油彩作品とは対照的に陽気である。たとえば、下川凹天《銀座はうつる》[図19]では、都会を歩く男女のカップルの横顔が描かれている。画面脇の解説には「モボ・モガに代わりましてマルクスボーイにエンゲルスガール・・・・一九二九年の銀座」とあり、プロレタリア文化運動が実は流行の若者文化でもあったことを教えてくれる。」同上 p166~167

【図7】下川凹天「銀座はうつる」 「東京パック」1929年 ※引用文中[図19]

【図8】柳瀬正夢「彼等の銀座を視る(習作の一)」 「変態・資料」1927年

「モダニズム」の一環としての前衛芸術運動

 ドイツで前衛芸術に触れた村山知義が1923(大12 同年関東大震災)年帰国、「意識的構成主義」を標榜し、「MAVO(マヴォ)」を結成。左翼マンガ家として活躍する柳瀬正夢、のち『のらくろ』で戦前マンガに一時代を画す田河水泡(高見澤路直)らが参加。大衆(子どもを含む)のための視覚文化として絵本、マンガを重視した。「大衆(人民)へ」を意識、大衆メディアとしての漫画を自覚する都市インテリ青年の文化となる。

【図9】「踊り」 「マヴォ」3号 1924(大13)年 高見澤路直(のち田河水泡)がいる

【図10】村山籌子文、村山知義絵「線映画 三匹の小熊さん」「婦人之友」1931(昭6)年

村山知義 1901~77 1922(大11)年渡独、翌年帰国し、22歳で大正期新興美術運動を加速させ、当時の前衛美術運動を担う。マヴォの活動、グラフィックデザイン、建築デザイン、演劇など幅広く活躍し、戦後は忍者ブームに乗り小説『忍びの者』(「アカハタ」1960~62年)を執筆、映画化されてブームとなる。いかにも大正~昭和初期の才気走った「若者」らしい過激さと軽さを感じさせる。子ども向け絵本もまた漫画の一端であった。

田河水泡 1899~1989 芸術家を目指した田河が24歳で参加したマヴォは数年で解散し、その後落語作者をへて、大人漫画から子供漫画に移行。彼は、映画、大衆文学、アール・ヌーボー、アール・デコの影響を受けた商業美術やファッション、ラジオの普及による軽音楽など、広範な大衆文化の中にいた。漫画は、この時期には「モダン」でおしゃれな外来文化の匂いをさせたメディアでもあった。田河の現代美術から漫画への流れは、特殊なものではなく、むしろ時代的なものだったといえる。

「田河水泡がその出発点において、ダダおよび表現主義運動を二〇年代初頭のドイツで同時代人として生きて帰国した村山知義の影響下にあったことは、「のらくろ」の持った道化性または非連続への志向を考える上で少なからぬ意味持っているように思われる。」山口昌男『のらくろはわれらの同時代人 山口昌男・漫画論集』立風書房 1990年 p25~26

この他、山口はのらくろを、チャップリン、キートンと比し、フェリックスとミッキーの中間と位置づけている。当時、フェリックスやミッキーの黒い擬人化表現は、チャップリンのアニメでも似た造形が見られ、世界的な映画の流行、コミックの翻訳などで共有されていたと思われる。また田河水泡『漫画の缶詰』を見ると、未来派的な車の疾走や、平面構成主義を感じさせるデザインの扉絵が見られる。『のらくろ』(1931~41年 講談社「少年倶楽部」連載+単行本)も、連載当初はチャップリン的な浮浪者に近いが、30年代の時流の中で次第に現実の日中戦争を反映し、階級上昇をとげて変容してゆく。当時のマスコミ風潮、国民感情の反映といえる。

昭和初期は、世界的な潮流としての視覚文化の隆盛の中で、漫画の質を変容させ、モダンな自由さを表現するメディアとなってゆくが、同時に国家宣伝の色合いを強めてゆく。

【図11】田河水泡「目玉のチビちゃん」 『漫画の缶詰』大日本雄弁会講談社 1930(昭5)年 p9

【図12】同「人造人間」 同上 p101

【図13】田河水泡『のらくろ』 「少年倶楽部」1931(昭6)年 連載初回

【図14】同『のらくろ探検隊』 同 1940(昭15)年

3)新しい世代 「新漫画派集団」

1932(昭7) 「新漫画派集団」発足。青年漫画家の互助組織的集団(労働組合思想)。「ナンセンス漫画」を標榜。

近藤日出造、杉浦幸雄、横山隆一、横井福次郎など、戦後も漫画界をリードした当時の「若者」による運動。

「芸術団体」か「商業団体」かの論争(横山回想による)もあった(須山『日本漫画百年』芳賀書店 1968年 p148)。同年、血盟団事件、5・15事件、満州国建国。

 モダニズムの洗礼を受けて出発した若い漫画家の集団は、やがて国家意志に迎合せざるをえない状況の中で、日本の漫画界の中心を担う。戦後、「大人漫画」と呼ばれた彼らは、手塚や劇画など、戦後世代の支持した戦後物語マンガに押され、70年以降衰退する。そこに戦後世代の不信感がなかったとはいえないだろう。【図15】清水昆「集団結成当時」 須山計一『日本漫画百年』芳賀書店 1968年 p149

【図16】横山隆一『江戸っ子健ちゃん』 中央公論社 1936(昭11)年 p9

4)戦争期 宣伝化する漫画

1938(昭13)年 国家総動員法公布。内務省「児童読物改善ニ関スル指示要綱」が出され、荒唐無稽なもの、戦争物は排除し、科学的で日常的な表現を推奨。満州事変(1931年)以降の戦時体制下、当時の教育学者によって子ども向け出版の統制と刷新が図られる。以後、兵隊物漫画など周縁的な子ども漫画は抑制され、出版社は「指示要綱」に沿った出版を模索する。

1941(昭16) 日本出版配給会社設立による取次一元化。太平洋戦争開始。

戦争を至上命題とする国家意思による社会均質化。流通の中央集権化→戦後出版のインフラを準備。

漫画映画、漫画家も国家意思への奉仕を強いられ、奉仕団体から外れた者は排除。集中と効率化が進む。

漫画の政治プロパガンダ化が進み、戦時下の漫画家は戦地慰問や、対敵宣伝ビラ「伝単」などを描く。敵兵の厭戦気分を誘う伝単漫画には、しばしば「エロ・グロ・ナンセンス」以来のグラマラスな女体表現が見られる。

近藤日出造 1908~79 積極的に翼賛漫画を描き、1940(昭15)年「新日本漫画家協会」を結成し「漫画」誌を発行。漫画の国家プロパガンダを担う。戦時下でもっとも売れた漫画雑誌とされる。戦後、何の説明もなく「民主的」漫画を描き始め、後に石子順造らに批判される。

【図17】近藤日出造 「漫画」1943(昭18)年2月号表紙 ルーズベルト大統領

【図18】松下井知夫『推進親爺 突貫編』 漫画社 1943年 p48~49

【図19】伝単「You are wanted--」 米兵向け厭戦気分醸成を目的とした物 5万枚

戦後、モダニズムの中で育った手塚治虫、戦前の前衛美術に触れた杉浦茂など、昭和初期の自由さをSFや荒唐無稽な表現に昇華した作家や、戦争体験を反映した水木しげるなど、昭和前期の時代と文化は戦後マンガにとって巨大な伏流であった。昭和前期~戦争期~戦後のあいだに「断絶」だけではなく、「連続」を検証する試みが今後の課題であろう。少なくとも、出版流通に関しては、戦争期の集中が戦後の体制を準備し、やがて高度成長期~高度消費社会のマンガ市場の拡大を支えたのは事実である。

 また、近代の大衆社会化とともに発展した漫画というメディアが、諷刺漫画であれ物語マンガであれ、大衆によりそう構造をもつ以上、そこには大衆宣伝の性質が隠されている(近年では『ゴーマニズム宣言』など)。戦後、物語化の発展とともに、ことに高度消費社会化(70年代以降)の中で物語内の虚構レベルの自律化が進み、「宣伝」要素は単純な宣伝メディアよりは複雑な過程をたどる。けれど大衆自身の願望を時代的に反映する側面と、それが大衆に影響し宣伝メディア化する側面は、現在でも両義的に存在していると考えていい。もっとも、ここでいう「大衆」そのものがもはや「分衆」化し、一枚岩ではないため分析は単純ではないが。

図版出典

【図1】N.T.P.PRODUCTION『くろがね島』 「新青年」博文社 1935(昭10)年春号 p1

【図2】鳥越信編『はじめて学ぶ日本の絵本史Ⅰ 絵入本から画帖・絵ばなしまで』ミネルヴァ書房 2001年 p294

【図3】同上 p292

【図4】朝日新聞社、川崎市市民ミュージアム『没後50年 現代マンガのパイオニア 岡本一平展』図録 p23

【図5】足立元『前衛の遺伝子 アナキズムから戦後美術へ』ブリュッケ 2012年 p153

【図6】同上 p167

【図7】同上 p167

【図8】同上 p160

【図9】村山知義研究会『すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙』図録 読売新聞社、美術館連絡協議会 2012年 p119

【図10】同上 p177

【図11】田河水泡『漫画の缶詰』大日本雄弁会講談社 1930(昭5)年 p9

【図12】同「人造人間」 同上 p101

【図13】同『のらくろ漫画大全』講談社 1988年 p15

【図14】同『のらくろ探検隊』講談社 復刻「のらくろカラー文庫」 1984年 p159

【図15】清水昆「集団結成当時」 須山計一『日本漫画百年』芳賀書店 1968年 p149

【図16】横山隆一『江戸っ子健ちゃん』 中央公論社 復刻 1992年 p9

【図17】櫻本富雄『戦争とマンガ』創土社 2000年 p183

【図18】松下井知夫『推進親爺 突貫編』 漫画社 1943年 p48~49

【図19】伝単「You are wanted--」 「日本週報臨時増刊」日本週報社 1959年 p4

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