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夏目房之介の「で?」

NHKスペシャル「臨死体験」によせて

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http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0914/

「NHKスペシャル 臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」

 立花隆の『臨死体験』の本はだいぶ以前に読んだ。非常に興味深いものだった。何よりも臨死体験のさいに見る「あの世」の世界観が、体験者の文化(日本、米国、インド)に規定されている(日本人の多くは三途の川を渡り、米国人は渡らずにお花畑を見、インド人の多くは閻魔大王に会う)ということが、臨死体験における「あの世」の普遍的実在生よりも、脳内の「幻覚」である蓋然性の高さを示しているように思えた。立花も、この本の時点では脳内現象であるという結論に近かったと思う。一方で、今回の番組にも登場した利根川進への取材本では、利根川の「心は科学的にすべて解明できる」という主張に違和感を表明していたと記憶する。

 今回の番組では、臨死体験者の取材(1歳で危険な状態にあった米国の男の子が2歳でその記憶を、周囲の様子とともに語り始めた、という例が面白い)より、多くの取材を科学者にあてている。その科学者にも「心と脳の関係」や「あの世の実在」について、数学的に脳神経のクモの巣構造と意識の「量」の対応を証明できるとする人や、自身の臨死体験から「あの世」の実在を科学的に論証できるとする人まで、様々な意見が取られる(それらの論証過程については詳細には語られない)。最終的な結論については不確定なまま、それぞれの研究や意見を「事実」として並べてゆく立花の手法をドキュメンタリーも踏襲していて、それが見る者それぞれで思索する楽しさにつながる。

 というわけで、以下は番組の紹介ではなく、むしろそれで触発されて僕が勝手に考えたことである。昔から考えてきたことだが、まとめて公表したことはないので、自分勝手な文脈になっているかもしれないし、読みにくいかもしれない。興味のない人には寝言に過ぎないだろうとも思うが、たまにはこんな記事もあっていいかと思ってブログに載せてみることにした。

 意識(コンシャスネス)を「心」の一部と規定し、その「量」を数式であらわした研究者は、意識を、クモの巣よりも複雑にからみあった脳神経の情報系により生ずる現象としている。これは僕もそう思う。数式に関してはわからないが、きわめて高次の方程式になるような電気信号/情報のいきかいの結果生ずる領域であろうという推論は妥当なように思える。そう考えると、意識現象のすべてを脳の部位に還元する思考は、どこかで限界を迎える気もする。意識を統合すべき中心(自我)の物理的な脳の場所は、特定できないのではないか、という直感がある。脳神経ネットワーク全体(あるいはその広範囲な領域)から、疎外されて生じる意識領域があり、統合そのものが脳の全体的な機能なのではないか、という仮説になる。この構造によって、個人の自我、人間の意識あるいは心が(またその領域の拡大が)、現実から遊離し自立した領域であるという自己言及をもたらすのではないか、とも感じるのだ。

 人の言語は、目の前の現実を描写する形態とともに、目の前にはまだ現前していない現実をもたらす形態(命令形など)がある。抽象化された想像の領域から現実を実現しようとする(おそらくは元来呪術的な)形態が言語/意識に存在するといってもいい。この領域が、やがて自身の意識そのものへの自己言及をもたらすのかもしれない。番組の中で「想像力」に言及している部分は、そのことを裏付けようとしているように感じた。この「想像=創造」の領域が、神話、物語を生む。また、そこに存在しない領域の拡大は、人の記憶の拡大貯蔵を可能にし、現在の選択による「記憶」の生成をもたらすと思われる。

 臨死体験とは、つねに記憶である。漱石は、修善寺の大患の直後、吐血の瞬間の直後、すぐさま蘇生したという「記憶」をもった。しかし周囲から、かなり長くほぼ死んでいたのだとの情報を得て、その間が自分にとってまったくの「無」であったと語っている。「あの世」で偉大なものに出会うという体験は当時すでに彼は本で読んでおり、自分にはそれがなかったことで、やはり自分の考える通り「死」とは完全な「無」であるとしか思えないとする。立花は今回の取材の中で、臨死体験の存在そのものから敷衍して、意識の謎を考えているが、漱石のような体験と対照する必要もありそうに思う。

 臨死体験をする人は、ふだん夢をよく見る人に多い、という話が番組に出てきた。そして、夢と臨死体験ないし神秘体験は構造が似ているとも。漱石がどうだったかはよくわからないが、『夢十夜』を書いていることを思えば夢を見なかったとは思えない(「夢を見ない」と語っている作家には村上春樹がいる)。この相関も果たしてどのくらいの検証性があるのか不明だが、夢をみる睡眠状態が、脳内で限られた領域のみに活性(電気的な伝達)があるとみなされる状態であるとの報告が番組にもあった。起きている状態では、脳全体にわたって電気信号が走り回っている。一方、これまで脳死的に扱われていた状態でも、微弱な波動があるとか、臨死的な状態で、夢をみる休息の信号と、逆に脳の活性化を促す信号が、神経物質とともに辺縁系から出てくるとの報告もあった。後者の場合、白昼夢のような状態になり、非常に楽しい万能感に満たされるらしい。これらの状態は、夢だけではなく、古来からの宗教的な修行の結果えられる「悟り」的な意識状態、あるいは「神懸かり」的状態に近似している。

 脳は、きわめて大きな負荷をかけられ、危機に陥ると、自らを最後に守ろうとして、活性化するのかもしれない(辺縁系はは虫類にもあるとされる、脳中心部の原始的部位で、いわば生命力の根源でもあるらしい)。その場合、外的内的な要因で体の機能が著しく制限されており(修行とは身体的な制限行為/危機のシミュレーションであるし、夢は睡眠という体の休息時におこる)、いわゆる現実からの入力を大きく制限された状態にある。したがって、外界現実からの入力を最小限にした状態で、脳内神経(の一部)が活性化し、本来入力によって誤差を修正更新している領域において、逆流する出力のエネルギーが情報を創出するのかもしれない。幻覚においてよく起るように、聴覚情報が視覚化されたり、領域を超えた情報の混乱と再統合が起るのではないか。

 ところで、僕自身、臨死体験に似通った夢を見たことがあり、偶然小規模な「悟り」的な心理状態になったことがある(薬物利用によるものではなくナチュラルに)。そんなこともあって、意識の発生や臨死体験にも興味をもっていたのだが、臨死体験をもって来世の実在を云々する議論には違和感があった。米国の体験者の多くが、臨死体験後、来世や神を感じ、そのことを布教したがるのに対し、日本人の場合、自分の体験を脳の幻覚と認める人が多く、しかし同時に人生の大きな変化として受け入れるというような記述が、立花の本にも出てきた。僕もあきらかに日本人的な反応で自分の体験を考えている。

 脳内の意識が現実の空間や時間のフィードバックによって補正され、それによって「現実」の実在性を「確信」しているとするなら、夢も幻覚も悟りも、意識を規定する外界由来の時間空間からの相対的な解放になりうる。外部入力で補正されない、意識そのものの拡大になりうるからだ。外部入力を最小限に抑制された意識が、内部的エネルギーで暴走を始めれば、おそらく薬物やマリファナ、悟りなどの現象同様に、時間は異常なほど細分化され、一瞬がとてつもなく長い時間感覚になりうる。夢がそうであるように、一瞬への集中と時間のショートカットのような現象もおきるだろう。つまり、外部から補正されない時間は、理論的には無限に近似しうる。一瞬が永遠に近似してゆく過程といってもいい。しかも、脳内物質ががんがん出ているので、それは至高体験、全能感などとして体験される。脳の危機状態でそれが発動するとすれば、そこで生じる幻覚は、文化に規定されながら、永遠至高の存在=光への近接と、その中へ入ってゆく多幸感で満たされるだろう。

 この仮説は、かつて拙著マンガ『名作』所収の「浦島太郎」や、エッセイ集『これから』でも書いたことがある。もっとも、多くの人には何をいってるんだかわからない内容だったかもしれない。でも、このことは自分自身を含め、多くの同世代が今後直面するだろう「死」についてのイメージにかかわることだと思われた。「死」についてのイメージを、もっと豊かにしないと、人が死んでゆくときの社会的条件を整えてゆくことができないし、それは直接自分たちに影響してくる。

 「臨死体験」を、誰でも、どんな状況でも経験できるのであれば、多少の慰めにはなる。僕にとっては、あの世が実在するかどうかは問題ではない。死ぬ寸前に時間が永遠につながる経験があるのなら、あの世などなくてもじゅうぶん受容できるという確信がある。しかし、本当にそうなのかどうかは、今のところわからない。臨死体験を記憶する人と、しない人がいる以上、それはある条件で生じる偶然に過ぎないかもしれない。「無」であったとしても、恐怖を感じるほどではないが(その前の苦しさ、痛さ、悲しさのほうが恐怖だ)、できれば臨死体験的な状態に入ってゆくと思いたい。死に臨んで従容と受け入れる状態になったとき、それを十分に味わえる環境を作ることができるか、という考え方がありうるし、そのような社会的条件を作れるかどうかという課題にもなる。死を恐怖とだけ結びつけ、延命措置だけを医療の課題とするのではなく、死のイメージの多様化と、治癒と延命のみを目指す医療概念の拡大が必要な気がする。立花個人の、番組の終わりでの感想は「死はそれほど恐れるものではない」ということだった。

 立花は、ガンにかかり、余命の短いことを感じて、この取材を行ったと番組で語られていた。おそらく、この取材もやがて本になるのだと思うが、立花個人の切実さが「臨死体験」ありきの方向になったのかもしれない。番組の後半で、ある科学者に向かいやや性急に尋ねた立花に、その研究者は「科学が明かすのは「どうやって(How)?」であって、「なぜ(Why)?」ではない。Whyに答えうるのは個人の信である」というようなことを答えていた。人は無意識に世界や現実を確信しており、世界は確信として我々にやってくる。その根本的な領域で根本的に「なぜ?」と問うことは、確信を破壊する可能性がある。同時にそれは、あるいは確信を信仰として受け入れたいための衝動かもしれない。死に臨んで、もしその余裕があるのならば、多分僕は「なぜ?」とは問わないだろう。僕のかすかな経験では、そのとき僕自身がすべてを受け入れて、そのままでまったく欠けた感覚のない状態に一瞬にして入れたからだ。「なぜ?」と問うのは、だからまだ生を継続している証拠だろうと思う。

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