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夏目房之介の「で?」

早稲田EX連続講義「手塚治虫の世界」初回の講義レジュメ

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早稲田EXの7回連続講義も、次の土曜で最終回となりました。最終回は、これまでの夏目、岩下朋世、野田謙介、三輪健太朗の講義を受け、質疑と討議を行う予定です。
初回の夏目講義のレジュメを公開します。

2014.7.12 早稲田大学EX中野校 連続講義「手塚治虫の世界 -手塚治虫とマンガ論研究-」

 第一回「手塚治虫をめぐる現在の課題」夏目房之介

1)「マンガの神様・手塚治虫」像の社会的浸透=手塚の「死」

1989(平成元)年2月9日 手塚没(1928(昭和3)年11月大阪生 亨年60歳)【注01】

2月10日付朝日新聞訃報「手塚治虫さん死去」〈『鉄腕アトム』『火の鳥』など日本のストーリー漫画とテレビアニメーションの創始者である漫画家、手塚治虫(てずか[ママ]・おさむ、本名治)氏〉下線引用者以下同 【図1】

〈多くの漫画家に影響を与えたことや、斬新な手法や、テーマの開拓・・・・そのことの根拠はさまざまに語ることができる。けれど、いつも語り尽くされた気がしない。/それは、手塚漫画が、いつまでも乗り越えられない何かを備えていたからだと思う。〉夏目房之介「ジャングル大帝と共に生まれた僕」同年3.10「週刊朝日」「夏目房之介の學問」330講 手塚プロダクション+村上知彦『手塚治虫がいなくなった日』潮出版社 95年p259,262

夏目は後、92年『手塚治虫はどこにいる』95年『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』(共に筑摩書房)、竹熊健太郎らとの共著『マンガの読み方』(宝島社)で「マンガ表現論」を提起。面白半分的批評から本気へ。

〈戦後半世紀近い日本マンガの歩みを振り返ってみると、現在ではわれわれが当然のことと考えているマンガの約束事のほとんどが初期の手塚治虫によって考案され、使用され、そして発展させられていることがわかる。〉四方田犬彦「半世紀にわたる時代のうねりと格闘した“手塚まんが”の地平」89年2.24「アサヒグラフ」 同上p237

 94年『漫画原論』(筑摩書房)で記号論的共時的なマンガ論を展開、「表現論」の一翼とされた。

〈わたしはつねづね彼を、戦後日本でもっとも重要な役割を果たした人物のひとりだと確信していた〉関川夏央「手塚のほかに神はなし」同年4月号「諸君」 同上p243 91年

同追悼文含む『知識的大衆諸君、これもマンガだ』(文芸春秋 91年)上梓。谷口ジローとマンガ共作もある。

以上のような言説がマスコミで広く流通し、手塚の「死」によって「手塚神話」は社会的に広く共有された。

夏目(50年)村上(51年)四方田(53年)関川(49年)と、いずれも戦後ベビーブーマー(竹熊は60年生で第一次おたく世代)。夏目は89年当時39歳、マスコミ発言層に食い込みつつあった。

手塚の死以降、「BSマンガ夜話」放映(NHKBS2 96~09年)などもあり、マンガ批評言説は拡大浸透し、2000年代の学術系マンガ研究につらなる。「手塚神話」は、そこで継承~批判・相対化の時代を迎える。

2)「手塚神話」の成立 「映画的手法」と60年代

 戦前からのマンガ言説(教育論、漫画家の漫画論など)を継承しつつ、戦後「児童漫画」は50年代にバッシングを受け、手塚も矢面に立つ【注02~03】。対して、積極的に「文化」として扱う言説【注04】が60年代に登場(手塚の他、「大人漫画」、海外漫画、また白土三平『忍者武芸帳影丸伝』(59~62貸本漫画)への言及含む)。

 50年代、関西の長者番付「画家」部門で手塚が一位になり、「阪大医学部卒」という肩書も含めて、手塚の名がマスコミに登場してゆく。(「知られざる二百万長者・児童マンガ家手塚治虫という男」「週刊朝日」54年、「二百万長者のマンガ家 手塚治虫」(「図書新聞」同年)など(【注02】『一億人の・・・・』より)。【図2】

評価の中で、手塚マンガ=「映画的手法」による「ストーリーマンガ」の画期性を称揚する「型」が生まれてゆく【注05~06】。『新寶島』(酒井七馬原作 育英社 47年)が「映画的手法」をもたらし、戦後マンガを創造した、という「手塚神話」の「型」は、60年代後半には「COM」などのトキワ荘世代言説【注07】を通じて戦後世代のマンガ青年たち(市場の大きな潜在可能性であった戦後ベビーブーマー)に継承された。時あたかも、戦後子供マンガが市場を急成長させ「若者文化」としての「青年マンガ」を生み、拡大多様化してゆく時代であった。

3)手塚論からマンガ史観の問い直しへ 90~2000年代のマンガ論と手塚

 60年代マンガ論言説の影響を受けた戦後マンガ青年が、70年代より積極的に(最初は同人誌、ミニコミで)発言を始め、運動化し、やがて80年代以降のマンガ批評言説を形成してゆく【注08】。その蓄積と、枠組みを踏まえて「マンガ表現論」も成立したと喝破したのが、言説史的視点から戦後マンガ論を整理した瓜生吉則【注09】であり、その前後から戦後ベビーブーマーのマンガ論言説批判が、後続世代論者から行われる。

 たとえば、村上、米澤らと70年代からマンガ批評を開拓し、77年に修士論文「手塚治虫マンガにおける映画的手法の研究」(大阪教育大学)を提出していた竹内オサムは、夏目、四方田、大塚英志などの論者とともに「マンガ表現論」者とされる。彼は、『新寶島』によって手塚の「映画的手法」が登場し、戦後マンガの表現を変えたという一般的言説に対し、自らの修士論文での『新寶島』のコマによるモンタージュの具体的な検証(戦前の『のらくろ』との比較を含む)により、これを〈同一化技法〉とよび、とりわけ読者の心理的移入の過程を論じ、戦前の『のらくろ』などと比較して手塚の「革新性」を論じてきた【注10】【図3~4】。

 これに対し、伊藤剛は著書『テヅカ イズ デッド』で〈『新宝島』を「起源」とすることと、「映画的であること」が同一視されている〉とし、手塚起源による戦後マンガ史観が、つねに手塚に回帰してしまうことで閉じてしまい、〈「マンガ表現史」を書き得ない〉とした【注11】。伊藤の書は、若手研究者らに影響を与え、以後「手塚神話」相対化がマンガ論言説の一部で盛んになる。竹内の反論など、その経緯は複雑になるので深く触れないが、批判された竹内、夏目などもまた神話相対化を試みた言説であり、伊藤が試みたのはその議論の水準を変えることであったことがうまく伝わらず、その後の議論に混乱をもたらしているようにみえる。

岩下朋世は自身の博士論文を改稿した『少女マンガの表現機構 ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』(NTT出版 2013年)で、手塚が「起源」かどうかが問題なのではなく、手塚マンガを規範化することで、それ以外の作品を逸脱として捉えてしまう可能性が生じることを指摘し、規範化の前提にどんな「マンガ観」があるかを問いつつ、「少女マンガ」の語られ方を論じてゆく。

最近の動向として三輪健太郎『マンガと映画 コマと時間の理論』(NTT出版 2014年 修論改稿)は、そもそも「マンガ」と「映画」という異なるメディアを比較するとき、どんな論理的なレベル設定が必要であるかを論じ、さらに高次の議論の水準を問う理論的作業を展開する。

 これら60~80年代生まれの研究者による相対化議論は、一見世代間闘争のように見えるが、無邪気に「マンガ」を「戦後日本マンガ」とイコールにしてきた戦後ベビーブーマーのマンガ論言説の限界を、より広い見地で眺めざるをえなくなった時代の要請として捉えることができる。それは同時に、マンガ史、マンガ観、マンガの定義問題をひきよせ、手塚論を越えてマンガそのものを問う議論域へと展開する。

4)マンガ史観の組み直し 戦後日本から世界史への転換

 80~90年代マンガ論言説は、日本のマンガ市場がピーク(「ジャンプ」600万部の90年代半ば)を迎え、マンガ受容層が自国製で飽和状態になった時期に対応する。バブル経済へ進む時期(「JAPAN AS NUMBERONE」が喧伝された)の日本文化の見直しと称揚、およびバブル崩壊後の不安と自信喪失の風潮の中で推移していく。

 90年代後半期から海外での日本マンガ、アニメの浸透報道が盛んになり、同時に海外事情をマンガ論に組み込んでゆく必要性が生じる。そこで「マンガ」をあらためて問うとき、じつは世界的な相互関係の中で生じてきた日本マンガから、海外との交流影響関係を排除することで現在までの「マンガ観」が成立してきたことも明らかになってきた。海外を排除した日本マンガ論の偏頗さを指摘したのは、小田切博である【注12】。戦後ベビーブーマーは自らにとっての「マンガ」(戦後、手塚以降の物語マンガ)をこそ「ぼくらのマンガ」としてフォーカス、称揚し、先行世代の世界的な視野や知識をほとんど無意識に排除失念していった。

 また、2000年代に研究の場が次第に学術領域に接してゆくにしたがい、「マンガ」をいかに「定義」するかも問題となり、カリカチュア、カートゥーン、コミックス、BDなどとの比較検討がなされ、定義の不可能性も語られるようになった【注13~14】。ここでは世界史的な視野の導入と、「マンガ」とされた視覚文化ないし物語文化の曖昧な領域の中の何を、何のために語るのかが問われることになる。

 手塚治虫と戦後マンガが、戦後の時代社会の中で戦後ベビーブーマーという大きな世代集団に与えた影響は大きく、そのことが日本のマンガ言説に深く影響している。今、そのことがマンガ史観言説として歴史的に検証され、時間的空間的に拡張した射程の議論に移行しようとしている。いわば、手塚とマンガは世界史に中に置き直されてゆくことになるのかもしれない。

【注01】同年1.7昭和天皇、6.24美空ひばり、12.12田河水泡他 ダリ、松下幸之助、尾上松緑、カラヤン、源田実、松田優作、開高健、ベケットなど没(漫画家では那須良輔、秋好馨も) ベルリンの壁崩壊、天安門事件、消費税スタート、バブル崩壊の直前。「昭和の死」であり東西冷戦時代の終結を迎えた「激動」の年であった。

【注02】〈岡本 私は終戦後子供の長編漫画が急激に賣れ出したということの原因は[略]人間が戦争で痛められすっかり疲労してしまった。子供も同様です。それで今までのように美しい夢のような童話なんかを悠々と味わう氣持の余裕がなくなって、簡便主義で早いところ絵を見れば分かるという、しかも刺激の強い漫画が急に賣れ出したんじゃないだろうか。[略]

本誌 最初の口火は何でしょうか。

沢田 育英出版発行の酒井七馬の新宝島、あれが非常に賣れたんですね。〉49年2.6「週刊朝日」座談会「“浪華赤本”裏から表から」岡本美雄(出版業)沢田一雄(取次店主)の発言(一億人の手塚治虫編集委員編『一億人の手塚治虫』JICC出版 89年 p90)。 酒井七馬、手塚治虫『新寶島』(47(昭和22)年)がやり玉にあがっている。

【注03】 〈[貸本店で]男の子に一ばん人気があるのは手塚治虫の科学冒険漫画である。[略]手塚の漫画だけは、中学男生の鑑賞にもたえるらしい。〉菅忠道「漫画貸本の世界をのぞく」「社会教育」50年(竹内オサム、村上知彦編『漫画批評大系別巻 手塚治虫の宇宙』平凡社 89年 p14~15) 菅は児童文化評論家で、バッシング側にみられがちだが、バランスのとれた立場をとっていた。

【注04】鶴見俊輔、尾崎秀樹、佐藤忠男、石子順造、副田義也、山口昌男などがあげられる。

【注05】〈『鉄腕アトム』の魅力の一つは、視覚的なというより、映画的ということにある。そこにはかつての芝居にとって代った映画が新鮮であったように、紙芝居的漫画を映画的漫画に変化させた苦労がある。〉藤川治水「鉄腕アトム論」「思想の科学」63年10月号(前掲『手塚治虫の宇宙』所収 p25) のち『子ども漫画論 『のらくろ』から『忍者武芸帳』まで』(三一書房67年)改稿再録 著者自身は60年に書いた文章であると追記している。

【注06】〈戦後日本の児童まんがは、世界のまんが史に誇れる発見をした。ストーリーまんがと呼ばれるものの出現である。[略]映画のカッティングが、まんがのコマにおきかえられたとき、まんがのコマは新しいモンタージュを持った。映画、テレビの宿命的な十字架であるフレーム(わく)の限定を、まんがはコマに大小をつけつことによって、あっさりのりこえた。〉峠あかね(真崎守)「コマ画のオリジナルな世界」「COM」68年3月号 p80~81

【注07】〈こんな漫画見たことない。[略]これは確かに紙に印刷された止った漫画なのに、この車はすごいスピードで走っているじゃないか。まるで映画を観ているみたい!!〉藤子不二雄(藤子不二雄A)『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』毎日新聞社 77年 p19 トキワ荘グループには寺田ヒロオ、藤子不二雄、鈴木伸一、森安なおや、石森章太郎、赤塚不二夫、よこたとくお、水野英子、永田竹丸、つのだじろう、長谷邦夫などがいた。同じ1930年代生まれで、貸本マンガ中心に活躍した松本正彦、辰巳ヨシヒロ、さいとうたかお、つげ義春なども手塚の自身への影響を語っている。

【注08】80年代のマンガ批評言説を担ってゆく論者には、呉智英(46年生)、橋本治(48年生)、亀和田武(49年生)、村上知彦(51年生)、竹内オサム(51年生)、米沢嘉博(53年生)、中島梓(53年生)などがいる。

【注09】〈[村上、米澤らの〈わたし〉や〈ぼくら〉の主観を積極的に肯定した「私論」を徹底する批評にとって・引用者註以下同]「マンガ読者」はもはや論者の外部で対象化されることなく、〈わたし〉という絶対的な行為主体に繰り込まれることになる。[中略]村上や米澤らが〈わたし〉という一人の「民衆」の感性に拠って立証した「マンガ表現」の特殊性、あるいは〈わたし〉が繰り込まれた「マンガ読者」の存在を前提にして〈表現論〉は成立する。『マンガの読み方』のような表現技法の百科全書的陳列が可能なのも、「マンガ読者」たる〈わたし〉が複数形で存在している(と〈わたしたち〉が信じている)からなのだ。〉瓜生吉則「マンガを語ることの〈現在〉」(吉見俊也編『メディア・スタディーズ』せりか書房 2000年) p134~135 ただし、鶴見や石子ら先行世代の論者も、マンガの「読者」として「私論」的に語るスタンスをとっており、問題は単純ではない。瓜生の論の焦点は、むしろコミュニケーションの場としてマンガというメディアを捉える石子順造の論と「表現論」を対比することにある。瓜生は71年生、当該論執筆当時東京大学人文社会系研究科博士課程在学中。なお当時同じ東大大学院在籍の宮本大人もまた同世代の研究者で、重要な歴史研究を学術誌中心に発表し、マンガ論に影響力をもつ。

【注10】〈[引用図版を検証し]「人」と「人」、「人」と「物」を、読者の心理体験のなかでクロスオーバーさせ、より密接な関係に演出する働きである。読者は、自らドラマの空間を生きることになる。[略]このような同化と異化の共体験という読みの構造が、ハラハラドキドキしながらもマンガを楽しんだ、当時の子どもたちの共通した『新宝島』体験の内実ではなかったろうか。〉竹内オサム「手塚治虫の映画的手法」(前掲『漫画批評大系3 描く・読む・売る』89年所収) p59~60 他に夏目が『手塚治虫はどこにいる』で引用参照した『手塚治虫論』(平凡社 92年)、『漫画表現学入門』(筑摩書房 05年)など多くの著書、編著がある。

【注11】〈手塚を中心とした表現史が、多くのマンガ家たちに――程度の差こそあれ――意識されてきたことは、ある水準ではこの「表現史」を「事実」たらしめている。その程度には強力なものだ。しかしそれは、このモデルでは記述できない余剰があること、とりわけ手塚の死後、あたかも「マンガの歴史」までもが終わったかのように「見えている」という現実の前に、その限界を見せている〉伊藤剛『テヅカ イズ デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版 2005年 本文引用p166 注引用p256 

【注12】〈翻訳の有無やその流通量の多寡以前に「日本のマンガ以外のことは自分たちには無関係なものである」という態度が現在の日本におけるマンガを巡る言説の実態〉〈問題はなぜ石子、鶴見らの時点では存在していた「外国マンガ」に対する視座が現在では失われてしまっているのか、という点にある〉〈[竹内、夏目らの評価軸は]幼少期から手塚治虫以降の戦後マンガを読んで育った第二次大戦後のベビーブーマー以降に生まれた論者たちが抱く石子らの持つ「古いマンガ観」への反発に由来するものではないか〉小田切博「「マンガ」という自明性 ――ガラパゴス島に棲む日本のマンガ言説」ジャクリーヌ・ベルント、国際マンガ研究センター編『世界のコミックスとコミックスの世界』京都精華大学国際マンガ研究センター 2010年 p59,60,62 小田切は〈外国マンガ〉とともに、〈おとなまんが〉もまた排除されていると指摘する。

【注13】〈まんがの歴史を検討しようとする時に第一に問題となるのは、現代において「まんが」という語が指し示す対象が広いため、調査や議論が拡散しがちな点である。仮に「まんが」という語を「自由な絵画表現」ととらえるならば、その検討範囲は美術史の守備範囲に匹敵するか、それを超える規模に拡がる可能性がある。/そもそも「まんが」という語の意味は、時代や地域によって大きく異なる。「まんがとは何か」という問いは、普遍的な形式の定義としてではなく、歴史的事実として答えられるべきである。〉佐々木果(ササキバラ・ゴウ)「「コマ割りまんが」はどこから来たか -ホガース、テプフェールの出現と、その背景としての近代ヨーロッパ文化史」ナラティブ・メディア研究会「ナラティブ・メディア研究」第2号 東北大学 2010年 p89

【注14】〈いまのわたしたちは、「マンガ」という言葉で、定義可能な確定した領域が指し示されているかのように、漠然と考えがちである。[略]しかし、これまで確認してきたとおり、「マンガ」という言葉は複数の共同体と関係していた。[略]わたしたちはこの「マンガ」という語を、起源と定義から語るのではなく、その語彙にまつわる歴史の痕跡をひとつひとつ認識し、共同体と場の思考からはじめるべきだろう。〉野田謙介「とあるMの定義と起源」「ユリイカ」2013年3月臨時増刊「世界マンガ大系」 p191

【図1】朝日新聞訃報89年2月10日 まんが資料センター編『手塚治虫の軌跡』まんが資料センター 92年 p157

【図2】「図書新聞」54年5月22日「二百万長者のマンガ家 手塚治虫」 前掲『一億人の・・・・』 p150

【図3】前掲『漫画批評大系3』 p57

【図4】前掲竹内『手塚治虫論』 p240 〈めりこめ〉〈めりこんだア〉など、動作の言葉と行為の場面が一致し、絵が言葉の解説になっている様式を戦前の一般的表現とし、手塚『新寶島』の絵と文字のズレに注目する。

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