『マンガを「見る」という体験』読書中
『マンガを「見る」という体験 フレーム、キャラクター、モダン・アート』(水声社 2014.7.20刊 2800円+税)を読み始めた。まだようやく半分しか読んでいないのだが、非常に刺激的で面白い。この本は、2013年後半期に早稲田大学戸山キャンパスで三回にわたって行われた「マンガ的視覚体験をめぐってーーフレーム、フィギュール、シュルレアリスムーー」というワークショップでの発表をもとに各発表者によって書き下ろされた論文集である。僕も一度見に行ったのだが、言葉の共有、問題意識の擦り合わせというのは、美術とマンガの間でもなかなかに難しいものだな、という印象をもってしまった。いや、もっと率直にいえば幻惑的な言葉遣いに辟易しさえした。しかし、この本でまとめられた論文を読むと、マンガ表現論が招来するはずだったろう原理的な問題が真摯に語られていて、まことに興奮させられた。
まず鈴木雅雄「瞬間は存在しないーーマンガ的時間への問い」は、マンガを読むことの実感に即しつつ、そこに生起する「時間」の感触をとらえて、じつに興味深く読ませた。マンガの中に「瞬間」を見るのは、じつは動いてしまう「描かれたもの」を、むしろ止めるべく手段を発明せねばならないからだ、という指摘は、「瞬間」としてとらえられがちなマンガのコマをとらえる別の視角をもたらしてくれた。
「コマのなかに、複数の人物や事物、風景が描かれているなら、それぞれはすでにそれ自身の固有の時間を生きている。描かれたものは動いてしまうのであり、だからこそ私たちはその時間に働きかけて、複雑な時間の交錯を生み出すことができるのである。」(同書 p67)
この指摘は、僕の中でもマンガの実感として妥当なように感じられた。レイアー構造として少女マンガ的なコマの様態を見いだした僕の感受も、ある意味ではこの要約に近いものを感じてのことだったと思える。
また、鈴木の発表を受ける形で、野田謙介が書いた「マンガにおけるフレームの複数性と同時性についてーーコマと時間をめぐる試論(一)」は、僕にはさらに刺激的だった。グルンステンの訳者であり、幅広い知見を持つ野田は、すでに海外のマンガ論と日本のそれをめぐる諸問題について見渡そうとする小論をいくつか発表しているが、ここでようやく本格的にそれらを「マンガの時間論」という角度で展開し始めている。その論旨に興味のある人は、不正確な要約を読むより、直接この本を読んでほしいが、一言引用するなら「ひとつのコマは、そのなかに複数の潜在的なコマを、あるいはいくつもの種類の時間を同居させうる舞台のようなものだ」(同書 p96)という問題意識で貫かれる。
日本のマンガ論で「コマ」と呼ばれる領域には、厳密にはフレームだけではなく、様々な水準の「時間のまとまり」が潜在し、それを原理的に言語化していかなければ、われわれの「マンガ」という体験をときほぐせないという問題意識である。切れ味のいい論理展開で、分析用語のもつ抽象性や妥当性、具体性や曖昧さ、その限界を切り分け、グルンステン、マクラウド、日本のマンガ論を縦横に手繰りつつ、「マンガ」と(とりあえず)呼ばれる体験の原理に向かおうとしている。
僕が、まずは具体的に描くことができ、目に見えるものとしてマンガ表現の三要素をあげたとき、「絵」「言葉」と併置して「コマ」と呼んだ領域は、いったん「目に見えない」領域の問題に入った途端、手に負えない複雑な様相を見せるように感じられた。だからこそ、それ以降の原理的な追求を当時やめたのだが、野田はそこに切り込もうとしている。『マンガの読み方』(驚いたことにすでに19年前の共著なのだった!)を書いた頃、ぼんやりと感じていた多くの問題やその領域が、野田の手で形をとっていくような感覚にとらわれた。
これが僕の感想で、だからこそまだ全部読んでいない本について、現在の興奮のままに記しておきたいと思ったのである。野田の小論タイトル末尾にある「(一)」の文字を期待をもって確認しておこう。研究者仲間に(むろん愛情をこめて)「眠れる獅子」的なイメージで語られる野田の、ようやく片目が開いたのかもしれないのだから。