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夏目房之介の「で?」

『アメトークSP』録画観た

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 録画しておいた『アメトークSP』を観た。
 最初のほうはとれなくて、いきなり「運動神経悪い芸人対ガリガリ芸人」だった。
 いやあ、久しぶりに腹からげらげら笑ってしまった。「運動神経悪い芸人」って、何であんなに面白いんだろう。本人たちには申し訳ないけど、体の使い方がぎくしゃくするってだけで、なぜかむちゃくちゃ可笑しいんだよね。何というか、ある程度運動に慣れた身体をもった人なら、ありえない体の使い方をするので、そこに優越の笑いのようなものがあるとはいえる。でも、それだけではない。自分じゃ、どうやっても、この動きの面白さは出せない、再現できない、という気持ちもあるし、僕の場合は、かつて自分は運動音痴で運動神経がないと思っていたので、どこかで理解もできている。それも面白さに加わっている。

 僕は、若い頃は、それほど運動が得手ではないし、どちらかといえば音痴だと思って生きていた。実際、テニス部にいたが、成績はまったくだった。その理由のほとんどは、上がり症で体が動かないことと、精神的にすぐ諦めて弱気になるからだったろうが、じつは練習はけっこうできていた。つまり実戦に弱かったのだ。とはいえ、運動神経がある、というよりは、ないほうだろうと思っていた。
 この考えが変わったのは、40歳になって太極拳を始めてからだった。太極拳をおぼえ、内的な感覚と、身体各部の関係、さらに視線による向きや、呼吸と動き、スタンスと動作の関係、意識と身体の関係の妙など、内的な身体意識をおぼえてから、悟った。要するに、僕は体の使い方を知らなかったのだ、と。これは「教育」の問題で、学校などでのスポーツ教育では、僕にとっていちばん肝心な点がわからなかったのだ。そこを論理的に説明され、身体で繰り返せば、ある程度までは必ずいけるのだ、という自信がついた。そうすると、正しく教わって、理解して、反復練習すれば、たいていのことはできる、と思えるようになった。
 なので、それ以降、水泳やボクササイズを習っても、たしかに習得に時間はかかるが、自分で理解できれば必ず動きが再現できる自信はできた。
 おそらく、芸人たちも、僕と同じような鍛錬をすれば、できるようになる。もちろん、そうすると芸人としては売れ筋を失うことになるから、できないだろうけど。したがって、現場では危険を避ける以外の教え方をしていないはずだ。が、見ていて、僕ならこう教えれば多分できる、という筋道も何となくわかる。たとえば、超絶的な動きをみせる「ヒザ神」と呼ばれる芸人は、体が硬直して肩を中心に上に緊張が集まってしまうので、体を緩めて動く練習を考えるべきだろう。なので、こういう番組で大声で笑いながらも、つい身体って面白いなあ、と思ってしまう。
 人は、ふつう日常的に慣れた動きは見ても反応しないが、ちょっと不思議な動きを見ると、そこに違和を感じ、警戒する。八卦掌の動きも、しばしば日常的ではないので、注目を集める。正直なのは、子どもと犬である。子どもたちは、まず注目し、笑い、そしてマネする。
 多分、そこに働く機制と同じものが「運動神経ない芸人」の「笑い」につながっている。彼らの動きは、逆に鍛錬されたものでないからこそ、可笑しいのだが、日常では見ない動きであることも確かだ。水泳のターンで、上に足を蹴り上げてしまうのも、実際水泳を40代後半で習ったときに、水の中で方向がわからなくなる感覚はわかったので、それもあって可笑しいのだ。
 運動にとって、方向の感覚、すなわち空間認知はとても重要である。八卦掌もそうで、自分が円周のどこにいて、どこに向かっているかが認知できないと、練習は進まない。日常的な動きでも、同様だ。だからこそ、空間を意識しての歩法、ステップやスタンスの反復練習が大切なのだ。
 もっとも、僕が運動苦手意識を克服できた、いちばんの理由は、トシをとったことだった。若くないのだから、人よりおぼえるのが遅い、という意識が、「できない」ということからくるプライドの意識を低減してくれたのだ。じつは、プライドを捨てて練習することが、僕にとってはもっとも重要な要素であったと思う。その点では、芸人たちのうが、はるかに上かもしれない。
 こういうのって、自然に運動ができちゃう人には、あまりわからないことかもしれないな。

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