宮崎駿『風の谷のナウシカ』マンガ版と「読みにくさ」
学習院身体表象の担当ゼミ(批評研究)で、以下のようなレジュメの発表を行いました。
2013.10.2-9 マンガ・アニメーション芸術批評研究(3限)
宮崎駿『風の谷のナウシカ』マンガ版と「読みにくさ」 夏目房之介
※以下のメモは、今秋提出の当専攻博士課程後期・砂澤雄一の『風の谷のナウシカ』についての博士論文に触発されたものである。
1)『ナウシカ』マンガ版は読みにくいのか?
阿部幸広「究極の、そして最も幸福なアマチュア-マンガ家としての宮崎駿」(「ユリイカ 臨時増刊 宮崎駿の世界」青土社 1997年)をはじめ、『ナウシカ』マンガ版を「読みにくい」とする意見が複数ある。夏目自身は、違和感は多少あるが、それほど読みにくいとは感じていなかったので、少し意外であった。直観的には、宮崎のマンガ観が50年代の読書体験によって形成され、古典的な表現形式を踏襲しているために、現在のマンガ形式になじんだ読者には「読みにくい」のではないかと思われた。しかし、問題がそう単純であるとも思えない。
一方で、宮崎自身も「読みにくさ」を自認し、あえてそのように描いていると主張している。
〈自分は職業人として漫画を描いているのではないのだから、読みにくく描こう。ソバを食べながらは、絶対に読めない漫画を描こう、という目標を立ててやりはじめたものですから、途中で読みやすくなったとなると愕然として。コマ割りの数が減っているなとか、1ページが8コマになっているから、11コマにするとか。それで読みにくくしてね。本にする時、コマやページを足すとか、馬鹿なことをやっているんです。〉
「メタファーとしての地球環境」季刊「iichiko」№33-34 (日本ベリエールアートセンター 19941.10-1995.1) 宮崎駿「出発点 1997-1995」(徳間書店 1996)所収 p550
しかし、宮崎自身の言もまた、そのまま鵜呑みにはできない。そこで、表現形式としてやや違和感のあるところをいくつか指摘し、「読みにくさ」「読みやすさ」とは何かという問題のヒントを探ってみたい。
宮崎駿『風の谷のナウシカ』マンガ版 「アニメージュ」(徳間書店) 1982~1994年連載
単行本 1巻 82年9/25刊 (徳間書店)
2巻 83年8/25刊
84年 劇場アニメ版公開
3巻 85年1/20刊
4巻 87年5/ 1刊
5巻 91年6/30刊
6巻 93年12/20刊
7巻 95年1/15刊
2)マンガ版『ナウシカ』の「読みにくさ」とは?
①コマの多さ 頁単位のコマの多さはつとに指摘され、それが現在の読者に「読みにくい」のは予想される。コマの多さは、戦後50年代の雑誌マンガや絵物語で見られるが、『ナウシカ』の場合、50年代に比してコマの構成が複雑で大きさの差があり、必ずしも4段組の規則的な枠になっていない点で(もっとも絵物語の構成は実際は多様で複雑ですらあったが)、連載当時としても普通のものであったかどうか疑わしい。むしろ、定型的な4段組を、現代的なコマの揺れ動きを導入することで複雑化しているように見える。とすれば、古典的な形式をたんに踏襲したわけではなく、改変して、宮崎風の修辞法にしているとみなせる。
②図1 1巻p121 絵の問題 背景と人物の描線に差がなく、読者が主に視線を向かわせる主体がわかりにくい
→ この問題は、単行本巻数を追うごとに減少するように見える。たとえば、図2(5巻p143)のように、次第に大きなコマも使うようになり、むしろ「読みやすく」なっている。
③図3 2巻p52 構図と空間認識の問題 クシャナ軍のいる場所に着陸し離陸するガンシップと、クシャナ軍の飛行艇、ナウシカそれぞれの位置関係が曖昧で、各コマで描かれる空間のアングルが各々の配置を連想できるつながりになっていない。とくにガンシップが右→左に着陸し(頁4段目左コマ)、飛行艇の背後が描かれ(頁5段 目右コマ)、反転したかのように左→右方向に描かれたガンシップに向かって銃を向けるトルメキア兵(同上左コマ)の位置関係が混乱する。読者のリテラシー の質にもよるが、少なくとも現代の青年マンガと比して「空間配置と動作の関係がわかりにくい」とは感じるだろう。 →この問題も、巻を追うと感じなくな る。
④図4 2巻p107 形喩記号の見えにくさ コマが小さいうえに、地下への入り口が閉じた際の形喩記号が、あまり目立たない。これも、一見マンガを描き慣れない宮崎の「読みにくさ」に見える。が、一 方で同時期の士郎正宗作品などにも同様の「読みにくさ」が意図的に仕組まれていた。この問題も、『ナウシカ』を読むに従い、その修辞に慣れると、読者は即 座に反応し、注意して読むようになり、さほど問題とはならないと思われる。ただ、宮崎は『ナウシカ』において、マンガ的な記号表現をあまり多用していな い。
3)コマの構成と読み順について
⑤図5~10コマの問題 「読みにくさ」にとって大きな問題となるだろうコマの構成に関することでいうと、縦横方向の読み順の法則に関することが目につく。
図5 1巻p27 右側2コマを縦に読み、左側3コマに移る構成だが、現在の一般的な「読み」の法則では、しばしば上段を横に読み、下段に移るべきかどうか迷うように感じる。その理由としては、おそらくA)上段右コマから左コマに向かって、視線がやや下方に落ちるような小→大コマになっていること、B)右コマのユパの目線が左を向いていること、C)セリフの位置関係から左方向に関連づけられやすく見えることがあげられる。※ゼミ参加学生(学部生含む)の半分以上が左方向に読んでしまうと挙手した。
図6 3巻p79 この場合も右側コマ縦読みか、横読みか、一見迷うが、セリフ内容で判断される。どうやら宮崎は、コマ枠をズラせば縦読み、という法則にしたがっているように見える。
図7 4巻p89 この場合、上段右コマより左コマが小さいが、両コマの上縁が一直線なので、横にすべりやすい。が、セリフ内容からして縦読みになる。どうやら、宮崎はこうしたコマ配置を4~5コ マの単位で、頁内半分ほどに区切って構成しているようだ。こうしたコマの構成は、初期手塚にも見られる。コマの独立性が高く、その後、切り張りして再構成 しやすい。月刊誌時代には、本誌、付録でページの大きさが異なり、当然コマの段組みも違ったので、単行本化の際に揃えるため再構成した。また、そのためコ マ、ページ単位の独立性が高いことが必要で、見開き単位で左右ページの固定性が高いと調整が難しかった(のちに単行本でも左右ページが狂わないような編集 に変化する)。
図8 5巻p17 右側3コマ縦読みののち、左3コ マを読む。セリフ内容というより、前からの流れ(皇弟の苦悶から皇兄の問いかけへの流れ)で判断できる。こうした読み順にする場合、読者視線の運びをセリ フの位置関係、人物の目線など、いくつかのポイントで読み順を導く必要があるが、そうした工夫はされていないように見える。ただ、5巻になると、すでに宮 崎の法則に慣れてきており、さほど困難を感じない。
図9 6巻p46~47 2頁にわたって下段で同様のコマ構成が見られる。1コマ目の画面主体が中立的な正面図であることと、左右複数コマの区分けが明瞭なので、比較的スムーズに縦読みができるように感じる。が、宮崎法則への慣れの要素が大きいかもしれない。
図10 7巻p173 2~3段目の4コマが同様の縦読みであり、下段4コマが横読み。コマ間白のズレが縦横読みの指標であることがわかる。縦読み部分の右2コマでは、主体となる人物目線が、虫使いの右とナウシカの正面で、比較的スムーズに縦読みに誘われる。宮崎なりに、縦読み構成の書記法がこなれてきているように見える。
これらの縦読みコマは、必ず4~6コマのひとまとまりとして構成され、なぜかほとんどが左ページ下段にあらわれる。理由は不明。
4)縦読み、横読みの前史
もともと、日本・中国の文字は縦読みが主であり、欧米をはじめ多くの文字文化は横読みが主である。日本の場合、明治以降、縦読みに横読みが混淆するが、それ以前から縦横の読み方向は比較的柔軟に変換可能であったように思える。
漫画もまた、定型的なコマ形式を、新聞・雑誌・ 単行本各々の紙面に合わせて構成し、両立的に成り立たせてきた。小さめの赤本ポンチでは、紙面そのものが小さく横向きなので、横読みが多く、新聞・雑誌の 場合、紙面の都合に合わせて縦読みの構成を行っている。縦横が同在する紙面もありうる(例『上等ポンチ』誌復刻版)。新聞のコマ漫画でも、連載中に縦横が 変換する例が見られる(麻生豊『ノンキナトウサン』など)。とくに、大正期頃から欧米の新聞コマ漫画の影響が顕著になると、両者の区分が明瞭になるように 思えるが、いずれも非常に定型的な方形コマの構成が多いため、それほど混乱はしない。
また児童向けコマ漫画の、比較的長い説話形式が増えると、縦横読みの作品内での変換も、それ以外に読みようのないコマ構成で行われる(田河水泡『のらくろ』、大城のぼるなど)。
児童マンガの頁数、コマ数が増加し始める戦後、コマの構成と読み順について試行錯誤した手塚は、やはりズレを使って横読み主体に近づけてゆく。
図11 手塚治虫『来るべき世界 前篇』(不二書房 51年 名著刊行会復刻版)p140
上段下段で少しコマのズレを作っているものの、当時の習慣では縦読みになってしまう可能性があると判断したためか、矢印で読み順を指示している。コマ番号はない。
図12 同上p118 一方で、定型コマで頁を6等分した構成では、おそらく当時の習慣にしたがって縦読みにしているが、ここでも矢印で指示している。コマの読み順の習慣が不安定であったことを意味する。
図13 同上p124 ここでは矢印なしで、4コマ分の同形コマを横読みにしている。こちらが作品内でスタンダードであった。
図14 手塚治虫『ロック冒険記』「少年クラブ版」※ノンブルなし(「少年クラブ」52~54年連載 手塚治虫ファンクラブ・京都 連載復刻版 96年)連載6回 「少年クラブ」52年12月号 コマ番号186~190
右側3コマ縦読み、左側2コマ縦読み。コマのズレが大きく、左右で同形コマを反復させ、読み順に混乱しないように工夫されている。
図15 手塚治虫『ロック冒険記』角川文庫版 94年 p104~105
が、現在の版では、この前後の話を入れ替え、完全に異なるコマ構成にしている。図14の読み順が、現在では「読みにくい」と判断しての入れ替えかどうかは不明だが、少なくとも前者の縦読みは消滅した。
図16 永松健夫『黄金バット』(「冒険活劇文庫」50年1月号) p33
ほぼ同時期、かなり縦横なコマ構成(?)を実現 していた絵物語の中で、この場合は、ごく自然に縦読みが行われている。理由は簡単で、文字組みを読む順が先に決定され、文字群と対になっている絵を辿れ ば、縦読みになる。宮崎は世代的にも絵物語形式に親しんでおり、実際にいくつかの作品は、それに近い形式で描いている。絵物語が、紙面をまずいくつかに分 割し、それぞれに文字と絵を対にしてはめ込む形式が多いとすれば、宮崎の紙面構成には、その影響があるのかもしれない。その妥当性の範囲によっては、彼の 表現形式には古典的な法則が貫かれているといえるかもしれない。が、より詳細な検証が必要だろう。
絵物語の例 『沙漠の魔王』(復刻版2,4巻)49~56年 「少年少女冒険王」 アメコミの影響が強く、円形の間白や現在の読み方向としてはイレギュラーに見える構成が多い(矢印指示も多い)が、横読みが基本。コ マ番号あり。絵物語は通常文字部分の割合が大きく、読み方向も文字中心に決められるが、『沙漠の魔王』は初期から次第にコミック形式に移行し、現在なら 「マンガ」と呼ぶしかない構成になっていく。
個人的経験でいうと、週刊朝日にマンガと文章の連載を開始した70年代後半期には、文字群が上部、マンガ・イラストが下部で、一般に「文字→絵」への読み順で考えられていた。絵物語と同様の読みの習慣であった。これが80年 代には、絵が上部、文字が下部に移行し、若い読者はむしろ絵を先に読み、文字をあとから読む習慣であったことを実感していた。「文字と絵」の読み順(文字 優位か絵優位か)と、マンガの読み習慣の変化も関係しているのではないか。縦横読みの変換が、その習慣の変化とリンクしているかどうかは不明だが。
5)現在のマンガにおける縦読み
図17 よしながふみ『愛すべき娘たち』(「メロディ」02~03年連載 白泉社JET COMICS 03年刊) p27,87
よしながの作品では、しばしば縦読みが登場する。多くの場合、宮崎同様に左ページの紙面下部にひとまとまりのコマ群として構成され、コマ枠のズレや多種の 視覚要素によって、自然に縦読みするように描かれている。この形式が、いつ頃から、どんなジャンルのマンガで普通に使われるようになったのか不明だが、宮 崎だけが特殊な読み方であったのかどうか、厳密に検証してみないとわからない。ただ、よしながの作品の縦読みは、少なくともさほど「読みにくさ」としてマ ンガ読者に認識はされていないように思われる。
6)再び『ナウシカ』マンガ版の「読みにくさ」とは?
このように見てくると、『ナウシカ』の「読みにくさ」は、一見古典的なマンガの「読み」形式に依拠したためのように思えたが、じつは複雑な様相を呈してくる。
まず、宮崎が連載当時現在のマンガ表現に慣れておらず、独特な修辞法を確立していったため、「読みにくさ」が生じた可能性については、ある程度予想できるといえる。そこに、50年代のマンガ形式の影響を見ることも可能だと思われる。
しかし、『ナウシカ』が、コマの多さ、コマや頁の独立性の高さ(砂澤は、音喩のレイアーがけっしてコマ枠の手前に来ないことを指摘している)、縦読みの多 用などによって、現代マンガの中では独特な位置を占めるだろうことはいえても、その形式がそのまま「読みにくさ」を生じているとはいいにくい。また、古典 的な「読み」のゆえに「読みにくい」とも即断できない。
「読みにくさ」は、おもに視線誘導のための工夫が、商業マンガ全般で行われているほどはなされておらず、それぞれのコマ内で完結した画面を想定しているこ とにかかわるようにも思える。セリフ位置や人物目線の問題は、そうした問題にかかわる。各コマを頁単位の構成から関連付け、とくに見開き単位で構成的に見 る観点、とりわけ、その観点からセリフ、音喩、人物の配置、空間の関連を図像化する配慮において、一般の青年マンガなどと比較すると、かなり「読みにく い」構造になってはいる。何よりも、一般の青年マンガと比べ、読む所要時間において、かなり長い時間を要するように感じる。
しかし、では『ナウシカ』を「読みやすい」と感じる場面はないのだろうか。宮崎の修辞法に慣れてゆくと、それはそれで「読みやすく」感じることはないだろうか。むろん、これは読者諸個人の習いにもよるし、個人差の大きい問題なので、実証的に確定することは難しいだろう。
論理的な対比でいえば、この作品がそれなりに多くの読者を獲得し、論じられている現状から、少なくともその主題や物語構成について、ひどく「読みにくく」理解されないものだとはいえない。
『ナウシカ』では、登場人物の像は、それぞれ明瞭に区別され対比されており、人物に沿って物語を追うことに、とりたてて困難は感じないのではないか。主題 の難解さは置くとしても、物語の経緯そのものは、大きな誤差なく受容されるように思われる。その意味では、例えば士郎正宗や『ファイブスターストーリー ズ』などの作品のほうが「読みにくい」と感じる読者を想定することに、さほど困難はないように思える。
では、「読みにくさ」とは、どのレベルに存在したのか。
7)「読みにくさ」の場所
もし、『ナウシカ』の「物語」が「読みにくく」なく、むしろ「わかりやすい」(=読みやすい)のだとすれば、「読みにくさ」と「読みやすさ」は両立する。このことは、たとえば『ナニワ金融道』や『進撃の巨人』などにも、当てはまるかもしれない。
けして、マンガ作法的に「うまい」とは思えない作品でも、マンガが「面白い」と感じる経験を、我々は複数もっているはずだ。そこでは、多くの場合、マンガ の物理的で目に見える要素、絵、文字、コマの構成=形式だけでは十全に説明できない、目に見えない、人物の存在感やストーリーの文脈的な「読み」が「わか りやすさ」を保証しているように思える。
逆にいえば、我々の「読み」の中には、その都度展開し、脳内で構成される人物の同一性や「物語」文脈から、各々の頁やコマを了解してゆくレベルが想定される。グルンステンのいう〈分散的なネットワークという組織形式〉(ティエリ・グルンステン『マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか』青土社 p276)は、この往還を含めていわれているように見える。
8)結論
もとより、「読みにくい」という主観的直観的な言述は、それ自体を客観検証性の高い現象として扱い難い。
その現象をもし、検証性のある議論にしようと試みるならば、まず具体的な検証性のある領域に還元しなければならない。ここでは、個人的な印象にしたがっ て、まず目に見えるマンガの表現形式をたどって、「読みにくさ」を検証することを試みた。しかし、「読みにくさ」と対立する「読みやすさ」あるいは「わか りやすさ」が、場合によって両立するのであれば、論理的にいって、そこにレベル設定の混乱がありうる。
以上の(きわめて大雑把で恣意的であることを免れないものの)検討から、「読みにくさ」「読みやすさ」が、おもに表現形式にかかわるレベルと、人物造形や 物語など文脈的なレベルにかかわるレベルにわかれることが、とりあえず仮定される。もちろん、この仮定の前提がそもそも誤っている可能性もある。
マンガの「読み」を考えるとき、そこには表現形式上の問題レベルと、物語文脈的なレベルがあり、その相関の中で「読みやすさ」「読みにくさ」が検討されるべきだろう、というのが、一応の仮説的結論となる。
しかし、本当の結論は、むしろこうした(一見語りやすそうな)問題が、じつはきわめて錯綜した問題系を引き寄せ、膨大な具体例の集積と比較検証を得なけれ ば、何ひとつ確定できないという、問題の困難さを示すことであった。そこで、問題を語る言葉や、その属するレベルを変え、検証可能性を高めることが必要に なる。
本メモの構成
問題設定 「読みにくさ」とは何か? → 具体例検証分析 → 反問 → 整理 → 結論