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夏目房之介の「で?」

シンポジウム「マンガのアルケオロジー」終了

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 シンポ、100人を越える人が来てくれました。そんなに来るとは思っておらず、レジュメが不足して途中で増刷を2度行うなど、最初はどたばたしてご迷惑をおかけしました。プロジェクターの作動がうまくいかないなど、開始からしばらくはもたつき、少し押してしまいましたが、何とか討議、質疑を含め15分超過で収めることができました。来られた方々、パネラーのみなさん、スタッフの諸君にお詫びとお礼を申し上げます。
山本さんの問題意識と、我々のそれをうまく議論としてつなげたかといえば、正直、予想通り難しかったです。が、こうした試みは必要であるという問題意識は共有できたと思います。これまでのシンポよりは、議論が少しできたかもしれません。

ともあれ、僕の発表レジュメを例によって公開します。ただ、実際の発表はこのレジュメとは相当異なる内容になってしまいました。マンガ論言説の整理の部分は、ほとんど反映していません。その部分は、じつはレジュメ作成過程で止まらなくなって、もったいなので残したようなものですが、何らかの参考になるかと思います。
以下、レジュメの内容です。

2013.10.12  シンポジウム「マンガのアルケオロジー -視覚的な物語文化の系譜」(学習院大学)

マンガ史再考のために 夏目房之介(学習院大学大学院 身体表象文化学専攻 教授)

 1)マンガ史はどのように語られてきたか

 明治期に「漫画」という言葉で呼ばれるようになった対象領域は、戯画、似顔、諷刺画、連続コマなど、広く曖昧であり、その後も滑稽な絵、複数コマの説話形式、漫画映画など、じつは多岐にわたる範囲を時代ごとに束ねてきた。「漫画史」像もまたそのつど、海外の美術、歴史を包含しつつ、姿を変えている。戦後になって、知識人によって国内外の広範囲な「漫画史」が語られたが、1970年をさかいに戦後世代読者が言説を編成するにしたがい、断絶が生じる。「戦後漫画」とくに「ストーリーマンガ」こそが「マンガ」であり、歴史の射程は手塚治虫を起点とする「戦後」に限られてゆく。この限界を批判相対化しようとする流れが、おもに2000年代以降のマンガ研究に起こる。マンガとは何かを巡って、あらためて歴史的な検証が必要とされる。

 ○明治期 「漫画」という言葉の再利用 ポンチから漫画へ 

江戸期草双紙などの伝統をひく「ポンチ」から、明治期美術教育(画家としての漫画家の誕生)、絵画および文学の近代的純粋芸術概念の成立を背景に「美術の下位概念」および「カリカチュア」の訳語としての「漫画」の成立 →資料①

 ○大正~昭和期 曖昧で多様な「漫画史」像の定着 

 
「西洋」「東洋」「日本」各「美術史」の成立に相応する「漫画史」 絵の質、滑稽さによる「漫画」定義

『鳥獣人物戯画』を祖とするような「漫画史」像 世界同時的な新聞連載漫画などの影響

→ 須山計一、清水勲など

 ○戦後 知識人による漫画史論

 1950~60年代、当時の知識人によるマンガ言説 古代~江戸期~明治~昭和前期~戦後を貫く「漫画」史観 

「大人漫画」と「子供漫画」の二項概念 歴史と世界への時空的広がりの中での「戦後漫画」観 →資料②

 ○1960年代 手塚治虫の「映画的手法」による「戦後ストーリーマンガ」成立の言説

 後半期、「コマ」の発見、石子「マンガ表現構造論」→「マンガ表現論」へ →資料③

 ○1970年代後半期「マンガ世代」論者の登場と「おとな漫画」「海外漫画」排除~「戦後マンガ」史観→資料④

 ○1980年代 マンガ市場拡大に伴うマンガ言説の前面化 「マンガ世代」論者の「戦後マンガ」史観の普及

 呉智英、米沢嘉博、竹内オサム、村上知彦など →資料⑤

 ○1989年 手塚治虫逝去

 ○1990年代 「マンガ表現論」の前景化 「手塚起源」「マンガ戦後」史観の継承と普及 →資料⑥

 

2)現在のマンガ研究の課題

現在、日本のマンガ研究は、時間(歴史)・空間(世界)の広がりの中で「マン ガ」概念を相対化しつつある。研究の場が、次第に学術的な場へと広がり、同時に海外との交流が進み、研究の枠組み自体が問われることとなった。「マンガ」 をただマンガそれ自体として扱うのではなく、近接領域との関係を同時に見据えながら、より大きな視野で「マンガ」的なるものを捉えていく方向へと進みつつ ある。

現在のマンガ論・研究の尖端では、マンガ論言説の言説史的整理と概念の検討、 歴史的視野の拡大、国際的視野の導入などが同時進行的に進み、これまでの「戦後マンガ史観」および「手塚起源史観」の再構築が課題となっている。マンガ研 究系の博士論文(およびその単行本化)などでも、しばしば相当量を割いて「マンガ」概念の定義問題、言説整理が行われている。 定義について →資料⑦

 ○2000年代以降

A)マンガ論言説の再検討と「手塚起源」「戦後マンガ」史観の相対化

瓜生吉則の言説史整理と宮本大人の歴史的視座(幕末明治、戦前~戦後の連続性) 伊藤剛の「手塚起源史観」批判 おもに市井で進んだマンガ論言説の学術的再検討 日本近代史規模での「漫画」の再検討 

→歴史視野の拡大と歴史的連続性/非連続性の検証へ 社会学的視野の導入 →資料⑧⑨

B)海外マンガおよび言説の流入と相対化 学術的場への研究領域拡大と再検討 →資料⑩

 3)問題提起 「コマ」を巡るいくつかの例

 日本のマンガ批評研究では、「コマ」とは何かが中心的な課題のひとつとなってきた。そもそも「コマ」と一言でくくるには、あまりに曖昧で多義的な領域なのだが、ここでは討議の叩き台として、いくつかの図版を用意し、問題を提起してみたいと思う。

 1 『信貴山縁起絵巻』「尼公の巻」 12世紀? 泉武夫『躍動する絵に舌を巻く 信貴山縁起絵巻』小学館 2004年 p117,120

 山本陽子は、若杉準治の指摘を引いて「部屋を区切る」ことで時間推移を「異時同図」的に表現する手法を同図により紹介している(後出『絵巻物の図像学』p283)。同様の手法は、「異時同図」的な表現ではないが『源氏物語絵巻』や黄表紙にも見られる。説話の時間分節を、建築物などの輪郭線で視線を誘って行う手法は、古来見られるといえる。とりあえずこれらを「コマ的なるもの」と呼んでおく。

 2 平瀬輔世『天狗通』 安永81779)年 「山本慶一奇術コレクション その2」国立演芸場・演芸資料展示室パンフレット 2000

 江戸期の手品(手妻)入門書。直線でコマを囲み、時間分節を行っている。この 時点で、コマによる時間分節は、大衆向け木版複製本として流通しており、説話表現と結びつかなかったことが現代人には「不思議」に思えるが、山本は〈ひね りを利かせ、隠喩や暗喩を潜めた紙面〉(山本『絵巻物の図像学』p296)を読み解く「見巧者」を持つ江戸出版文化の中では、コマ表現の「宗教性」「野暮さ」が敬遠されたのではないかとする。

 3 「達磨ポンチ」東洋彩巧館 作者、刊年不明 明治20年代? 宮本大人「「漫画」の起源」→資料① p11-294

 西欧マンガの影響と思われる「ポンチ」本。「すべった転んだ」式アクションを複数コマで分節。諷刺画などと比べて低位に見られ、そのため「ポンチ」は蔑称となり、やがて「漫画」に吸収される。そのためもあってか、これまでの漫画史ではほとんど研究されてこなかった。

 4 「ライモンドゥス・ルルス小約言」 1320年代 佐々木果『まんが史の基礎問題 ホガース、テプフェールから手塚治虫へ』オフィスヘリア 2012年 p16

 〈物語が3つのコマの順に展開し、その中で同キャラクターが活躍する。せりふも口から直接発せられている。〉(佐々木 前掲書p16) 「コマ的なるもの」も、吹き出しもすでに成立している。絵と文字をコマが統合する時間表現は、洋の東西を問わず、こうした宗教画などに見られる。

 5 ロドルフ・テプフェール『ムッシュー.ヴィユ・ボワ氏』(1839年版)佐々木果訳 オフィスヘリア 2008年 p9

 現在、欧米の研究でも「近代マンガ」の祖ではないかとされるテプフェールの「コマ」。佐々木果は、先行するホガースなどと比較しつつ、「関係性」を読み取ることで、ただの並列的時間ではない「関係性コマ配置」の説話法を見ている(→資料⑪)。

  我々にとって、では「近代的なコマ」とは何か、そこで起こった説話の語り方の変化は何か、が問題となる。ティエリ・グルンステン『マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか』(野田謙介訳 青土社 2009年)は、文脈的に読みとられるネットワークのようなシステムとしてコマをとらえている。佐々木の「関係性コマ配置」や、宮本の絵と文字の質や関係の変化など、先行する仮説もヒントとなるだろう。

 4)越境的な議論のために

 山本陽子は、日本中世美術史の立場から、90年代夏目表現論の 閉じた部分(美術史の無知もある)を批判的に検証している(→資料⑫)。そこで問われるのは、絵と文字による説話表現=視覚文化という枠組みから見たと き、「絵巻物」や前近代までの視覚メディアと、近現代の「マンガ」との間に断絶だけを認める観点では、歴史の非連続性のみが強調され、連続性の部分の議論 が進まないのではないかということであろう。宮本が近世~近代の比較を行ってきたように、そこでは比較検証が必要なはずである。

我々は、「マン ガ」を近代のメディアであると位置づけているが、「マンガ的にみえるもの」が伝統的な表現文化に認められないわけではない。むしろ、直感的には多くの類似 を「絵巻物」や「草双紙」に認めることができる。とくに説話を語るという行為と、絵や文字の混合した表現との結合のありようは、古今東西の歴史上、そして 「近代」の転換においても、重要な議論の対象となるはずである。

今回のシンポジウ ムでは、日本美術史上からみた「マンガ的にみえるもの」の異同と、西洋近代の中で起こった同様の異同を、視覚文化という上位の概念のもとで出あわせ、議論 してみたい。佐々木果は、高山宏の先行研究を参照しつつ、視覚文化という観点から「近代」における「マンガ」の成立を原理的に考究してきた。山本と佐々木 の論点を交差させることができるかどうか。

無謀にもみえる実験であるが、そもそも「マンガ」なるメディアは越境的な存在であり、その議論もまた越境的、脱領域的に行われるべきであろう。

 

 資料

 1)マンガ史はどのように語られてきたか

資料① 「漫画」という言葉の再利用 漫画からポンチへ 明治期

〈今日、百科事典 で「漫画」の項を引くと、『鳥獣人物戯画』(一二世紀中頃~一三世紀中頃)、あるいはそれ以前にまでさかのぼって「漫画」の歴史が語られている、しかし、 そもそも「漫画」という言葉が日常語として定着するのは、明治末から大正初めの頃である。つまり、実際には「漫画」の名で呼ばれる表現は、明治の後半以降 に作り上げられたものに過ぎないのである。『鳥獣人物戯画』が、漫画の祖だといった歴史観も、この時期に出来上がったのである。〉宮本大人「「漫画」の起源 不純な領域としての成立」 週刊朝日百科 世界の文学110 テーマ編 夏目房之介責任編集「マンガと文学」01年刊 p11-292

〈明治の前半に普及した「ポンチ」の、最も大きな様式的特徴は、画面の余白を埋め尽くす戯文である。[] それ[江戸期草双紙的様式の衰退]と軌を一にして、「ポンチ」の表現も変化し始める。画面内の文字は減少し、文体も音読より黙読に適したものとなる。絵の描写においても、対象をあくまで写実的な形態把握に基づいた上で視覚的に誇張してみせることなどが、主流になっていく。〉同上 p11-292~294 [ ]内引用者 以下同じ

 宮本大人「「漫画」概念の重層化過程 -近世から近代における-」「美術史」第154冊 2003年 参照

 資料② 戦後 知識人による漫画史論

 主に1960~70年代 鶴見俊輔、山口昌男、尾崎秀樹、佐藤忠男、草森紳一、石子順造らのマンガ言説と史観

 鶴見俊輔『漫画の戦後思想』文芸春秋/1973年 山口昌男『のらくろはわれらの同時代人 山口昌男・漫画論集』立風書房 1990/尾崎秀樹『現代漫画の原点――笑い言語へのアタック』講談社 1972/佐藤忠男『日本の漫画』評論社 1973/草森紳一『マンガ考――僕たち自身の中の間抜けの探求』コダマプレス 1967/石子順造『マンガ芸術論――現代日本人のセンストとユーモアの功罪』富士書院 1967/石子『現代マンガの思想』太平出版社 1970年 など参照

 資料③ 1960年代 手塚治虫の「映画的手法」による「戦後ストーリーマンガ」成立の言説

 後半期、峠あかね(真崎守)らによる「コマ」形式への注目、石子「マンガ表現構造論」→マンガ表現論へ

 この時期の「手塚起源史観」は、当時の読者=「マンガ世代」のマンガ論者へ継承強化される

戦後日本の児童まんがは、世界のまんが史に誇れる発見をした。ストーリーまんがとよばれるものの出現である。[]戦前まんがの主流は、BⅠ型[消極的意志によるコマ割り]まんがであり、[]手塚作品の登場は、映画・テレビの親戚を持ちながら、コマにある種の因果をふくませて独立を試みたBⅡ型 [積極的意志によるコマ割りを持つ] まんがである。[]映画のカッティングが、まんがのコマにおきかえられたとき、まんがのコマは新しいモンタージュを持った。〉峠あかね(真崎守)「コマ画のオリジナルな世界」「COM」683月号 8081

 資料④ 1970年代後半期「マンガ世代」論者の登場と「おとな漫画」「海外漫画」の排除

[石子、鶴見、尾崎、佐藤、草森ら]論者たちが60年代末から70年代前半にかけて著したマンガ論の著作は、それぞれなんらかのかたちで海外のマンガをモデルとして日本でのマンガのあり方を論じていた。[]問題はなぜ石子、鶴見らの時点では存在していた「外国マンガ」に対する視座が現在では失われてしまっているのか、という点にある。〉小田切博「「マンガ」という自明性――ガラパゴス島に棲む日本のマンガ言説」 ジャクリーヌ・ベルント編『国際マンガ研究1 世界のコミックスとコミックスの世界』京都精華大学国際マンガセンター 2010年 p60

〈おそらく「おとなまんが子どもまんが」という図式を自明視する当時のマンガ観では「シリアスなストーリーマンガ」というものの存在をうまく位置づけることが困難だったのだろう。実際、石子らの議論はこの点に関しては記述が混乱していてわかりづらい。/しかし、こうした状況に対して竹内[1]のいう「昭和50年代のマンガ批評」の論者たち[2]が無意識にとった戦略は「おとなまんが/子どもまんが」と いう図式を覆して表現様式と内容にはっきりとした区別を与えることではなかった。彼らは「マンガ」概念から当時の「おとなまんが」だったカートゥーンを排 除し、「子どもまんが」の延長にあるものだけで「マンガ」という概念を捉えなおそうとしたのである。〉同上 p64~65

[1 竹内オサム「マンガ批評の現在――新しき科学主義への綱渡り」 米沢嘉博編『マンガ批評宣言』TBSブリタニカ 1987年 註2 竹内、米沢嘉博、村上知彦、橋本治ら〈マンガ世代の批評〉者たち]

 資料⑤1980年代 マンガ市場拡大に伴うマンガ言説の前景化

 米沢嘉博『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』『戦後ギャグマンガ史』新評社 1980~81/呉智英『現代マンガの全体像』情報センター 1986/竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評体系』1~4 1989/米沢嘉博編『マンガ批評宣言』前掲など参照

 資料⑥ 1990年代 「マンガ表現論」の登場 「手塚起源」「マンガ戦後史観」の継承と普及

 竹内オサム『手塚治虫論』平凡社 1992/夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房 1992/同『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』同上 1995/夏目、竹熊健太郎編『マンガの読み方』宝島社 1995/四方田犬彦『漫画原論』筑摩書房 1994/大塚英志『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』法蔵館 1994年など参照

 2)現在のマンガ研究の課題

資料⑦ 定義の問題

 岩下朋世『少女マンガの表現機構-ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』NTT出版 2013108

 三浦知志「ウィンザー・マッケイのマンガ作品に関する研究: 「レアビット狂の夢」とマンガ言説の問題」 東北大学情報科学研究科 博士論文 2010年 http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/48172 など参照

 いまのわたしたちは、「マンガ」という言葉で、定義可能な確定した領域が指し示されているかのように、漠然と考えがちである。[]しかし、これまで確認してきたとおり、「マンガ」という言葉は複数の共同体と関係していた。また、このことを意識せず、「マンガ」と言えば「海外マンガ」をふくめた認識がすでにできあがっているかのように考えてしまうとしたら、それもひどい誤謬である。/いま、[国民文学に対し世界文学の必要を語った]ゲーテにならって「世界マンガ」について語るためには、わたしたちはこの「マンガ」という語を、起源と定義から語るのではなく、その語彙にまつわる歴史の痕跡をひとつひとつ認識し、共同体の思考からとらえはじめるべきだろう。〉野田謙介「とあるMの定義と起源」「ユリイカ臨時増刊号 世界マンガ大系」前掲 p191

 まんがを定義することは厳密には不可能である。[]「まんがとは何か」を説明しようとする行為は、ある特定の社会の歴史の中で「事実をすくい取ろうとする」行為ではあっても、普遍的な定義にはなりえない。[]まんがは、歴史性や社会性や他のさまざまな問題を含む特殊な「できごと」であるから、時代や場所が変われば、まんがということばの意味も変わる。[]我々が行えるのは、問いを抱えながら歴史の中で翻弄されることである。[]歴史は、人によって意識的に見出され、記述されたものだ。現在の人間の問題意識を手がかりにして、過去を浮かび上がらせる行為である。〉佐々木果『まんがはどこから来たか 古代から19世紀までの図録』オフィスヘリア 09年 p47

 資料⑧ A)マンガ論言説の再検討と「手塚起源」「戦後マンガ史観」の相対化

瓜生吉則「マンガを語ることの〈現在〉」 吉見俊也編『メディア・スタディーズ』せりか書房 2000/同「読者共同体の想像/創造――あるいは、「ぼくらのマンガ」の起源について」北田暁大・野上元・水溜真由美編『カルチュラル・ポリティクス1960/70』せりか書房 2005/同「「少年マンガ」の発見」岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大編『戦後日本スタディーズ② 6070年代』紀伊国屋書店 2009/宮本大人「マンガと乗り物~「新宝島」とそれ以前~」 霜月たかなか編『誕生!「手塚治虫」 マンガの神様を育てたバックグラウンド』朝日ソノラマ 1998年他/伊藤剛『テヅカ イズ デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版 2005年他参照

 資料⑨

「マンガ読者」の身体性を絡め取るコミュニケーションへのまなざし(鶴見・石 子)を批判する中で〈わたし〉の「マンガ読者」への繰り込み(村上・米沢ら)が起こり、それを前提として〈表現論〉(夏目・四方田)が登場してきた、とい う流れでまとめることは可能である。ただし、この変遷は必ずしも「発展」を意味するわけではない。[]むしろ「(マンガを描きー読むという)体験や行為」に対するリアリティが様々な形で言葉にされてきた歴史として、「戦後マンガ論」を捉え返す視点が必要だろう。[] 「(マンガを描きー読むという)体験や行為」が〈わたし〉によって担保される、つまり「マンガ表現」を通じて「ある意味が媒介されること」が前提にされているからこそ、「マンガ表現」の独自性が「意味」の位相でも論証可能となるのだ。〉瓜生吉則「マンガを語ることの〈現在〉」前掲 p135~136

 資料⑩ B)海外マンガおよび言説の流入と相対化 学術的場への研究領域拡大と再検討

スコット・マクラウド(岡田斗司夫監訳)『マンガ学 マンガによるマンガのためのマンガ理論』美術出版社 1998/ジャクリーヌ・ベルント編『マン美研 マンガの美/学的な次元への接近』醍醐書房 2002/同『世界のコミックスとコミックスの世界』前掲/「ユリイカ特集 マンガ批評の最前線」青土社 2006/「ユリイカ特集 マンガ批評の新展開」同 2008/「ユイリカ臨時増刊号 世界マンガ大系」同 2013/小田切博『戦争はいかにして「マンガ」を変えるか アメリカンコミックスの変貌』NTT出版 2007/ティエリ・グルンステン(野田謙介訳)『マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか』青土社 2009年他

 3)問題提起 「コマ」を巡るいくつかの例

資料⑪

 〈時系列とは異なるコマ配置の考え方がここに見出せる。時間の順序ではなく、関係性を読み取るべきものとしてのコマの並びである。人間は、項が2つ 以上あると、その間にさまざまな関係性を読み取ろうとする。ところが、そこにある種の関係(たとえば因果関係)を読み取った場合には、それを時間としても 経験することになる。それは結果的に、時系列によるコマの並びと同じものととらえられるかもしれないが、両者の成り立ちには大きな違いがある。後者におい ては、コマの中身よりも、コマとコマを関係づけて読み取ること自体が重要である。〉佐々木果『まんが史の基礎問題 ホガース、テプフェールから手塚治虫へ』オフィスヘリア 2012年 p18

 4)越境的な議論のために

資料⑫

 〈このように日本における物語の絵画表現を通見すると、必ずしも夏目のいうように明治以前は「近代マンガのコマという形式は日本に存在しなかった」(註4参照)とは言い切れない。従来からマンガの源流に挙げられる(註3参 照)鳥獣戯画から版本の黄表紙へと至るような、諷刺的ではあるがコマを使わない絵画の流れが確立している一方で、コマによる表現形式も奈良時代に中国から 伝来して大画面説話画として存在し続け、子供向けの「おもちゃ絵」に用いられるほどに日常的であったことがわかる。それではなぜ江戸時代の大衆的な出版文 化の中で、浮世絵師たちはコマという技法もその面白さも充分に知りながら、諷刺画や物語絵の中で積極的に用いようとしなかったのだろうか。/まず考えられることは、コマを用いた大画面説話画にまつわる宗教性の強さである。[]いまひとつの理由は、コマ表現が無学の者や小児のためのものとして、一段低いものに見られていたことにある。[]見巧者によって支えられ、表現が洗練されていった江戸の出版文化と浮世絵において、[]説明的なコマ表現は野暮と見なされて、避けられるようになったと考えられる。/コマという表現は、日本絵画の中にたしかに存在しながらも、江戸の挿絵本や戯画の中ではあえてもちいられなかった。このことをどのように解釈するかが、マンガの始点を何時と見るかに関わることになる。[]

4 夏目房之介「仮説・コマの発達史 マンガはいつからマンガになったのか」『別冊宝島EX』「マンガの読み方」第四章「マンガをマンガにしているのはコマである」宝島社、一九九五年、一六八~一八三頁。

3 例えば石子順『日本漫画史』(大月書店、一九七九年)、清水勲『漫画の歴史』岩波書店、一九九一年)など。[攻略]山本陽子『絵巻物の図像学 「絵そらごと」の表現と発想』勉誠出版 2012年 p295~298

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