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夏目房之介の「で?」

映画『風立ちぬ』

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観ました。
けっこう長い映画なのに、感じませんでした。娯楽作としてよくできているということでしょう。「感動」もするし、涙ぐむ場面もあります。そして、そのこと自体に戸惑い、批判的になってしまう人もいるでしょうが、それもおそらくは宮崎監督の狙いだろうか、と思います。ある時期以降、素直に作品を楽しむだけでは終わらず、なぜかその背後などを考えてしまう作品を作るのが、この監督の「作家性」みたいなところがありますから。宮崎アニメの蓄積が、観る層をそうさせてしまうところも、もちろんありますけど。
あ、庵野秀明の声は、意外と、という以上によかったです。まあ、少年時の声からすると、いささか声変わりがひどすぎる気はしますが(笑)。

一言でいえば、宮崎監督が自分の矛盾として意識してきたことを、はっきりと、もっとも矛盾としてわかりやすく見せた映画、ということかもしれません。
娯楽作品で感動しちゃうことって、何なんだろうと、つい考えてしまう映画・・・・とかいうと、えらくつまらない言い方になりますが、それを意図してるような気がします。

ネタバレを気にする人は、以下を読むのは避けたほうがいいでしょう。
僕個人は、昨今神経症的に気にしすぎだと思いますが、まあ人ぞれぞれですから。

この映画、ひとによっては恋愛映画として観るでしょうし、零戦を知る人は零戦前史のイマジネーションの遊びととるかもしれない。また、歴史を思う人は、のちに「戦前」といわれることになる時代の、宮崎的解釈ととるかもしれない。
もちろん、そのそれぞれが映画の観かたとしては、観客にとっての娯楽映画のありようとして、当然ありうることだといっていいでしょう。誰もそれを否定はできない。

全体としていえば、関東大震災から始まる大正末~昭和前期の日本についての、歴史素描と夢想と国家のキャッチアップの大きな流れを、先端科学技術開発を巡る挿話として描いた作品、ということになると思います。ただ「感動」の大きな部分は、じつは恋愛の流れからきていて、その喪失の直後にくる、零戦の前身機の成功と夢想としての零戦のイメージで、感動の頂点を作ってあります。
そこのところで、人によって批判的になるだろうし、怒りを覚える人もいると思う。でも、それも当然といえばいえるので、そもそも宮崎アニメを観てきた者には、彼の描く戦闘機、爆撃機などへの偏愛と執着と、彼の理念や信念としての戦争への問題意識が、ここでもっとも矛盾をあらわにするからだと思えます。あきらかに、作者はそれを意図していると思えるので、僕にはこれが宮崎監督の「美しいアニメによる快楽原則」と「インテリとしての理念」の矛盾の自覚の提出のように見えます。そしてそれは、職人的技術への信頼と尊敬が、同時に歴史の中では大きな矛盾になる、というある種の結論のようにも感じます。

それほど、アニメ映像の快楽装置としてうまく作られているともいえるし、そのこと自体を疑問にも感じているのかもしれない。ただ、こういうことを作家本人がどこまで意識しているかは、またちょっと違う見方をしなければならず、あるいは深読みに過ぎる可能性もなくはない。
とはいえ、作中で何度も「矛盾」という言葉を主人公にあびせ、かつ「エゴイスト」だとすら呼ばせているので、科学技術の進展が一種の非歴史的中立地帯のように見えてしまうことの矛盾については、やっぱり意識して主題化しているのだろうと思うわけです。

それでは、そういう風に観ないでシンプルに楽しんでしまう観客について批判的にならないでいいのか、という人もいそうです。どうなんでしょうね。批判的に観るべきだとするイデオロギーもまた、僕は過剰になると危険な気がしますが。

というわけで、僕としては、娯楽作品として楽しく、感動してもいいだろうと、とりあえず思います。娯楽作品には、多かれ少なかれ、こうした両義性があって、『沈黙の艦隊』や戦時中の国策アニメにも同じことがいえるかもしれません。

戦闘機にまったく興味のない人(たとえば、沈頭鋲とか、引き込み式車輪について、なぜそれが画期的かとかに興味のない人)には、どうでもいいことかもしれませんが、じつは零戦開発以前で話を終わらせていることにも、多分意味がある。これ以降、それまで遅れていた飛行機開発において、突如日本が世界の先端に躍り出て、生々しい飛行機の歴史、戦闘機の登場と活躍と崩壊の歴史になっていくからです。
おもな場面は昭和10(1935)年までで、翌年が2・26、翌々年が盧溝橋(日中戦争)、そして昭和13(1938)年が国家総動員令。日本社会が戦争期に完全に入ってゆく直前までで、映画のおもな話は終わる。ヒロインも死ぬんですね。あっという間に訪れた恋人との別れは、昭和前期のぎりぎり「よき時代」の終わりに重なる、ということなんでしょう。宮崎本人も、そのことは充分に知って見切っている、ということだと思います。

話変わりますが、最近僕は60~70年代のマンガと戦前期、ことに昭和前期のモダニズムやエロ・グロ・ナンセンス時代との関係に興味があるので、その意味でも興味深く観ました。それって「戦後」といわれている時代って何だろう、という問いでもあるので。

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