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夏目房之介の「で?」

2013花園大学集中講義「絵巻物とマンガ 視線と方向」レジュメ

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2013.8.3 花園大学集中講義「絵巻物とマンガ 視線と方向」  夏目房之介

0)はじめに 「マンガ」とは何だろう?

 雑誌のマンガ連載 「ジャンプ」 単行本 ネット、携帯 海外

「マンガ」とひとくくりにできない諸事情

名称の問題(日本) 漫画、マンガ、まんが、コミック、コミックス 劇画 絵物語

 ○小星作、東風人画『お伽 正チャンの冒険 五の巻』大阪東京朝日新聞連載 大正14年刊 復刻版 ○「漫画」黒土社 昭和341959)年3月号  ○「冒険活劇文庫」明々社(少年画報社) 昭和251950)年1月号 ○武内つなよし『赤銅鈴之助』「少年画報」昭和34(1959)4月号付録

名称の問題(海外) アメリカン・コミックス カトゥーン ファニーズ コミック・ストリップ カリカチュア BD フナック 漫画(マンファ →中国、韓国) 連環画

 ○ウィンザー・マッケイ『夢の国のリトル・ニモ』(1905~13年)復刻 ○ドレイク・ウォーラー作、マット・ベイカー、レイ・オスリン画『IT RHYMES WITH LUST1950年 米 「PICTURE NOVELS」 ○マーヴェル『アイアンマン』1970年 ○BOUCQSUS Ā L’IMPREVU!1998年 仏 ○『DUELO EN MEXICO2012年(?) メキシコ ○連環画『嫦蛾奔月』上海人民美術出版 ○黄玉郎『竜虎門』1984年 香港 ○タイ ホラー物(2000年頃) ○『JAGO DARI SEGALA JAGO 1』インドネシア貸本 ○インドネシア版『NARUTO212006年) ○インドネシア『NABURO』 2002年 ○「男朋友」世界図書出版公司 中国 BL誌 2012

1)8.2講座「絵巻物からマンガ」の話題を受けて

 絵巻物では、右方向へと引き出される横長画面の連続性に従って、お話の時間流が右→左へと流れ、それに沿って「読み」の視線運動が導かれた。

図① 『伴大納言絵詞』上巻(12c.)冒頭 応天門炎上に群がる群衆の描写

 「何事か?」という期待を左へと運び、群衆の目線の先に黒煙~炎が逐次出現するスペクタクルな画像の時間演出は、絵巻というスクロールするメディアによって可能になった。物語絵巻というメディアが古代~中世日本において特に発展したというのが事実であれば、偶然にせよ必然にせよ、説話を「物語る」行為が絵巻メディアと緊密に結びついた結果、こうした躍動的なメディアが早くから現れたことになる。(同時期の世界で同種の物語表現がどれほどあったかについては、よくわからないが)

2)「絵巻物」=マンガの源流論

 ここから、画像の躍動的な物語化が日本文化の伝統にあり、現在のマンガを導いたとする言説が成立する。が、実際には12c.ほどの完成度の絵巻表現は、その後あまり見られない。

むしろ、現在の日本の「コマ」(複数の絵を区切ること)とページによる時間表現は、江戸期の視覚文化が純粋に内部変化して生じたというよりも、明治以降の近代出版化と新聞雑誌形態の普及を物質的条件に、欧米のカリカチュア、大正期以降のコミック・ストリップ形式の輸入によるところが大きい。さらに、近代媒体の「連載」形式による人気キャラクター表現の定着、「映画漫画」など映画からの影響、児童漫画の長編化など、様々なメディア環境の変化が複数コマの漫画に類する表現形式を整え、戦後、それらの形式が急速に大衆化して現在のマンガに至っている。「絵物語」などの「源流」論は、この過程で「ポンチ」といわれた領域のハイカルチャー化を目指す言説の中で「漫画」を「絵画表現」の一種として称揚するために援用された。

3)「絵巻物」の読者視線

 そこで、「絵巻物」の持つ時間の流れと視線運動を、現在のマンガのそれと比較してみたい。

図② 『伴大納言絵詞』中巻 伴大納言の使用人の子の喧嘩場面

 この場面、物語の筋は冒頭の詞書きに書かれ、読者はそれをあらためて絵で追う。

 A)まず、喧嘩を眺める群衆が現れ、組みあう子供二人が視野に入り、次に一方の子の父親である使用人が登場する。この父親は、絵巻の時間流方向である右→左に逆らってあらわれ、左→右方向へと逆流し、読者の視線を押し戻す。

 B)視線は「異時同図」で描かれた喧嘩する子たちよりやや左下、自分の子をかばい、相手の子を蹴倒すシークエンスに落ちる。とりわけ、蹴倒す方向が一転して時間流に沿った右→左に描かれたことによって、その衝撃が強調されているところは注目される。

 C)その後、視線は「子の喧嘩に親が出る」ことに驚く左の見物人を経て、使用人の子を連れてコソコソと退場する母親へと左上へ移動する。

つまり、この場面では基本的な時間流方向の右→左をいったん押しとどめ、逆流させ、右下へ回転させて、右→下→左上という楕円軌道を描いて視線が運動する。

図③ 『伴大納言』中巻 喧嘩場面の模式図

重要なのは、冒頭応天門場面のような、畳みかけるような速度の右→左方向時間と対照的に、ここでの楕円軌道の視線は、絵巻画面の上で一種の停滞的な時間(物語の中で挿話として語られる時間)を生み出すことだ。

読者は、この出来事の細部に心理的にフォーカスし、それぞれの顔の表情などに焦点を合わせる。画面全体の構成を眺めるのではなく、その部分に焦点を合わせて移動する窃視的な「読み」が導かれる。

このことを、マンガ、映画的な画面分節に翻訳したのが、高畑勲の「コマ割り」化だといえる。

図④ 高畑勲によるマンガの「コマ」あるいは映画のカット割り分割(註1

 画像そのものはすべて全身が描かれる斜め俯瞰的視点で描かれているが、「物語」の流れの中で、「異時同図」の各画像を時間順に想像させて読ませ、そのことで各画像への心理的な焦点化を引き出す。これを、高畑は映画の「クロースアップ」や「ミドルショット」映像に読み換えている。また、挿話的な停滞的な時間と、応天門炎上の急展開な時間、あるいは物語りの連結部分の場面転換(比較的長い時間経過)など、異なる時間感覚のシークエンスは、現在のマンガでは一般に枠線で区切られたコマと絵/ページめくりによって(場合によってはナレーションなど文字の区切りによって)行われている。

1 高畑勲『十二世紀のアニメーション -国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの-』徳間書店 1999年 p86

4)現代マンガの一例 井上雄彦『バカボンド』

図⑤ 井上雄彦『バカボンド』35(小学館 2013年) 「#304」 p不明 4ページ分

 

ページ/見開き/コマ構成

 基本の時間流(右→左)は絵巻と変わらないが、「本」の構造に規定され、見開き、ページ、ページ内のコマ並列という画面構成によって、視線運動は上→下、左上→右下の方向を交える。これらは、ここでは枠線で囲われたコマ及びコマ同士の関係によって分節される。各コマの画像は、次のコマへの視線移動のとき、間白(コマとコマの隙間)による時間の飛躍を含むが、「読み」の意識の内部では連続した物語内時間として接続される。

 物語内時間の感覚は、A)冒頭右ページの1コマ目「屋根」→2コマ目「武蔵の顔」の間と、B)左ページの3コマ目「子供の顔」→4コマ目「組みあう瞬間の全体」、C)3ページ目の1~4コマ目までの間では、それぞれ異なる。A)のややゆったりした間と、B)短い瞬間の継起、C)ほぼ同時に感じる分節とは、切り取られた風景や人物、その部分の画像が「動き」の有無をモンタージュされることで生じる。

 B)における、子供が武蔵にぶつかる速度感は、マンガの右→左の時間流に沿っており、マンガの基礎的な方向性(右→左=進行、左→右=逆行、左=立ち向かう、右=迎える)を順方向に利用した表現である。

 

物語の文脈的「読み」

 また、これらのコマによるモンタージュで生じる時間感覚は、物語内の挿話として文脈的に読まれ、激しい斬り合いを過ごしてきた武蔵のエアポケット的な日常時間を切り取った時間としての意味をもつ。現在のマンガの、長編連載物語(多数のページを持ち、膨大な人物の錯綜した物語の中で各場面が意味をもつ構造)の中でのコマは、時間感覚の表現を様々なレベルで多層化している。ここで表現されている時間分節と感覚を、コマの構造を除くことによって(いいかえればコマ枠を取り払って絵巻状に並べて)絵巻物に翻訳できるかといえば、不可能であろう。

 

・共通性と差異の両義性

 絵巻物と本の物質的な違い、メディアとしての受容構造の違い、近代以降の物語の重層構造の変化などが、この二つの例の間には横たわる。しかしながら、「物語」全体と人物や場面、挿話の文脈的関係や、時間感覚の差異、絵巻の「蹴倒される子供」と「武蔵に組みつく子供」の時間流との関係などを、共通の機能として取り出すことは可能である。

 「絵巻」と「マンガ」の表現機能の共通性を、両者を包含する上位概念としての視覚文化的な枠組みで対象化することができる。が、同時に「コマ」やページによる分節に注目してメディア特性の差異を対象化することも可能である。すなわち、こうした比較はしばしば両義的な判断をもたらす。「絵巻」にも「マンガ」にもそのまま還元されない視覚文化としての領域を設定して慎重に比較する必要がある。共通性、差異の、どちらかを恣意的に抽出することには慎重であらねばならない。

5)明治末期のコママンガと視線方向

 マンガの時間流の方向性は、いつ頃からこのような形になったのか? 昔からそうだったのか?

6 『いたづら』 『上等ポンチ』99号 明治39(1906)1015

7 『雁の身の上』 同上 103号 同上 1215日 独歩社(国木田独歩編集)

※満谷国四郎、河合新蔵、桂夢生などが漫画家として参加したというが、個々の作品に書名はない。清水勲監修『漫画雑誌博物館3 明治時代編 上等ポンチ』国書刊行会 1986年 p72p110

 縦書き文字に沿って、コマ配置も縦方向。しかし、6にあっては、子供が右斜め上から登場し、左下の父親に向かってイタズラを仕掛ける。読者の視線は、ページ上半分の画面上を右上→左下方向に導かれる。その意味で、方向性はコマごと、および4コマ全体を通して、雑誌の「読み」方向に沿って存在する。

 7では全11コマ(枠線はないが)が3~4コマごとに縦方向に並び、各コマの右→左方向への規定性は比較的強くない。が、雁の飛行方向、鉄砲の発射方向、男の洗面所への方向など、たしかに「読み」方向に沿った「向き」があり、雁の売り手(右)と買い手(左)の向きにも話の進行方向に沿った描き分けがある。

 675と比べると、ページ単位のコマ構成が縦読みと横読みで異なる。67では、隣り合ったコマ同士の関係性で「読み」の視線方向が左右される度合いが少ない。5では、それに比して各コマの大きさ、縦横比、ページに対する配置関係が様々で、紙面全体と各コマの連携によるネットワークが複雑になっている。その分、比較的長い時間感覚と瞬間のふり幅が多様である。

この違いは、雑誌に掲載されるページ数の違い(1ページで完結する画面と連続するページ)と、そのページを要請する「物語」(あるいはページ数獲得とともに形成された「物語」の長編化)によるものと思われる。

6)同時代米国新聞マンガ『夢の国のリトル・ニモ』の場合

8 ウィンザー・マッケイ『夢の国のリトル・ニモ』Winsor McCay “Little Nemo in Slumberland” 「ニューヨーク・ヘラルド」紙 日曜版 1907526日 2ページ分 Richard Marschall 編「THE COMPLETE Little Nemo in Slumberland  Vol.Ⅱ」Remco Worldservice Bokks 1989年 p24~25

 米国新聞マンガ(コミック・ストリップ)の名作といわれる『リトル・ニモ』では、書字方向=「読み」の方向に沿って、左→右に進行するが、必ずしもそればかりではなく、縦長コマを使って上下に視線を動かし、奥へ向かう方向性を立体的な画面で作り出す。読者は、ひとつひとつのコマに長い時間とどまって、また新聞紙面全体を使った迫力のある画面構成や色彩の美しさを楽しむ。

 『リトル・ニモ』は、毎回夢落ちのエピソードでつらなっており、『バカボンド』の武蔵のような「求道的人生の時間」を生きているわけではない。当時、新聞の売り上げを左右したといわれる新聞マンガ、とりわけカラーの日曜版が、どんな楽しみ方をされたかに規定された表現だといえる。

 『IT RHYMES WITH LUST1950年と比較すると、『リトル・ニモ』は絵本のようであり、紙面のデザインを楽しむ要素が強い。また、『IT RHYMES WITH LUST』は、物語の要請によるのか、ミドル・ショットが多様され、アップも多い。これらを見ると、「日本マンガの特性」を簡単に過去のメディアや海外と比較することができず、歴史的変遷やマンガの種類、物語との関係など、多くのファクターを精査しないと明確な結論を出せないことがわかる。

 今年のマンガ学会で発表された「日本マンガの場面描写の分析」によると、日米比較において〈日本のマンガは1950-60年代から1990年代にかけて”Macro”[全身]の使用を減らし、一方1950-1960年代から現在にかけて”Micro”[アップ]の使用を増やしてきた〉(註2[ ]内引用者)という。

図9 13回マンガ大会プログラム p36~37

表現形式上の「特性」を個別に比較しても、必ずしも「マンガ」を代表させることにならず、個別の形式要素の単純な集合が「特性」を意味するわけでもない。より上位の概念から俯瞰し、論理の水準をチューニングして、比較や検証の枠組みを追求していく必要がある。

2 日本マンガ学会第13回大会実行委員会『日本マンガ学会第13回大会プログラム・発表要旨集』2013年 p36 「日本のマンガの場面描写の分析 コマの表現法の時代による変遷」船津徹(無所属)、三浦知志(東北大学大学院情報科学研究科)、窪俊一(同上)、和田裕一(同上)

Cohn,Taylor-Weiner and Grossma(2012)による日米マンガ比較で〈アメリカのマンガでは日本のマンガよりも”Macro”が、日本のマンガではアメリカのマンガよりも”Mono”がそれぞれ多く使われることを見出した〉とし、そこに〈東洋人と西洋人の注意お文化差〉(同上)を見出していることに対し、時代による変容の可能性を示唆し、時代別に日米のサンプルから同様の分析を行ったものである。

”Mono”は、ミドルショットか?

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