講演「佐々木マキのマンガ」
先週土曜の吉祥寺美術館での講演レジュメです。
2013.6.8 武蔵野市立吉祥寺美術館「佐々木マキ見本帖」展講演会「佐々木マキのマンガ」夏目房之介
①佐々木マキとの出会い
「月刊漫画ガロ」(青林堂 1964年創刊)1966年11月号「よくあるはなし」佐々木マキデビュー。
1967年11月号「天国で見る夢」で、ストーリー性を退けたイメージの並置によるフリージャズのような「マンガ」を発表。以後、77年まで断続的に発表。69~70年「朝日ジャーナル」連載。絵本作家となり、79年、村上春樹『風の歌を聞け』、80年『1973年のピンボール』、82年『羊をめぐる冒険』など、村上作品のカバーを描く。
夏目は、高校生の頃、講読していた「ガロ」誌で出会う。69年(高3~大1)、ひどい鬱状態に落ち込み、子供の頃から描いていたマンガが描けなくなった時期に再度読み返し、「子供のイタズラ描きのように下描きもせずに自動的に描く」方法を知り、再びマンガを描き始めるきっかけとなった。同時に、それは「マンガ」という表現の形式(コマと絵)を自覚することでもあった。
図版1 「天国でみる夢」より 『うみべのまち 佐々木マキのマンガ1967-81』太田出版 2011 p16-17
〈その当時はうまく解析できなかったのだけれど、僕にとっては佐々木マキのマンガはひとつの可能性でもあった。つまり佐々木マキが表現した方法、あるいは表現しようとした方法は、僕自身が何かを表現したいと漠然と感じていた方法とまったく同質であったのだ。【略】僕が佐々木マキのマンガから感じたのはこういうことだった――のだろうと僕は今思う。つまり〈表現すべきことがない時、人は何を表現すべきか〉ということである。〉
村上春樹「佐々木マキ・ショック・1967」K・I・C思索社『思索ナンセンス選集6 佐々木マキのナンセンサス世界』84年所収
②佐々木マキ「マンガ」の影響
マキの「線の多義性」と偶発性にまかせたような作風は、当時、20歳前後になっていた急進的な「マンガ青年」たちの注目を集め、「ガロ」読者欄で先鋭的なマンガ論言説を駆動した。
すでに、戦前からマンガに親しんできた知識人らや、一部の大学生などが白土三平『忍者武芸帳』などに刺激され、マンガを語ろうとする流れがあった。「ガロ」では佐々木と同時期に先鋭的な作品を発表し始めたつげ義春をめぐって、石子順造(美術評論家)らが同人誌「漫画主義」によってマンガ論を展開していた。「ガロ」読者欄では、佐々木マキをめぐり、白土を擁護しマキを批判する言説と、マキを自分たちにふさわしいマンガとして称揚する言説との対立もあった。この流れが、70年代にはっきりと登場する50年代前後生まれの「マンガ青年」たちによるマンガ論言説に影響する。後者が、自分たちの文化の場=「ぼくらのマンガ」としてマンガを語り、そこで80年代に続くマンガ論言説の雛形が成立したと思われる。夏目の「マンガ表現論」も、その流れにある。「マンガ読者作者共同体」の成立と、その言説に影響を与えたといえよう【注1】。
〈ぼくらが、ゲバ棒を手にする時、それなりにかなりしんどいデモに行く時、その行為は決してコトバにならないもの、即ち政治のワクでつつみ切れないものを持っている。それが佐々木マキの〈言葉〉のないマンガと重なってイメージするのだ。〉菅井美智(宮城・20歳)「ぼくの内なる佐々木マキ」 「ガロ」69年3月号読者欄
〈[上の投書の]言表は、マキのマンガが、言葉を超えた「ぼくら」の身体的共同性の「自己表現」に重なることを意味する。政治言語(イデオロギー)の行為化ではなく、それらをむしろ拒否した行動が自己表現なのだ。この「ぼくら」は、おそらくのちに村上知彦の「ぼくら」に継承されるのだろう。〉夏目房之介「「ガロ」補足 佐々木マキと読者欄の議論」 インターネットサイト「コミックパーク」連載「マンガの発見」107回 2008年6月
③不信の時代とマキの先駆性
図版2 「ヴェトナム討論」より 前掲『うみべのまち』 p128-129
〈画像と言葉と意味が、それぞればらばらに壊れた関係しかもてないほど、理念的なものへの不信や社会への違和感は深刻になっている。林静一にはまだあった自己表現すべき何らかの意味への手ごたえが、佐々木マキではさらに希薄になり、表現したい何かは、表現する様式の変容にすりかわってしまっている。【略】六〇年代後半にあらわれた伝達不能感には、たがいに伝わらないことの苛立ちや諦めのような気分があった。〉夏目房之介『マンガと「戦争」』講談社現代新書 1997年 p91
画像を入れたコマの連続構成という形式として、またマンガ雑誌である「ガロ」のページをめくる体験として、佐々木マキの作品は「マンガ」として受容された。が、表現の形式としては、物語性を支える意味の連続をあたう限り抑制し、「コマと絵」というぎりぎりの要素まで切り詰め、意味をなす前提条件を逆に露出させた。そのことで、意味をなす関係性や構造が浮き上がり、同時にマンガを「読む」体験ではなく、モノとしての「マンガ表現」そのものを「見る」体験に変えた。→佐々木マキの「マンガ」としての境界性
これは、いわば現代美術、ポップアートの方法の、マンガへの導入でもあった。文字も含めた、すべての画像が、フラットに並列されてしまう視覚体験は、70年代以降本格化する高度消費社会的感性の先駆であった。しかし、マンガとしての佐々木マキ作品は、その時代的な役割を終えると、突然のように姿を消す。
〈佐々木マキ作品のようなイメージ体験の非実体的な直接性・具体性は、時代の思想情況と無関係ではない。個我を原点として、世界を凝縮的に統一することが不可能になったとか、より端的には個我の近代はすでに崩壊しつつあるとかいわれる時代感ないし現実相とは、そのような知覚・認識のいわれではなかっただろうか。〉
石子順造『現代マンガの思想』太平出版社 1970年 p160
〈だがむろん佐々木にも、危険な陥し穴が残されている。イメージの直接的な体験が、そこで自立的に完結してしまうなら、それはいぜん視覚自然的な〈見る〉とまったく変わらない体験に終始してしまうだろうということである。【略】佐々木のマンガが、マンガでしかないとして、マンガであることに完結してしまいかねない自立性の危険は、彼のイメージが一つの事物(オブジェ)になってしまうところにある。〉石子「イメージのイヴェント 佐々木マキ論」 石子他『現代漫画論集』青林堂 1969年 p220
佐々木マキは、2011年7月31日のインタビュー取材(ライアン・ホームバーグ、夏目による)に答え、「マンガ」を発表しなくなった経緯について「やるだけやって気がすんだから」と答えている。また、石子の指摘についても「その通りだと思った」と肯定している。
④佐々木マキと日本のモダニズム
上記取材で、マキは植草甚一の影響(コラージュ)、戦前昭和モダニズムへの興味を語った。マキが好きな杉浦茂も、田河水泡も、モダニズムや新興芸術運動をへてマンガに移行している。マキを前衛とした60~70年代の「若者文化」「対抗文化」としてのマンガ潮流には、直接・間接に昭和モダニズムが接続しているのではないだろうか。「モノ」としてのマンガは、その意味で「構成主義」と無関係ではないかもしれない。
図版3 「かなしいまっくす」 前掲『うみべのまち』p142-143 異種画像の並列混交
注1 可児洋介「佐々木マキをめぐる言説 -『ガロ』読者欄を中心に-」 日本マンガ学会紀要「マンガ研究」Vol.15 2009年所収