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夏目房之介の「で?」

日高さんの修士論文

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京都に行ったとき、よく交流会でお会いする京都大学大学院人間・環境学研究科の日高利泰さんから修士論文「1960年代の少女誌における恋愛の主題化と「少女」の性的身体」を送っていただいた。とても寡黙な人で、ほとんど話していないのだが、論文は大変優秀で、今後の研究がとても楽しみである。

主題は、タイトル通りだが、とても丁寧に、着実に検証を重ね、これまで曖昧なままに「何となくこうだろう」と思われてきたこの主題の前提を考究している。こういう地道な研究検証が、今後のマンガ言説の進展を支えるのだろう。僕らの時代とは違う言説の組み直しが進むことになる。これは、少女マンガ史だけでなく、戦前のマンガ史、戦後との連続性、他国のマンガ史、あるいは視覚文化史全体との関係史を視野に入れると、まだまだ先が長い。

日高さんの誠実さは、そもそもの前提を、自分の思い込みも含めて対象化しようとする、丁寧な自省的検証にあらわれている。こういう謙虚な態度が、始まったばかりのマンガ関連研究には必要なのだと思う。これまで僕も含めた在野研究が野放図に直感的に仮説を立ててきた結果のマンガ論言説を、学術的に検証しつつ視野を拡大する時期なのかもしれない。
僕の担当する修士のみならず、知り合いの多くの院生、学生には、論文の構成も含めて、とても勉強になる論文だと思います。

目次

1.はじめに
 (1)本編の目的 (2)先行研究の整理 (3)本稿の構成とそれぞれの意義
2. 「読者」を定位する
 (1)利用可能なデータとその利用方法 (2)週刊少年誌の購読率 (3)月刊幼年誌の購読率 (4)週刊少女誌の購読率 (5)月刊少女誌の購読率 (6)予備考察のまとめ
3. 性的身体をもつものとしての「少女」
 (1)「生理」を扱う記事の登場 (2)科学的知識の強調 (3)生理用品の広告に対する母親の反応 (4)メジャー誌における月経関連記事の登場と月経を扱うマンガ・小説の登場 (5)まとめ
4.少女マンガにおける「結婚」の変遷
 (1)ロマンスの系譜 (2)「姉の結婚」がもたらしたもの (3)「母の再婚」というもうひとつの迂回路 (4)まとめ
5.キスシーンの定着過程
 (1)前史と背景 (2)キスシーンはいかにして可能か (3)キスシーンの類型化 (4)『りぼん』および『少女フレンド』におけるキスシーンの展開 (5)まとめ
6.おわりに
参考文献 参考資料

順に、いくつかの箇所を挙げてコメントしてみたいと思います。

〈少女雑誌に現れる「少女」たちは表象と現実の二重体であり、マスメディアの媒介作用によって、現実と表象は相互に影響しあう。〉p5
 「表象」(representation)という概念をちゃんと考えてるなあ、と感じさせる。こういう前提を提出することで、論文をブレなくするように思える。ここで「じゃ現実って何?」とか考え出すと、キリがなくなってしまうので、直感的に文脈として納得できる範囲ですぱっと引き上げてるのが、頭いいな、と思わせます。

〈2.読者を定位する〉では、資料的に曖昧で確定しにくい「読者」という受容者存在を、毎日新聞社の「読者世論調査」「学校読書調査」からデータを抽出し、目的に沿って表にして分析してゆく。手間がかかり、判断も注意が必要な、とても大変な作業だが、どこまでが確実にいえて、どこらへんが大体推測できることなのかを明らかにしようという真摯な検証です。この検証が少女マンガ史、戦後マンガ史に寄与してくれるものは大きいですね。読者受容論の必要性は、論理的にすでに語られてますが、実際にはこういう作業がないと前に進まないんですよね。ここで、日高さんは、60年代の少女誌の読者層の年齢が、大体小学高学年を中心にしていると結論づけています。
〈3.性的身体をもつものとしての「少女」〉では、「月経」記事の登場と、マンガ化を取り上げ、当時雑誌で「少女」とされた層の問題としての「月経」が、少女誌の上で「性的身体」として登場してゆく過程を検証する。

〈[体験談としてマンガ化された月経は=引用者]体験談=現実であると同時に、マンガ=虚構でもあるのだ。こうした回路の中で、現実の少女の性的身体性が暴露されることを通じて、フィクショナルな存在、マンガの登場人物としての少女の性的身体性が意識化される。読者の代理=表象の身体と、読者自身の身体が限りなく接近していくこの回路こそが、戦後日本の少女マンガにおいて恋愛が主題化するための重要な土台作りを果たしたのである。〉p31
 女性論者による少女マンガ論がまといがちだった自らの体験による推測と違って、ここでは具体的な読者層データと記事分析によって仮説が提出されている。僕も含む戦後世代論者のマンガ論を越えてゆくための検証でもあると思います。

この後、いわゆる「母恋物」などの類型の中に、「おとぎ話」ではないロマンスの萌芽があったとして、主人公の姉の結婚や、母の再婚などの主題を、恋愛への前駆的な条件として検証してゆく。そのさい、以下のような言及がされる。

〈少女マンガにおける「恋愛」の起源を確定的に記述することは困難である。起源を特定するためには「恋愛」や「少女マンガ」の指示範囲が前もって画定されていなければならず、それぞれの概念の意味境界を画定することは必然的にある種の恣意性を帯びる。そこにはそう判断するものの価値観や歴史観が混入してしまうので、起源についての記述は解釈の産物に過ぎない。〉p33
 こういう部分で、抽象的な議論を整理できるかどうかが、けっこう学生たちには難しいので、学んでほしいところ。慎重な日高さんは、こういうところでは意外なほど大胆に断定している。「起源」を巡る言説は、どうしても生じてしまうし、その陥穽には留意が必要なので、ここはしっかり断定してしまおうという気分が伝わってくる。言い回しが、さすがにスマート。

さらに「キスシーン」の検証に進むのだが、ここでも慎重に「キス」の条件や意味合い、あるいは二重性を繊細に検証。結論と仮説にたどり着いてゆく。
その中に、こんな言及がある。キス表現について、果たしてそれがマンガ家による意思だったのか、それとも編集者側の介入があったのか、という疑問に関してである。

〈どちらかの意図と特定することにそれほどの意味はないだろう。先行世代の作家、彼ら・彼女らの作品を読んで育った戦後世代の新人作家、新しい消費主体として少女達を取り込もうとする編集サイド、この三者のせめぎあいの中で変化がもたらされたのである。〉p52
 その通りだと思う。こういうことを、どこかで飲み込んでとりあえず「作家」にことよせてエッセイを書いたりしていたので、本当はここまで言い切ってしまうべきだったのかもしれないな、と思う。ただ、もちろん、これらの選別が必要な場面では、しなければならないが、ここでは必要ない、という見切りで、こういうところ、じつに間合いがいい。ここも勉強になるな。

結論的な部分では、〈おおよそ1963年から翌64年にかけてキスシーンを描くことが定着し[略]お礼・挨拶としての、欧米的慣習としてのキスという、直接的に恋愛関係を想定しないものを迂回させてキスシーンを描くことが既成事実化され、徐々に男女の恋愛関係の中でのキスへと移行していく〉(p53)とする。そのさい、見事なのは、キスする欧米人少女の「お礼・挨拶」慣習性と、される男の子の内部に起こる「恋愛」に類する感情の推測という「二重性」に注目するところだ。この二重性と迂回現象が、恋愛描写への過渡的な構造と考えられるので、このへんの目のつけどころと、クリアな概念化は、読んでいて快感がある。

あと、63年時点での少女誌読者層は、俗にいわれる「団塊世代」とはズレがあり、「団塊世代の成長=マンガの青年化」的なこれまでの言説に疑問を投げかけている。これは、僕もそう思うところで、今後の実証的研究が待たれる。僕は団塊世代のちょっと下に当たるが、経験的にいってこの世代は、60年代にはいったんマンガを卒業しており、後に戻ってきた、という印象を持っている。受容者層としては、じつは団塊の下、あるいは戦後ベビーブーマーよりやや下の世代こそが、コアになった可能性が高いと思う。

日高さんの論文は、まだ修士論文であり、少女マンガの恋愛描写の歴史検証過程としても、ようやく前提的な部分を整理したに過ぎない。こういう優秀な研究者が今後どんどん研究を進めてくれると、僕らの視野も広がり、言説の枠組みも変わってゆくだろう。楽しみです。
日高さん、ありがとう。

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