オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

築地本願寺「仏教文化講座 マンガと仏教」

»

築地本願寺「仏教文化講座 ともに生きる」での講義のレジュメです。
いやあ、行ってみて驚いたのは、本堂の大伽藍の前での講義だったこと。おまけに門徒の方々の多い聴衆だったこと。こりゃ、反撥くらうかな、と思いましたが、最初に「私の講義はざっくばらんで漫談みたいなもんですから」といいわけして、結果、意外と受けがよかったので安心しました。笑いもとれたし。
講義の前にお坊さんによる「三帰依文」の朗誦、「真宗宗歌」斉唱がありました。こういうのは初めて。少し緊張してしまいました。ロックコンサートじゃないんだから、と内心ツッコミを入れたりして(笑)。最後に「釈迦に説法とはこのことで」といったら、受けたので嬉しかったりして。しょうがねぇな、どうも。

2013.2.23 本願寺築地別院 仏教文化講座 「マンガと仏教」講義 夏目房之介

1)マンガの意匠としての「仏教」イメージ

みうらじゅんは、幼少期の怪獣への興味が、祖父につれられて寺院に参ったときに仏像と結びつき、仏像マニアになったという。当時のスクラップに「怪獣みたいでかっこいい」と書き込んだ。また「ウルトラマンは弥勒菩薩なんだ!」と周囲に力説した(みうらじゅん『マイ仏教』新潮新書 2011年)。
ウルトラマンは、タイで人気がある。現地で映画を撮影したおり、当時の円谷プロから権利を買い受けた人物が、そこに仏像に似たものを見出したといわれる。仏像という、仏教イメージを定着させる造形が、仏教伝播地域に広く共有されている(『西遊記』の再生産力)。日本でも、もちろん仏教系イメージは長い歴史をへて浸透し、マンガにもその意匠が使われる。すでに教説を離れ、それらはいわば民衆的に共有された造形の雛形としてあり、土着宗教、ヒンドゥーも含めた宗教イメージとして流通している。

図1 高橋留美子『うる星やつら』「週刊少年サンデー」78~87年連載
マンガ加工された七福神像。悪辣なイメージに転換された仏教系キャラクター群。弁天の色っぽさは伝統的。
図2 同上
仏教対神道の対決。対立イメージは明治以降だろうが、共有された宗教像を踏まえている。

図3 武井宏之『仏ゾーン』「週刊少年ジャンプ」97年
少年向けバトル物イメージに転化された仏像。みうらじゅん的なイメージ連想を感じる。密教系仏像とりわけ明王、天部の神々には戦闘的なものも多く、小説、アニメ、ゲームでも使われる(キリスト教、ヒンドゥーも同様で、世界宗教が土着宗教と接合するときに生じるイメージ群に活性があるように見える)。

意匠として浸透した仏教イメージは、大乗的な大衆化の結果、地域民衆の共同無意識と化して伝統化する。そこには豊かなイメージの再生産性が感じられ、古来、説話、物語と結びついてきた。日本での仏教イメージと、現代マンガへの援用も、その流れにあるといえる。マンガはこのとき、地域大衆の潜在イメージを映し出す。

2)「仏教マンガ」(?)の諸相 聖人像と業

 意匠を援用するだけでなく、仏教を主題化するマンガはどうか。多くの場合、教説の普及のために「教科書」的に構想された「仏教マンガ」はマンガとして面白くない。かつて私は、以下のように定式化した【注1】。
A)仏教がマンガを選ぶと、おおむね面白くない。
 仏教>マンガ=説教臭い≒面白くない∴競争力がない
B)マンガが仏教を選べば、面白い可能性がある。
 仏教<マンガ=読む快楽優先≒面白い∴競争力あり

図4 山折哲雄・バロン吉元『親鸞』角川書店 90~91年書き下ろし単行本 のち集英社文庫
おどろおどろしい画像にはマンガに流出する、我々に潜在するイメージの奔放さが感じられる。
図5 同上 
白拍子の念仏批判と対峙する若き親鸞。教説論は退屈な対話になってしまい、むしろ白拍子に説得力を感じてしまう。教説=言語(文字)対イメージ=絵の対立になってしまって、後者が優位に見える。
 仏教に限らず聖人をマンガ化するとき、悟りきった人物はドラマを駆動する主役になりにくい。むしろ業に苦悩する時期の聖人か、苦界に常在する人物が、マンガや(とりわけ近代的な)物語の中心として機能しやすい。ここには「教科書」的教説の解説とマンガ的図像快楽の肉離れがある(ただしマンガ=図像ではない)。

図6 山岸凉子『日出処の天子』「LaLa」80~84年
一般に聖人視される聖徳太子像を覆したこの作品では、人間的な業の中で、自らの超常能力(見えないものを見、超自然現象を行う)に悩む厩戸王子は、ただ前を通り過ぎてゆくだけの仏たちを眺めるのみ。人間世界と超越者の距離感を絶望的に描く場面は秀逸。 

図7 三宅乱丈『ぶっせん』「モーニング」99~01年
禅宗系貧乏寺と密教系金持ち寺の僧の皮肉の言い合いは部外者には楽しい。聖人(空海、聖徳太子)や教説の「ありがたさ」を相対化し、伝来時期を巡って互いの優位を保とうとする宗派対立は秀逸。どんなに優れた教説・思想も、セクトになれば自己防衛を巡る対立関係を生むという相対主義(関係主義)を感じさせ、むしろ仏教の理念に近いのではないかとすら思える。もっとも「信仰」は、ここに存在しないが。

3)手塚治虫『ブッダ』と手塚的仏教

 「仏教マンガ」というと、多くの人がこの作品を想起するようだ。が、むろんこれは手塚的に解釈された仏教であり、聖人伝記マンガの常として、マンガの物語として面白いのは、常に業にまみれ、苦しむ側の人間像であり、ブッダ=シッダールタが悟るにしたがって脇役に「面白さ」が担保される。

図8 手塚治虫『ブッダ』「希望の友」「少年ワールド」「コミックトム」72~83年連載
 説話的ファンタジーの面白さを担保するのは、ここで女性形にされた蛇形の悪魔(手塚は悪魔を女性形で造形することが多い)。嫉妬深く、アナンダを誘惑するが、悪魔としては卑小でかわいい。マンガとして作者が楽しんで描いている印象を受ける。

図9 同上
 このマンガでブッダは、覚者となった後も悟りを続け、彼を越えた超越者=導く者としてブラフマンがいる。ブッダの、ここでの悟りは、脇役たち(大衆)の中に「神」を見出すことだが、やはり「教科書」的な印象を免れず、明らかに前者(図8)のほうにマンガ的面白さがあると思える。
 ブッダ入滅後、彼はブラフマンに自らの教説が時代をへて忘れられてしまうのかと問う。そこには、手塚の作家としての執着が反映されており、一般の覚者像からは違和感をおぼえる。手塚にとってのブッダは、実は最後まで悟れなかった、信仰をもたない一人間の過程にすぎない。逆にいえば、我々の仏教イメージには、「死」を受け入れる覚者像、マンガの中ではむしろ脇役(導き役)として機能する者であるはずの超越者イメージが共有されていることをあらわにする。
 手塚マンガの核には、「生きること」「生き続けること」があり、それは常に変化(メタモルフォーゼ)を続けることを意味した。生命=変化のモデルを彼の仏教観に投影したのが「輪廻」だと思われる。

図10 手塚治虫『火の鳥』「COM」67~71年連載 『鳳凰編』同69~70年
 『火の鳥』連作(「COM」版以降)の構想そのものも「輪廻」的世界観で、登場人物は人間、動物、微生物を生まれ変わってゆく。そこには生態系思想などが重ねあわされ、とりわけ『鳳凰編』では、創作者の業を主題化している。彼にとってマンガを描き続けること=「生きる」ことであり、死の床で昏睡状態にあっても時に意識が戻ると鉛筆を欲し、手にすると安心したようにまた昏睡したという【注2】。

「生命」と「変化」は手塚マンガのキーワードであり、その刻印は私見によれば手塚の戦争体験と深く関係する。大阪大空襲(45年3月)と思われる空襲下、手塚少年は勤労動員先工場から宝塚に逃げ帰り、地獄絵図を目撃する(シッダールタの「四門出遊」にあたる)。
〈ぼくは、もう沢山だと思った。もう結構。これは、この世の現象じゃない。作り話だ。漫画かも知れない。おれは、その漫画のその他大勢のひとりにちがいない。それなら、早いとこ終わりになってもらいたい。〉(手塚治虫『ぼくはマンガ家』毎日新聞社 69年 p40)
危機状況における現実からの隔離症状ののち、彼は工場に行かずにひたすらマンガを描く。20歳まで生きられると思っていなかった当時の軍国少年は、やがて敗戦を迎え、いきなり「その後の生」を与えられて開放感を得る。このとき「生きる」=「マンガを描く」構図が刻印されたと思われる。それ以前にあったらしい、昆虫採集少年手塚の生命観(変化するもののエロティシズム)が結びつき、手塚独特の生命=変化=輪廻の設定が形成されたと思われる(戦争体験とマンガの関係は手塚以外にも、水木しげるなどに顕著に見られる)。【注3】

4)まとめ

 手塚の死生観=仏教観を含め、これら「仏教」イメージには、大乗的な在家の(ただし必ずしも信仰と一致しない)思想と、伝統的な仏教イメージの出会いと再生産があり、そこには文化としての生命力を感じざるをえない。聖者像、教説理念に回収されない領域で、仏教とマンガは文化的生産力を発揮している。「釈迦に説法」と知りつつ、ここに「大乗思想」の現代的な表現を見うるように思う。

注1 夏目房之介「「仏教マンガ」の面白さ」 「大法輪」2008年11月号 「続・「仏教マンガ」の面白さ」同 2009年10月号 参照
注2 手塚真「わが父・手塚治虫 「父の作品を映像化するのが夢です」」「朝日ジャーナル」臨時増刊「手塚治虫の世界」 89年 p132
注3 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』ちくま文庫 95年、『マンガと「戦争」』講談社現代新書 97年 など参照
 他の参考文献
 夏目房之介「悟れないブッダ」、「異形の相貌」 『マンガの力 成熟する戦後マンガ』晶文社 99年
 同『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』小学館文庫 98年

図1 高橋留美子『うる星やつら』1 小学館 80年 p161
図2 同上 p182
図3 武井宏之『仏ゾーン』1 集英社 97年 p42
図4 山折哲雄・バロン吉元『親鸞』3 集英社 p111
図5 同上 p292
図6 山岸凉子『日出処の天子』2 p252
図7 三宅乱丈『ぶっせん』4 講談社 p121
図8 手塚治虫『ブッダ』12 潮ビジュアル文庫 p111
図9 同上 p191
図10 手塚治虫『火の鳥4 鳳凰編』角川文庫 92年 p76, 80~81

補遺
そのほか、質問もあって、『月光仮面』が月光菩薩からきていることや、意外とヒーローには菩薩(如来になる前の修行者=凡人により近しい)が多いこと。弥勒のように何億年単位で天で修行しているとか、何光年も輪廻を続ける聖者のイメージと、ウルトラマン(何万光年のかなたの「光の国」からやってくる)の類似とかも、ちょこちょこ触れたりしました。

Comment(1)