オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

久々で遅ればせの2013年書初めの会

»

Sn3m0111  久々に、突如仕事で東京に来た古川師匠を捕まえ、書初めの会。まずは、王羲之の「地」「而」の字を臨書。これが難しいのだが、さすがの師匠の指導で、次第に手を思い出す。何よりも、一見細い字を細く書いててはダメで、まずは力が紙に通るように太く太く書け、という指導は見事。目一杯太く書いたあとに、力を緩めていくと、たしかに印象の深い文字に。う~ん、やっぱりこの師匠を失ったのはでかい。面白かったなー。

でも写真は、そのあと自由に描いた李華の詩句「芳樹無人花自落 春山一路鳥空啼」。右は僕ので、光っちゃってわかりませんが。

Photo  古川師匠と、右からリルさん、キミさん、八戒さん、チュウさん、僕の三枚目。

Photo_2  右は小川さん、左は今回初参加のムロさん。

 

追伸

古川師匠の指導法は、以前から思っていたが、今回もじつに八卦掌の李老師の指導とじつに似ているのだ。一見細いが、力のある書を臨書するとき、まず見た目とは逆に目一杯太く力強く書いてみる。すると、それを百とすれば、七〇や五〇に緩めて、しかし力を保って書くことが可能になる。どんな場合でも、一度逆方向に極端にやってみると、ちょうどいい力の場所がわかるようになるという。
これ、李老師がよく語り、またそのように指導しているポイントなのだ。

また、而の二画目の左へふれる線を、いったんまっすぐ降ろすという指導も、僕はすぐにわかった。王羲之の手本の「而」は、その線がゆらりと揺れながら力強く下に届き、そこでもっとも力をためて反転する。これを実現するためには、一画目の最後で「これから左に行く」と意識してしまうと、するりと綾なく反転し、曲がり角がつぶれてしまう。が、いったん意識を一画目の最後まで届け、それから下に降ろすように意識したのち、左へ向かうと、力が逃げずに線がゆらりとたわんで落ちてゆき、下辺で力をぐぐっと落とすことができる。この力の反動があるから、再び右上に反転したときの勢いが生まれる。もちろん筆はまっすぐに落としたまま、穂先を紙に突き刺すように落としているので、以上の動きはつねに「まっすぐ」な意識になる。
これもまた、李老師に八卦掌を習っている者なら「あ、同じことをいってる」と感じるのではないかと思う。李老師は、一連の動きのそれぞれを、きちんと最後までやりきることと、しかしそれをつなげることを要求する。たとえば、前にまっすぐ打つ、というとき、李老師の動きは我々には上に打っているように見えることがある。それは、本当はきちんとまっすぐ前に打っていて、その動作の最後までやりきっているので、沈んだ体との相対性もあるが、最後に上にはね上がっているいるように見えるのだ。結果、手が上に向かうのはかまわない、というのは、つまりまっすぐ打つように意識して最後まで力を通せば、その勢いで結果上を向いたとしても、それは必然なのだということだ。
このあたりの現象の言語化の水準は、驚くほど同じ構造にみえる。そこには、身体性と運動にかかわる言語化の共通性があるように思う。かたや、独学で書の論理化を追及した独立書家、かたや伝統中国武術の老師だが、そこに同じ言語化、論理化の水準があるというのは、非常に興味深いとしかいいようがない。太極拳のときも、書とあまりに似た原理があると感じたが、李老師の八卦掌はさらに深く似ているように思う。練習が進むほど、李老師の動きも見て取れるようになるが、書においてもまたそうだった。誰か、こういう比較研究をしてみないかなあ。

追追伸

そういえば、書を書く基礎的な構造を体に入れるために臨書をがっちりやって、それから自由に書かせて解放するという段取りは、走圏と掌法の関係と同じだな。まあ、これは多くの修練法と類似するだろうけども。

Comment(0)