「教授」5年目の感想
学習院大学院の身体表象文化学専攻も5年目を終えようとしていて、つまり僕の専任教授生活も5年目になる。
これまで数人の修士に修士論文を書き上げてもらい、その手伝いをしてきた。今のところ、学生たちの、ときに目を見張る成長を見ることができて、自分としては、はじめての仕事にしては、何とか合格点かなと思う。学術的な専門教育を受けていない僕が、どうやって学術論文の「指導」をするのか、すごく不安だったが、修士論文についてはそれなりに経験をつむことができた。そして、相当不安にさせる学生たちでも、最後の最後に、驚くようなふんばりで、それまでできなかった領域に入っていくものなのだと知ることができたのは、本当にしあわせなことだと思う。
が、博士論文となると、話は少し違ってくる。このレベルでは、当然のように、僕よりも学術的な背景をもった学生が相手であり、それぞれの背景によって、方法論も異なってくる。また、博士課程となれば、本来なら同じ領域を専門とする担当教授によるプロフェッショナルな指導を受け、同等の議論をかわしながら、自分を成長させ、論文を書かねばならない。当然、それらを構成する個々の論文は、紀要など専門誌に掲載されたり、それぞれの過程でチェックが行われる。それらを統合する作業では、全体の構成や接続、論理や用語の一貫性なども重要になる。
今、僕の領域においても、博士課程の学生が博士論文に立ち向かっている。大学院であるということの意義は、ここで問われるといってもいいかもしれない。どれほどの博士論文を世に送り出せるのかが、僕がここにいる意味にもなる。
が、僕にできることは限られている。僕の専門領域では、それを手助けするほどの学術的に蓄積された体系は、まだない(それが強固にあればいいかというと、それはそれで問題をもつだろうけども)。学生に、全体を構成するさいの問題を指摘し、できればアイデアを提示し、励ますこと。それを誠意をもってやるほかに、できることなどない。あとの答えは、学生自身が出すしかないのだ。
この5年間で、ひとつ学んだとすれば、「待つ」ということの重要さだった。どんなサジェスチョンも、批判も、ある種のタイミングが合わなければ学生には届かない。それを待つこと、読むことは、とても重要だと思う。
博士論文に向けての予備的な論文や発表で、やはり長年教授をなさっている方々は、プロフェッショナルな有効性を持った指摘をする。僕は僕なりに役割を果たしているだろうと多少の自負はあるものの、いつも「凄いな」と感心する。僕の指摘は、それと比較すると、ライター時代に新人ライターを教えるときのメソッドに近い。文章に関しては具体的だし、何をしてみるといいか、というアイデアもそれなりにあるが、構成の変更や、全体の組みなおしに関しては、まだ未熟だろうと感じる。とくに、領域の異なる専門書を参照するようにすすめたりするには、あまりに学識が不足している。何しろ、自身、卒論以上の長い学術論文を書いたことがないのだ。
さいわい、優れた学生たちがきてくれて、僕の欠如は彼ら自身が埋めてくれている。もっとも、博士課程の学生は、一般論でいえば専門家であり、僕が教えてもらうくらいでいいのかもしれない、とは思う。
欠如は、何かを具体的にやってみて、はじめてわかるものだ。何となく抽象的に「欠けている」と思っている段階では、それは具体的な課題として見えず、どうすればいいか、どの方向にいくべきかは、見えない。とくに僕の場合、具体的に論文を読むという行為で、はじめて問題がはっきりと把握できる。だから、学生たちには、何でもいいから、うまく書けなくていいから、とにかく書いてみろといっている。いくらいっても、ふつうの学生はなかなか文章にして、先生に見せられる状態にまで自分を追い詰めない。頭の中には、何となくイメージがあって、書き始めればできると思っている。でも、文体とは思想であり、文章にしてはじめて欠如や不連続が見えるのだ。なので、大学院にきたときから、ずっと「さあ書け、早く書け、何でもいいから書いて、俺に見せろ」といい続ける。
その結果、迷ったり、横道にそれたりするが、それは書かなくても同じなので、書いて迷ったほうがいいと思っている。前もって迷わないようにできる人は、そもそもほっておいても書けるので問題がない。具体的に文章を書くということは、具体的に課題にぶち当たり、迷い、試行錯誤して、やり直すことを意味していて、それが具体的な、ほとんど身体的な体験であればあるほど、対象への肉薄はリアルになる。ほっておいても、そういうことをやっている人は、そういうことを知っている人なのだ。
僕自身が、そういう生き方をしてきたので、いってみればそういう指導しかできないのだが、博士論文についても基本的には変わらないだろうと思っている。
こうやって書いてみると、結局これって人が生きていることの中で、ふつうに出会っていることと、そう違ってないな、と思う。抽象化して書くからそうなのだが、「待つ」ことの重要さや、具体的に始めてみて迷うことの必然性、そして最後までたどることでしか見えてこない結論(それが当初の期待を裏切るとしても)の大事さなど、一般論といっていい。
もちろん問題は、個々の場が持っている具体性にある。そして場は、つねに変化する。その場その場で、受け入れて「待つ」しかないのか、前に押して押し切るほうがいいのか。考えてみれば、僕個人は過去そうした人生の場で、それぞれ直観的に選んできた。そうして選んだことの結果は受け入れるしかないので、その覚悟だけはする。今まで、そうして生きてきたので、これからもそうするほかないだろう。場合によって、落ち込んだり、悲しかったり、色々するけれども、それが人生って奴だしな、と思うしかないだろうね。