オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

三年小成、八年中成、十年大成

»

ここんとこマジメに日曜の李先生講習会にも参加。
前回の講習会で、李先生が「これまで熊、龍、単勾、獅子とやってきたが、どれが好きですか?」という質問をしたので、休憩中に「僕がもし応えるとしたら、今は熊が好きです。リラックスを感じられるから。でも、何と説明していいかわからないが、今は単勾、獅子が重要だと、僕の体が僕にいうんです」とツタない英語で伝えた。そのあと李先生は、脳ではなく、体がどうのこうの」という話をしてくださったのでが、残念ながらうまく理解できなかった。
ところが、本日の講習会で「三年小成、八年中成、十年大成」という武術の達成過程についての言葉を書かれて、こんな説明をされた(ただし相当大胆な意訳なので注意)。

「はじめて習うとおぼえるのも早く、急速に体も変わり、成長も感じられる。三年くらいは、そういう時期だ。だが、次の段階になると、そう簡単に体は変わらない。なので、最初の三年と比べて自分の成長を感じられず、自信がなくなっていき、多くの人がこの時期にやめていく。三年から八年という中成までが長いのは、じつはこの間に、いくら格好や位置を正しく行っても、成長にならない時期に入るからだ。体の中の、ごく個人的な成長は、それぞれで異なる。それは頭で考えた理解の仕方の問題でも、外形的な正しい形がとれるかどうかの問題でもない。個人的な、その人その人の、体を変えるための内部の要求で、体がそれを求める。教えられたことをそのままやっていればいいというわけではない。では、どうしたらいいか。自分の内部を変えるように、ただひたすら練習するほかはない。体が出来上がることが問題なので、体ができれば、次の段階には中成期ほどの時間はかからない。だから、中成から大成までの時間は意外と短いのだ。そして、この過程は武術に限らずどんなものでも同じである」

つまり、小成から中成の間の時期に、自分の個人的な問題に気づき、その要求に応えるように自分で練習をしてゆくしかない、ということだ。難しいのは、これは先生のいうことを無視したり、勝手に解釈したり(でも、自然にしちゃうんであるが)、指摘や指導を受けなくていいということでもなく、かといって今まで通りにおぼえたことを続ければいいということでもない、ということだろう。自分の体の要求を聞く耳と、それに応える練習の方向を探る能力を身に着けるのが「練習」なのだという、言葉にすると当たり前のようなことなのだが、「いうはやすし」である。この段階では、先生は大きく踏み外さないように時々直すだけで、あとは自分でやってゆく部分が増えてゆく、ということのようだ。
たとえば今日、僕と何人かの人は、上に上げる手を思い切り頭の上のほうに上げるように直された。しかし、李先生自身はそれほど腕を上げておらず、それと同じ形の人で直されない人もたくさんいた。こういう経験は過去にもあり、そのつど、わからないまま続けていると、必ず何らかの変化が体の中に起こる。経験的にそれを知っていたので、しばらくその姿勢で走圏をやっていたら、首の後ろが痛くなった。要するに、首や肩甲骨周りを伸ばすための獅子形になっていなかったらしいのだ。形がいくら合っていても、体の要求を満たさなければ、その人にとって「間違った練習」ということになるんだろう。首や背の筋を伸ばすように今後心がけて自分の練習をチェックする必要がある、ということでもある。
こうした高度な見極めと直し方は、とてもじゃないが今の僕にはできない。けれど、それをクリアしていかなければ、次の段階には進めない、ということなのかもしれない。難しい。
難しいが、何というか、何で今僕が「ここで気合入れて練習しないといかんな」と感じていたのか、少しわかる気はする。僕の体は小さいし、丹田や筋の成長も遅い。中心軸を支える範囲も狭いので、とにかく中心を保持する基礎的な力を持たなければ次には進めない。これはもともとの体格や体質にもかかわることなので、僕の課題はそこにあり、今はそこを学ぶ大事な時期なんだろうと思う。

面白いなと思うのは、これってたしかに武術や健康法だけでなく、ほかのことにも応用の効く考え方かもな、と感じることだ。研究や批評も、僕にとっては読みの感覚や文体が身につかないと次の段階や領域に進めないもので、そういうところは似ている。文体には身体性があるような気がするし、書やカラオケですら、やや似たところがある。無理に広げる必要はないが、比較的獲得しやすい技術の先の問題がつねにあるという点では同じかもしれないな。
こういう身体がらみのことって、これだけ言葉を費やしても、体の感じるものの、ほんの一部でさえ表現できない。これも面白い問題だなあ。

補注

ここで「筋」という言葉を使っているのは、李先生がそういっていて、自分なりに「これがそうかな」と思う感覚をさしている。李先生は、筋はたとえば腱であり、筋肉を骨につなぎとめている組織であり、筋膜である。そこを鍛えるのが肝要なのだという。しかし、それが果たして実体的に検証できるものなのか、今のところわからない。ただ、本当に少しずつ、自分の肩の付け根の内部とか、首とか、腰腹とか、足とかの内部に感じ始めている「ひっぱられた感じ」を、とりあえずそう呼んでいるに過ぎない。つまり、今の僕にとって重要なのは、自分自身の内感覚であり、そこに李先生のいう「筋」を、多分このことだろうと仮に呼んでいるのである。李先生は実体的な概念として使っているのだろうが、僕のレベルでは、一種の関係概念のようにしてしか使えないのである。
とはいえ、そこにさらに充実が通っていけば、たしかに力が発現するもののように感じている。何となく、それを体が求めているように感じているのだと思う。

Comment(0)