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夏目房之介の「で?」

花園大講演「「格闘マンガ」の表現と構造 少女マンガ系との比較から」

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講演には、花園大の師先生、イズミノさんも参加され、この両氏が飛びぬけて格闘技系リテラシーが高いため、講演後の雑談が異様に盛り上がった(?)。でも、花園の秦先生など、女性研究者にとっては、そもそも『BANANA FISH』と大友の差がよくわからないなど、リテラシーの落差も目立った。こういう主題の難しさを感じた講演でもあった。以下、レジュメを公開します。

2012.8.1 花園大学 創造表現学科講演 夏目房之介のマンガ講座 

「格闘マンガ」の表現と構造 少女マンガ系との比較から    夏目房之介

1)野暮な話を一発  アクション好きの『BANANA FISH』 への違和感

吉田秋生『BANANA FISH』(「別冊少女コミック」85~94年)が無茶苦茶面白い傑作であることを前提に、それだけに「残念」に感じてしまう「アクション好き」の違和感(ファンのブーイング覚悟で)

01 吉田『BANANA FISH』①小学館文庫 97年 p133 「少女マンガ」としてはアクションを一生懸命頑張って描いてはいる。この物語に必要な描写だから。それでも「個々の運動」は「止まって見える」。

02 同上 p58 銃の描写 一見自然に見えるが、拳の角度と拳銃の角度が異なる。こだわりのなさ。

03 同上 p139 それでも1巻では拳銃の反動で、抑えていた両腕がハネ上がっている。

04 同上④ p155 遥かに重く反動も大きいはずのマシンガンを片手で平然と連射している。「アクション好き」は、ここで「ありえないよ」と冷めてしまう。アクション場面が多く、面白い話なだけに「残念」な印象に。

BANANA FISH』ファンや少女マンガ的読者は「そんなことどうでもいいのよ!」と思うはず。

その通りで、話の内部に入っていれば間違いなく『BANANA FISH』は面白い。それは否定しない。

問題は、①僕が「アクション好き」であり(リテラシーの違い)、②吉田が大友克洋の手法を獲得してきた「運動を描ける」作家であること(表現の再現性のレベルの違い)にある。

①リテラシー アクションの運動描写のレベルを問題にしてしまうのは、マンガや映画のジャンルの求める再現性の水準による。『BANANA FISH』は「少女マンガ」誌連載だが、内容的にアクション物ジャンルの要素が強い。したがって、「アクション好き」読者は自然とそのジャンルの視点で読んでしまう。

→ マンガでも映画でも、その作品のジャンルの求める水準を事前に「期待」する「読み」がある。

②再現性のレベル 絵とコマ分節の持つ再現性のレベルがあり、吉田のそれが大友的再現性を求めるレベルにある。吉田は、もともと絵がうまく、大友の画法を模倣する力があり、ある時期からそのレベルに移行した。

大友のレベルとは? 矢作俊彦、大友克洋『気分はもう戦争』(「週刊漫画アクション」 80~81年)の例

05  『気分は』双葉社 82年 p182~183 3人の人物の位置関係(空間) カメラアイの変化による空間の再現性と「腰の入った」人物の「運動」の合理性(身体と重心、引力、質量の関係と「力」の関係) 回り込んで短刀を突き刺す体/指される人物の「位置」と「運動」の整合性 これらが行われた「場所」の「空間再現性」=「空間」が明瞭に再現されて初めて可能な、位置と運動の変化の関係描写 身体と運動の了解度と画法

線遠近法的に再現される物理的な「空間」と「身体」「運動」の関連のコマ分節による再現性レベル

06 人物と運動の空間再現模式図

大友の出現によって日本マンガの再現性と画法の水準は大きく変わった。(BDなど海外コミックの影響

しかし、マンガには様々な再現性のレベルがある。

2)少女マンガ的アクションの描写

高口里純『花のあすか組!』(「月刊ASUKA 85~95年)の例

07  『花のあすか組!』① 角川書店 87年 p122 運動描写(パンチをかわして、腕をねじって倒す)

少女マンガとしてはまったく問題はない。合気道的な技だが、むしろ重点は主人公の立ち姿の「美しさ」にある。

08 同上22 p184~185 複数相手とのアクション。武器を使ったらしいこと、主人公の「カッコよさ」を見せる以上の(大友的な)空間内運動の分節・連動の描写ではない。位置関係も不明瞭。

読者もそれを求めていない(ジャンルと読者の期待の関係) しかし、物語に必要なアクション場面としては、それなりの工夫がされている。重点は歌舞伎の見得的な「美しさ」「カッコよさ」にあり、それ以上に人間関係や心理的やりとりの物語の「読み」にある。少女マンガのスタイル画的様式を運動の「らしさ」にしている。

09 2.5次元的奥行き空間の図像配置模式図

→ ジャンルの求める期待の地平が異なる

3)格闘マンガの描写

川原正敏『修羅の門』(「月刊少年マガジン」89年~ )の例

10 『修羅の門』講談社文庫 02年 p149~157 格闘技術の連続性・合理性の分節 払い腰→脇固め→投げ→腕十時→返し→変形腕十字 連続技(格闘技好きには理解できる 「読み」の快楽になる分節表現 

格闘技に興味がない読者、少女マンガ系読者にはまったく興味の湧かない運動描写のはず。

①格闘リテラシーに基づく身体の「運動」と力感、技術連鎖の身体共感性

②運動の空間 大友的な再現性ではない。抽象的な空間(白い背景)における純粋な「技」の世界

③「技」の解説 「見る者」たちのアナウンス、会話による事態への「解説」と「感情」の高揚

純粋に格闘技術を再現し、それを解説する最小限の会話のために背景を飛ばし(2.5次元的)、「技」分節+解説会話のみに様式化した表現は、じつは形式的には心理劇的な女性マンガの手法とほとんど変わらない。

11 よしながふみ『愛すべき娘たち』(「メロディ」 02~03年) 白泉社 03年 p198~199

ある事態(回想場面)を「解説」し、心理的関係を説き、「感情」を解いてゆく対話場面 ともに「顔」だけ

12 橋本以蔵、たなか亜希夫『軍鶏』(「漫画アクション」「イブニング」?年)⑩ 双葉社 00年 96話(p不明) 格闘場面の内面心理の比喩的描写 敵のローキックで足が動かなくなった状態を暗闇に沈んだ主人公のみの画像で表現 一瞬の心理状態 この暗闇は、この後、何度か登場し、自らが殺した両親にまといつかれる幻想、「何かが来る」恐怖などに連携する。戦いのさなかに(実際の戦いの時間を無視した)主観時間への沈潜を示し、その心理に強く引き込む。運動分節ではなく、主観世界への移入による共感。

身体感覚の共感性を強める傾向は格闘場面への感情移入を促すが、形式的には心理劇的比喩表現と同じ。

「格闘」の解説的表現 「実話」手法的解説

13 梶原一騎、つのだじろう~影丸譲也『空手バカ一代』(「週刊少年マガジン」 71~77年) 夏目房之介「“言葉”の反乱 表現論的梶原一騎試論」『マンガの力』晶文社 99年 39~40pより転載

〈これが[『巨人の星』から]『空手バカ一代』になると解説はさらにクドくなり、図解とドラマの場面の組み合わせも巧妙になる[3-2]。この例でいえば、ギャングを倒すもっとも劇的な見開きコマの周囲に解説がえんえんと並んでいる。マンガのコマ展開をスピーディに読ませるなら、過剰な解説をここに入れるのは逆効果なのだ。/しかし、梶原劇画の実話的“物語“の時間としては、むしろその遅滞が現実らしさを生むことになる(この遅滞は、瞬間を何倍にも拡大することではじめて可能な梶原魔球・必殺技の詐術と同じ構造なのだ)。さらに『空手バカ~』の巧妙さは[3-3]にあるような原作者の登場と、その独白的な“言葉”の挿入にもあらわれる。[]独白は現に進行しているとされる物語とは別の(未来のどこかに仮定される)時点から語られるわけで、当該読者の意識は多層の時間を与えられることになるからだ。/梶原の独白的“言葉”の挿入は、その効果を実話としてのインパクトに変えたのである。もちろん有名な〈大山倍達(談)〉という“言葉”の挿入も同様に効果的であった。〉同上同p [ ]内引用者注

「解説」の「実話」的導入は、マンガ史的には、絵物語→白土三平劇画の「解説」→スポーツ物→格闘マンガの流れで確立され、観戦者による対話劇の応用をへて、『ガラスの仮面』など演劇物から『美味しんぼ』など料理対決マンガに至るまで、あらゆる「対決」に応用された。表現形式としてはジャンルを横断している。

「解説」は、その場面の運動を説明し、「解説」的セリフは、さらに感情的な水準を決定する。しかし、これら「解説」的言語は、同時に進展する「物語」の文脈につらなり、そこで描かれる「技術」「戦闘」を全体から意味づけ(あるいは価値づけ)る。こうして格闘描写は、「物語」の指向性、価値=「人生」や「人間関係」に連携する。重要なのは、「格闘(技)」そのものの場面・描写が、いかなる文脈と結びついて作品化されるかであり、また格闘場面の快楽は、全体との文脈的関係によってその指向性を変える。

4)まとめ 「格闘マンガ」の構造仮説

 大塚英志は梶原一騎作品の論理を〈実話〉手法であるとして、こう書いている。

〈〈実話〉とは、まさに虚実の〈境界〉に位置する〈徴つき〉の表現方法であり、それ故に、ある種のいかがわしさと、魅力を兼ねそなえているのだ(この境界性の魅力は、そのまま梶原作品の魅力でもある)。〉大塚英志『[まんが]の構造 商品/テキスト/現象』弓立社 1987年 125p

〈それ[〈現実〉をそのまま複製し、それゆえに閉じている大友作品]に対して、梶原作品では〈虚実〉が同一平面上にある【図B】。そして、その境界線上に〈作品〉が成立する。読者は、〈現実〉と〈虚構〉の往復運動が可能である。〈作品〉がその回路になっている。〉同上 131p

14 大塚同上 p129 [ ]内引用者注

 この梶原作品の「構造」は、彼が拓いたといっていい「格闘マンガ」の「構造」に引き継がれている。

問題は、個々の格闘場面ではなく、「物語」と文脈的に結びついて初めて意味をもつ説話の指向性にある。

場面の「身体的共感」や「現実らしさ」(絵画的再現性だけでなく主観視点による現前性などの複合)と、全体の「戦闘」や「物語」の荒唐無稽さは、不可分に結びついている。いわば「ありうること」と「ありえないこと」の中間に宙づりされた「飛躍」の醍醐味が「格闘マンガ」の快楽の領域=ジャンルとしての居場所ではないか。大塚のいう〈現実〉と〈虚構〉の重なった隙間には、「流派」や「技」の実在性、荒唐無稽な虚構性、実在人物やその影が忍びこみ、それが「格闘マンガ」のジャンルとしての「らしさ」を構成している。ジャンルへの期待とリテラシーは、それらの複合の上にある。

 マンガ表現を、個々の場面のコマや絵の様式、形式で解析するだけでは、「ジャンル」としてのマンガ作品の「らしさ」の快楽を読み解くことにならない。これは、どんなマンガにおいても共通する課題であると思われる。

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