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夏目房之介の「で?」

BDとマンガ(マンガ・エロティック エフ)

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「マンガ・エロティック エフ」(太田出版 Vol.75)に、BD原作者ジャン=ダヴィッド・モルヴァンの原案で、中国の作家ジェイ・リュウがマンガを担当した「嫌われ役」という短編がある。その短編のあとのインタビューに面白いBDとマンガの比較論があった。原正人翻訳になるインタビューの中で、ジャン=ダヴィッド・モルヴァンはBDとマンガのスタイルの違いについて尋ねられて、こんな風に答えている。

〈BDの作家はどちらかというと「物語」を語ろうとする傾向が強いんです。それに対して、日本のマンガの作り方は、「登場人物」にずっとフィーチャーしているというか、そこに焦点をあわせようとする。だから登場人物を豊かにしようとする傾向があると思うんですが、その辺が大きな違いじゃないでしょうか。[略]もちろんBDの場合もキャラは重要なんですよ。ただ、日本のやり方とは違ったやり方でキャラを使います。BDの場合はキャラクターを使って物語を語る。一方、日本のマンガは、物語を生きているキャラを描く。〉(同誌 165~166p)

要するに「物語」の構築が最後にたどり着くべきものなのか、キャラクターが「物語」より優位にあるか、というような意味のことなのだが、もちろん、そのままでは多くの反証や例外を思いつける。にもかかわらず、たとえばブノワ・ピータース、スクイテン『闇の国々』の面白さは、やはり構築的な世界観にあり、我々が惹かれるところがとりあえず登場人物であるにせよ、たしかに構築的な世界の物語(それを象徴する建築群)こそが最終的な目標であるように感じる。また、たとえば日本の人気連載などを想起すれば、登場人物の魅力が時とともに成長し、それが「物語」として「見える」ような構造にも感じる。ところが、谷口ジローや、『タンタン』を思い浮かべると、必ずしもそうでもない気がしてくる。

この手の比較論は、必ずこうした相対性をはらんでしまう。だから、ここでの言い方に何か「いい当てられている」感があるとすれば、そのことをどのレベルで掬い取り、どう言語化するかが問われるだろう。ここでいわれている「物語」が、一体どういうものを示そうとしているかが鍵かもしれない。よくいわれる文化論的な比較をすれば、西欧の寺院建築が構築的に堅固な立体性を目指すとすれば、日本のそれは地形に沿って横にコンパクトで低い建築を連ねていく、というような垂直性と水平性に還元できる比較に近いものがある。この比較の、どこまで妥当性があるか、じつは確定できないが、とりあえず文化の思考の型のようなものが想定されざるをえない。

もし、日本の人気マンガが、キャラクターをまず生み出し、その人気で読者をひっぱることを重視しているとすれば(事実、そういう側面は少なくとも70年代以降はっきり見られる気がする)、日本のような雑誌連載(大量のページ生産)を前提としなくなってしまったBDにおいては、最終的に「物語」の構築性が求められる作家性の強い傾向になったのかもしれない。インタビューでは日仏の制作制度の違いにも言及されている。あくまでも翻訳された文章なので、フランス語で意味されようとしていることと、日本語との差異は当然考慮されなければならないが。

かつて宮原照夫に伺った、フランスとの出版社社長の対話で優先順位の違いが問題になった件を思い出す。宮原は「1、テーマ、2、キャラクター、3、ストーリー、4、絵」といい、社長は1、絵、2、テーマ、3、キャラクター、4、ストーリーといったというのだ(拙著『マンガの深読み、大人読み』イースト・プレス 所収 宮原インタビュー 221p)。だが、そもそもキャラクターの意味合いが「物語」との関係で文脈的に異なっているとすれば、簡単には比較できない。また「物語」を単純にストーリーと同じということができるかどうかでも話は違ってくる。

そんな、ややこしい話を前提にしながらも、ジャン=ダヴィッド・モルヴァンの言い方には、何か直感的な妥当性があるように感じられる。それを仮に、物語の構築性をより好むか、キャラクターの現前性をより好むかの違いだとしてみる。マンガの連載や、アニメの連続放映の形式を考えれば、たしかに日本では後者の優位を作り出すのかもしれない。答えはでないが、この設問が様々な課題を引き寄せるのは間違いない。

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