「美術フォーラム21」特集:漫画とマンガ、そして芸術
広島市立大学の加治屋健司さんから「美術フォーラム21」Vol.24「特集:漫画とマンガ、そして芸術」を送っていただいた。加治屋さんはこの特集に「石子順造の知覚論的転回 -マンガ批評を中心に-」という論文を寄せている。
「マンガ批評を中心に」というところがミソで、専門の美術史・表象文化論の立場から、当時の「芸術」を巡る言説空間から、あらためて石子順造の営為を評価しようとしている。もともとマンガ批評の領域からは、石子はマンガ評論家として、60~70年代マンガ言説の立ち上がりの中で評価されてきた。が、その限界の中ではこぼれ落ちてしまう領域、石子がもともと「美術」「芸術」の概念を押し広げ、マンガや絵画やキッチュやという、多領域横断的な評価概念を追及していたことを正当に評価しようとしているのだ。
僕などには美術史のきちんとした素養も訓練もないので、これは本当にありがたい仕事である。また、マンガ、漫画という言葉の領域が閉じていった時代を越えて、ようやくその「閉じた」内側と外側を問う時代になった今、マンガ論、マンガ言説史においても、これは重要な論文になると思う。個人的にも、石子さんが正当に評価されることは嬉しい。
石子と鶴見俊輔は、当時の知識人として多くの文化領域を、上位文化だけでなく下位文化まで貫いて語ろうとしていた。そのために概念の拡張が必要で、鶴見の場合はそれが「限界芸術」論になった。彼らだけでなく、多くの知識人が同じ問い直しの文脈の中にいた。ただ、若いマンガ青年たちは、そのことを斬って捨てるかのようにして、「戦後マンガ」を自明の領域として自在に語り始めていった。僕もその一人だ。その行き違いによって、今は見えなくなった多くの問題が残されているといえる。
僕の世代は、今の研究者たちが無用な混乱をおこささないように、こうしたことに前向きに答えていくべきだろう。とはいえ、昔語りの装飾から逃れることは、いうほど簡単ではない。試行錯誤を互いに重ねるしかない。
ところで、「美術フォーラム21」のこの特集そのものも、大変興味深いものだ。まだ他の記事を読んでいないのだが、全体に現在可能な美術史や美学からの問い返しを含んだもののようで、マンガ論研究者には必読の特集かもしれない。以下に、目次を。
[特集]漫画とマンガ、そして芸術 ジャクリーヌ・ベルント編集
山本陽子 「大人げないもの」が発達するとき――相似形としての絵巻とマンガ
石川 透 奈良絵本・絵巻と漫画・アニメ
アダム・L・カーン 黄表紙ーー江戸の自己言及的なマンガ
ロナルド・スチュアート 北沢楽天の「漫画」――「旧派」の「旧き江戸趣味」から離れた新しいものを目指す
三浦 篤 ジャポニスムとマンガをめぐる一考察
佐藤守弘 杉浦日向子と再―想像された江戸
原田平作 近代日本美術史における画家・漫画家・挿絵家――浅井忠・柳瀬正夢・真鍋博の場合
神林恒道 児童マンガの盛衰――田河水泡から手塚治虫へ
森村泰昌 私のマンガ論ノート
佐野明子 「アニメーション」の名称の変遷と「芸術性」について
吉村和真 メジャー誌における実験作の見分け方――あるいはマンガ誌の楽しみ方
前川 修 楳図マンガとマンガの恐怖――ホラー・マンガのアヴァンギャルド
本川弘美 妖を描く――美術史からみた少女マンガ
竹宮恵子 一九七〇年代の少女マンガにおける芸術性への指向とその目的
古永真一 一九六〇年代フランスのマンガ文化――第九芸術への道
加治屋健司 石子順造の知覚論的転回 -マンガ批評を中心に-
吉岡 洋 自生する前衛――つげ義春をめぐって
橋本順光 「芸術家マンガ」試論――マンガの自意識と芸術家像の変容
高橋瑞木 マンガ展の困難について
金澤韻 ――「横山裕一 ネオ漫画の全記録:わたしは時間を描いている」展についてのレポート
ジャクリーヌ・ベルント 「無意味」の「解読」――現代マンガから見た村上隆の絵画