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夏目房之介の「で?」

青虫合宿2011(3)赤本、絵物語ほか

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3)赤本、絵物語ほか

戦中の赤本と「傷つく身体」

 今回、かなり興味深かったのは戦時中の赤本『決死の大空爆』(作家不明 昭和13年)。日本の敵だった中国軍が、蒋介石の映画を鑑賞する場面で、映画タイトルが『蒋チャンの冒険』だったのに笑っていたが、中国兵を殺す「残酷場面」、空爆舞台の編隊の描写の迫力に並び、日本兵が負傷しながら進撃する場面に目をひかれた。

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その兵士は負傷しながらも進撃をやめず、ついに後ろから銃で撃ちぬかれ、直後に爆弾を抱えて自爆攻撃を行って死ぬ。まさに「傷つき死ぬ身体」を「記号的身体」で実現している。手塚の敗戦直前のマンガが初めて「傷つく身体」を描いたわけではなく、問題はその文脈にあるということがわかる。おそらく、こういう例は他にも見出せるのではないかと思う。

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絵物語のコマ

また、世代的に間に合っていなかったので、ほとんど見ていない絵物語の雑誌「冒険活劇文庫」も見た。同じ絵物語でも、雑誌の中で様々な様式で作品ごとに特徴付けていた。いわゆる定型的な絵物語形式もあれば、文章と絵を入れたコマ枠を少しずつ斜めにして組み合わせたもの、かなり複雑で不定形なコマ割りをしたもの、今でいえばほとんどマンガに見えるものなど、多様性があった。

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50年代後半の変化

岩下さんと話したのだが、彼は当時は絵の種類で漫画と絵物語を分けており、絵が挿絵的であれば、コマ割りや吹き出しがマンガ的に見えても、それは絵物語として受容されるという。逆にいえば、現在の「マンガ」というイメージは、表現形式によって決まってきているといっていいのかもしれない。60年代後半以降、表現論的なマンガ観が浸透した結果といえる。

また、岩下さんは57年前後の頃に、少女マンガでもプリティからキュートに少女の顔が変化し、それが現在の少女マンガ・イメージに連なっているという印象を持っている。高橋真琴による人物のコマ上へのスタイル画的割り込みなど、多くの要素が同じ頃に一斉に起こっているのではないか、といっていた。おそらく、それは少年マンガにおいてもいえることではないかと思った(少年雑誌、絵物語からマンガ主流へ=かつて挿絵小説や絵物語が担ったものをマンガがストーリー化する変化とかね)。しかし、どうやって検証するかになると難しいね、と話し合った。

絵物語と紙芝居

「冒険活劇文庫」連載の『黄金バット』が紙芝居だったのは有名だが、読んでみた同誌には、紙芝居の広告があったりして、なるほど繋がっていたんだなと実感した。また、折込のグラビアにあった伊藤彦造の絵は、さすがに見事だった。戦前の挿絵小説とも、きちんと繋がっている。

Photo_6 中央の「画劇文化社」がそれ。

Photo_7 伊藤彦造の絵

絵物語と「忍者」

もう一つ、同誌連載の『飛龍天狗峡』の「あらすじ」には、何と「忍者」という言葉を発見。同誌は昭和24年8月号だったので、忍者ブームの真っ只中ではあるが、作品の印象はあきらかに戦前少年小説系。ここでの絵物語世界には、忍者小説や白土忍者マンガ系のリアリズムは感じられない気がする。

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「青虫」の月

こんなことを発見したりしながら、その場で誰かと話し始めると、他の人も集まり、どんどん議論が進む。マンガ研究者にとっては夢のような状況である。ただ奥田が「いやあ、兄貴、マンガに酔うね、これ」といっていたように、この状態で朝から晩までやっていると、たしかに頭が煮詰まってくる。なので、僕はしばしば外に出て頭をさました(他の人は何でずっといられるのか、僕にはよくわからん)。夕方5時頃、外に出ると、樹上に月がかかっていた。これも醍醐味ですぜ。

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今回は藤本さんの発案で、高野さんにも旅館での夕食や飲み会に参加していただいた。高野さんも、とても嬉しそうにされていて、行ってよかったと思った。もう今年は休館だけど、興味のある人は来年ぜひ。

追伸 その他のこと 『スーパーマン』、バロン吉元、大城のぼる
 カメラのバッテリーが切れて、最後は映像なしでメモしたが、このほかにも、59~60年にかけて少年画報社から出版された『スーパーマン』14冊シリーズのうち、第1巻だけ読んだ。どうやら米国版をそのまま右起こしに反転したか、修正して出版したもの。ライアンが、オリジナルのほうを確認してくれるといってた。表紙には独占契約であることが明示され、奥付には(おそらく)契約書の文面の一部が記されている。

〈アメリカ ナショナル・コミックス・インコーポレーテッド発行に係るすべての出版物の日本語圏に於ける日本語版の版権ならびに商標権は、1958年1月31日付契約に基き株式会社少年画報社がこれを独占的に行使する。〉

あるいは、吉元正(バロン吉元)の貸本『鉄火野郎⑭命乞い』を読んだのち、「週刊漫画アクション」の創刊号の大藪春彦原作、バロン吉元脚色『名のない男』を見ると、完璧にアメコミ的なうまさを獲得していたり。

藤本さんのオススメで、鈴木まこ『タイガーマン』(中村書店 59年)や、獅子重六『バットマン』(同上 同年 ※扉には『鉄腕バットマン』とある)を読む。相当おかしい。タイガーマンは悪い宇宙人で、トラ縞が体にあるだけで、別にトラの顔ではない。空を飛び、登場したあたりで、自分で「ジャーン」とかいうお茶目さがいい。『バットマン』は、表紙であきらかに本家バットマン的な人物ながら、目のマスクはなしで、なぜか和弓を構えている。しかも、宇宙人で飛行し、途中でアトムっぽくなり、鉄人初期型みたいな巨大ロボットと戦う。要するに横山光輝『レッドマスク』(クリプトン星から日本に落ちたスーパーマンと同星人)に近い。この二冊は、みんなで盛り上がった。

あと、昨年読んで、どうしてもその不思議な寂しさが気になる大城のぼる『ロケット・パンチスター』(小学6年生 59年正月号付録)も、もう一度読んでメモをした。岩下さんと、戦前の大城作品にも共通する、世界のレベルが変わる構造について話していると、藤本さんが歌舞伎、浄瑠璃系の近世的説話構造との類似を指摘。わかるけど、僕や岩下さんには、やはり謎が残る。手塚的な現実から夢や異次元への飛躍は、合理的に説明される印象があるが、大城は、どこか奇妙に感じるのだ。たんに近世的説話構造から近代小説(あるいは映画)的合理性へ、というのもあるのかもしれないが、何というか、戦争期との関連もありそうな・・・・・。この違和感、何なんだろうな、ほんとに。

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