オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

「からだの文化2」終了

»

昨日15日は、僕と野村英登氏の研究発表、佐賀から古川英文氏(かつて石川九楊編『書の宇宙』で連載したときの担当者で、エッグファームズでの書の教室の師匠だった書家。佐賀上本丸歴史館副館長)をお呼びして、書のワークショップを開催。無事終了した。

マンガと書を身体性を介してむすびつけるテーマで話したが、なかなか難しいところがあり、研究発表というより気楽な談話という感じにした。続く野村さんは、中国史の中での文字と信仰の変遷を語り、台湾での呪符の書き方教室の映像などを見せてくれた。コックリさんみたいな呪言の書き方があるのも面白かった。

古川さんは、左払いをテーマに、筆の穂の捻れや、墨の染み出し方、なぜ垂直のまま筆を運ぶことが効率的なのかなどを語りつつ、参加者に臨書などを書かせた。何回か、書いた字を無署名で並べて貼り出し、筆の使い方などを解説し、払いを書くときに、つい最後にサッと横にはねてしまうと墨がかすれ、半紙の後ろから見ても墨が薄くなっていることを指摘。これらと身体性をからめて、非常に面白いワークショップだった。

以前、エッグでも習っていたのに、筆の穂先が持つ弾力について、あらためて思い出した。垂直に、捻れのある穂先を紙に落とすと、うまい具合にたわんで、そこに弾力を感じる。この弾力を保持しつつ筆を運ぶことが、安定した墨の出方を作る。捻れをなくし、筆を下に降ろしすぎると、初めて筆を使う人にありがちな、穂先が90度横に出たまま戻らない状態になる。この弾力を、感じながら書く必要があるし、運筆でほどけた捻れはテンセツによって元に戻る。忘れてた。そういえば、キミさんは何度これを言われても覚えられなかったなあ。

古川さんの教え方は、けして「うまい」「へた」だけの基準で語らない。それは彼が「うまく書けない」と感じながら書いている人の字に興味と魅力を感じているからで、結果、技術的なレベルとは別の価値観で書を「見る」ことになる。

また、彼独特の雰囲気は、書道教室的な窮屈さをもたらさない。権威的な価値観から離れて、書法のルール(規則)の必要性、必然性を理論的に説明し、見せるので、一般の書道教室ではありえないだろう場を作り出すことができる。これは、彼の生得的なものもあって、なかなか見出しがたい書論と教授法の実践だと思う。もったいない。また機会が作れればなあ。

前日からの風雨もあり、こりゃ20人も来ないかな、と思ったが、結果は意外に30人を越える参加者に集まっていただき、盛況だった。とくに書のワークショップは好評で、古川さんに、どこかで教えているか聞いている人もいた。エッグでの二代目師匠のヨリちゃんは「書って、体で覚えろっていう世界なので、こういう風にアカデミックに(多分、論理的に、という意味だろうと思う)やらないので面白かったです」といっていた。

終了後は、無料の小パーティ。8時頃まで話して、古川さんと自由が丘に飲み出て、前半は書や草森紳一さん(古川さんが担当していた)、副島種臣などについて、マジメ談義。後半はカラオケで、初対面のお客さんと大盛り上がりで、結局帰宅は12時過ぎていた。

パーティの席で、スタッフをしてくれた学生たちのうち、中国からの留学生張さんは、積極的に未知の来客たちと話していた(ウチの奥さんと太極拳の話をしてたり)。日本の学生たちは自分たちだけで固まってしまう傾向が強いのだが、せっかくの機会なのにもったいないと思う。どこにチャンスが転がっているか、わからないのだから、こういうときは知らない人に話しかけるようにしてほしいな。

追申

以下、当日の僕の発表のレジュメです。

2011.10.15 13:00~14:00 「からだの文化2 書で知るからだ」 「書とマンガ」夏目房之介

1)マンガを描く-読むことの身体性 諌山創『進撃の巨人』①(講談社 2010年)の図【1~3】を例に

A)マンガを「描く」こと(現在、日本でマンガとされる連続コマによる説話様式)

「絵」  線画が多い 筆記具と紙の間で手技が生成する画像

「文字」 セリフ、ナレーション、オノマトペなど、「話」を形成する語り

(文字) 作品化以前のメモ、原作など、直接は作品として目に見えない制作過程

「コマ」 枠線などで囲まれ、作品内の時空を分節する 「話」の時間を空間化し構成する

     目に見えない「案」を最初に可視化 時間を空間化する統辞機構

B)身体性とのかかわり

「絵」  描かれた線、画像の「力み」や「運動」、余白を含めた身体的感覚

     描かれた対象の身体像、及びそれが示す「運動」「生成」「消滅」など、表象された事物の示す身体性(女性や男性の理想化された形象や動作など)

「文字」 描き文字オノマトペなどに顕著な、図像としての文字の「運動」や「方向」感覚

     話を構成するセリフなどの音声的側面(吹き出しの形態)

「コマ」 画像を辿る「読み」のリズム、ハーモニィとしての身体性

C)「読む」こと これらの要素の総合として「読み」が行われ、身体性も一定再現される

    『進撃の巨人』の場合、歪んだ巨人画像の誇張された奥行きに、ひ弱な人間の身体の運動が対比され、読者の身体感覚に揺さぶりをかける

2)マンガの「絵」の意味と逸脱 杉浦茂、佐々木マキを例に

A)マンガの線の「いたずら描き」的な逸脱を示す作家 杉浦茂 図【4】『猿飛佐助』

 絵の意味する指示対象(人間、動物、ウス、ローラー、足や首など)が、線の途中で混じり合い、

「意味」を混乱させる面白さ 「線」→「形」→「意味」(指示性)の生成途中での「揺れ」

B)線の自律的生成 佐々木マキ 図【5】 意味の成り立ちそうな寸前の「絵」の曖昧さ

 それぞれが、かすかなニュアンス以外で結びつかない画像の連続が生むリズム

 線と形が生成する瞬間の「身体性」 線が意味をなす驚き 

C)「へのもへじ」の「遊び」 誰でも描ける文字が「顔」(意味)を構成する

 描く-書くことの「驚き」 逸脱と架橋 「へのへのもへじ」変奏

たとえば「へのへのもへじ」のような落書きには、線が勝手にもってしまう記号性のおかしさ

みたいなものがある。それは〈絵〉であるというより、簡単な線のかたちづくる記号がいつのまに

か〈顔〉を意味してしまうことの驚きとか、現実のそれとは似ても似つかないのにちゃんと顔に見

えるという距離感や落差の、奇妙な感覚の面白さなのである。[]この落書き記号は、その本質か

らして模倣を好む。〉夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房 1992年 文庫版80p

3)模写マンガ批評と臨書 石川九楊の書論

A)模写によるマンガ批評

すくなくとも僕が模写した五〇年代の手塚の描線は、描こうとする〈世界〉を完璧にそのなかに実現し、閉じ込めようとする権力意志にみちていたように見える。それは世界をなぞって封じこめるために、内側へ、中心へと、まるっこく閉じようとしていた。/このことは〈物語〉の完結性と関係があるように思える。[]具体的に手塚の線をなぞってもらわないと、ここでいおうとすることはわかりにくいかもしれない。/線をなぞるとき、描く手の筋肉のつきかたやら、ある種の慣性によって、描きやすい方向とそうでない方向がある。簡単にいえば、ペンで下から上に線を描くというのはむずかしい。それをこまかに模写してたどってゆくと、どこで無理しながら一所懸命描いているのかがわかる。どこで力を抜き、ペンを流しているかも、ほぼわかるのである【図版28】。〉夏目前掲書 88~90p 図【6

B)石川九楊の評

手塚治虫の漫画を分析する夏目房之介のこの論は、もはや立派な書論であり臨書論である。[]/ここでの模写とは、書で言えば、古典を傍らに置いて、それを模写することによって古典の世界を手を通して学び、書史を手に組織する営為である臨書である。〉石川九楊『書とはどういう芸術か 筆蝕の美学』(中央公論 1994年)31p

C)筆蝕

「書きぶり」である筆蝕は、筆記具の尖端と紙の関係に生じ、筆蝕は二つの要素から成り立つ。書き手から筆尖に加えられる力と対象から反撥する力を筆尖から逆に感じながら書き進む関係に生じる摩擦、筆触(触)が第一。[]通常その筆触は目で見ることによって絶えず微調整され、制御されているから、その墨跡(蝕)を視認することが第二。第一の「触」と第二の「蝕」の両者を併せた概念がここでいう「筆蝕」である。〉石川前掲書 33p

D)模写と臨書 共通点=「描く」「書く」ことの手-筆記具-紙に生じる身体性への注目

そこで生成する「表現」の実感 鑑賞の手ごたえ 記号成立以前の「絵」「文字」の身体性

4)書の身体性

A)刻まれた文字(石鼓文)の自在な運動感覚 図【7】 杉浦茂的な「無重力」的展開

B)筆の誕生と木簡の音声 図【8】 文字の意味とは別の、筆による造形としての運動

 文字を「書く」ことのリズム→声を張ったり伸ばしたりする感覚に似た強調

C)黄庭堅の「一」と二つの運動 図【9】 筆の上下動による直線と曲線 揺らぐ感覚

 右への運筆と上下動一致→固定維持する部分(直線)と揺らぐ部分(曲線)を同時進行

 スポーツ、武術、舞踊の動きにも通じる身体運動の制御

D)夏目漱石「夜静庭寒」の寸止め感 図【10】 転折などの「運動」の抑制

 暴れる運筆を抑え、決定的な「動き」を見せる寸前で消える太極拳的な感覚

紙と墨だけのシンプルな痕跡に反映する「動き」「奥行き」 → 筆の自在さと制御、偶発性を引き出しつつ全体を統御構成する営為に、身体全体の中心と手先の運動が重ねられ、書の運動感覚が生成する → 絵、スポーツ、武術、舞踊、音楽などを連想する身体の運動性 

図版

図【1~3】諌山創『進撃の巨人』①(講談社 2010年)

図【4】 杉浦茂『猿飛佐助』(ペップ出版 1987年 復刻再編集版)

図【5】 佐々木マキ「かなしいまっくす」(1969年) 佐々木マキ『うみべのまち 佐々木マキのマンガ1967-81』(太田出版 2011年)138~9p

図【6】 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房 1992年)文庫版89p

図【7】 石鼓文(中国周時代) 夏目房之介『書って何だろう』(二玄社 2010年) 12p

図【8】 居延漢簡(中国後漢時代) 同上 18~9p

図【9】 黄庭堅「伏波神詞詩巻」(中国北宋時代) 同上 87p

図【10】 夏目漱石「夜静庭寒」(大正5年頃) 「墨スペシャル」臨時増刊「文人 夏目漱石」(芸術新潮社 1994年)45p

Comment(0)